三十五話 唯の抱える闇 二
大地を裂いて現れた白龍は、ルビーの瞳で舞を射抜いた。
『……彼女は操られているのですね。可哀想に』
伝説の存在を前に唯は腰を抜かし、震える声で叫ぶ。
「お、お願い、ドラゴンさん……お姉ちゃんを助けて!」
しかし龍は慈愛に満ちた瞳とは裏腹に冷静に現実を告げる。
『──あれはもう吸血鬼の使い魔です』
舞は嘲笑し、爪を振りかざして唯へ迫る。
その瞬間、白龍の口から迸ったのは──純白の炎。
霧のように広がる白炎は、触れたものを瞬時に焼き尽くす浄化の火だ。
瞬時に舞の身体を包み込むと、触れた皮膚は青から黒へと変色し、喉を焼かれた声は絶叫に変わった。
『うあぁぁぁぁアアッ!!』
白炎に灼かれた舞はのたうち回り、煙を上げながら崩れ落ちる。瀕死の姿に変わり果てても、憎悪の瞳だけは唯を捕らえ続けていた。
『其れ位にして下さい』
全身の皮膚が焼かれ、もはや立ち上がることすら難しい舞が動いた瞬間、背後の空間が黒く歪み銀髪の青年が音もなく現れた。
「まさか混血児が白龍まで召喚するとは……少し侮っていました。帰りますよ」
腰を抜かして動けない唯が震える声で問いかける。
「あ、あなたは……誰……?」
青年は答えず、傷ついた舞を片腕に抱き上げる。その仕草は恐ろしく優雅で、まるで壊れ物を扱うように繊細だった。
白龍が唯を庇うように立ちはだかり、白炎のブレスを吐こうとする。
『──あれは吸血鬼。今のあなたでは勝ち目はありません』
白龍の言葉にノエルは僅かに口元を緩めた。
「僕はただ使い魔を回収に来ただけです。では、さようなら。──次はありませんよ」
漆黒のマントが広がり、舞を優しく包み込む。
冷酷な瞳のまま、ノエルは涙に濡れた舞の頬を指先で撫でる。その仕草は甘美でありながら、底知れぬ威圧を孕んでいた。
『ノエルサマ……』
「……こんな場所で死なれては困ります。……帰りますよ」
舞がノエルと共に闇の空間へと消えていった瞬間──唯はその場にがくりと崩れ落ちた。
「……お姉ちゃん……」
声にならない声が喉で途切れ、涙だけが頬を伝う。自分が姉に嫌われていたこと、大好きな姉を魔物に奪われた現実を受け止められず、ただ呆然と空虚を見つめるしかなかった。
『白龍、唯の過去に干渉したことで彼女の未来やお姉さんとの関係性が変わるのか?』
遥の心の聲に、白龍はルビー色の瞳を少しだけ柔らかくさせて言葉を紡いだ。
『混血児、貴方の心配は無意味です。此処は精神世界の深層部。ひとが眠っているときに見る〈夢〉です。言い換えるとしたら〈悪夢〉でしょうか』
悪夢、と言われて妙に納得した。
遥もまたウィルが毎日心臓を穿たれる夢に魘されていたのだから。
『彼女の事は私にお任せ下さい。貴方をシヴァの下に戻します』
唯が言葉を失い涙に沈む姿を見て、白龍もこの精神世界の危うさを理解しているのだろう。
ルビーの瞳から放たれた白い光が、セピア色だった遥の視界をさらに真っ白に染める。
刹那、実体のない〈意識〉が現実に引き戻されるという不思議な感覚が、遥を包み込んだ。
◇
──ルカ
──ハルカ
──遥君っ……!
唯の叫び声に呼び戻され、遥の意識はシヴァに首を絞められ氷漬けにされた場所へと戻った。
次の瞬間、体内から奔流のような力が爆発し、全身を覆っていた氷は音もなく砕け散る。
「遥君っ……!」
『やっと戻ってきおったか』
精神世界の深層から帰還した遥を見て、唯とウンディーネは安堵の息を漏らす。
遥は両手足の自由を確かめると、目の前に立つシヴァを鋭く睨みつけた。
「貴女の目的はわからない……でも、俺は唯とウンディーネを守る!」
シヴァは嘲笑し、四本の腕から氷の球を編み出す。
だが、その軌道は──覚醒した遥にはすべて視えていた。
氷の弾道を瞬時に読み切り、遥は一歩も退かずに立ち向かう。
戦闘において混血児は一度見た技を二度と許さない。それを「偶然だ」と思い込んでいた遥は、今まさに自らの血に眠る力へと目覚めつつあった。
大量に放たれる氷の刃を、彼はグラディウスで次々とへし折り、光の残像を残しながら前へ進む。
驚愕したのはシヴァの方だ。先ほどまで追い詰められていた少年が、今や別人のように立ちはだかっている。
『まさか……血の覚醒。さすが始祖様の御子息』
覚醒した遥の瞳は、左目だけが紅く燃えていた。
それは吸血鬼の血に目覚めた証──だが片目だけの紅は、まだ〈ひと〉としての自我を残している証拠でもある。
「深淵に眠りし白き双龍よ、冷酷な凍氷で全てを無へと孵せ……【ホワイトドラゴン】」
左手首の赤い薔薇の紋章が輝き、白い光がシヴァへと奔る。視界を奪われた彼女が顔を覆う間に、大地が揺れ裂け、白龍が唯の精神世界同様に再び姿を現した。
ルビーの瞳は真っ直ぐにシヴァを捉え、口から吐き出された白炎が空間を白く染める。
『氷界盾』
しかし、瞬時に編まれたシヴァの氷の盾は焼き壊された。召喚される龍の強さは術者の潜在魔力に依存する。
精霊の中でも五指に数えられるシヴァの盾を容易く破壊した白龍。その力を呼び出した遥の魔力は計り知れない。
だが、遥自身はその事実に震えていた。
「……これが、俺の力……?」
紅い薔薇の紋章が脈打つたび、血が疼く。
ひととしての自我と、化け物としての覚醒がせめぎ合い、彼の心を引き裂いていく。
『ぐっ……う、ああああっ!』
白炎に焼かれたシヴァは、右手から古ぼけた杖を取り出した。
先端の赤い宝石が脈打つように輝き、白炎を瞬時に吸い込み、まるで生き物のように喰らい尽くす。
白龍がその光景に目を細めた。
『……あれは聖者の杖。本来は聖なる神器ですが、魔力を吸い上げ邪悪な力へと転じる呪われた武器です』
「どうすれば……」
『シヴァにとって最高の相性。ハルカ様、決して油断してはなりません』
遥は初めて見るその異様な神器に息を呑み、グラディウスを構え直した。
『ふ、は、ははは……まさか、私に此れを使わせるとはな……さぁ、全て吸い尽くし、我が力となれ!』
赤い宝石が鼓動のように震え、周囲の魔力を吸い上げて空気までも黒い瘴気へと変えていく。
その光はもはや聖なるものではなく、精霊界の理を歪めるほどの邪悪な力を孕んでいた。




