三十四話 唯の抱える闇
(また、セピア色の光景だ)
千秋の精神世界深部に入った時と同じ、色彩を失った世界。
遥は思念体となり、肉体を持たない。だが「動け」と念じるだけで視線は滑るように動いた。
視界に入ったのは唯だった。
「唯」
「お姉ちゃん!」
遥が声をかける前に、精神世界に唐突に浮かび上がってきたのは姉の舞だった。
大好きな姉の腕に抱かれ、唯は心底楽しそうに微笑んでいる。
無垢な笑顔──その光景だけを見れば、舞の存在が闇であるはずがないと思えた。だが次の瞬間、舞の表情がゆっくりと歪み始める。
頬の肌は青く変色し、鱗が浮かび上がり硬質な皮膚へと変わる。口元からは鋭い二本の牙が覗き、赤く塗られた爪先には毒が滴るように光っていた。
──半死人だ。
『唯……! 姉さんから離れろ!』
遥の叫びが精神世界に響く。
だが唯はまだ舞の腕の中にいて、恐怖を知らぬまま笑顔を浮かべていた。その無防備さが、逆に遥の胸を締め付ける。
舞の瞳は次第に濁り、姉の優しさを宿していたはずの光は消え去る。代わりに宿ったのは、獲物を狙う怪物の冷たい眼差し。
その鋭い爪が唯の肩へとゆっくり伸びていく──。
『唯! 離れろっ!』
「誰……?」
もう一度聞こえてきた遥の聲に驚いた唯は、びくりと肩を震わせて無意識に舞の腕から離れた。
その瞬間、唯の制服が鋭利な刃物で裂かれたように、はらりと風に舞い散る。
「お、姉ちゃん……?」
『まさか、こんな場所に混血児がいるなんて……』
舞は口元にニヤリと笑みを浮かべ、鋭い爪を唯へと振りかざす。
反射神経の良い唯は紙一重でその爪撃を躱すが、頬を掠める冷気に思わず息を呑んだ。
「お姉ちゃんっ! ど、どうしたの? 何でっ……!」
『フフ……唯。あなたは若き聖乙女の血を持っているんですって。私ではなく、貴女が……』
舞の瞳が細められ、そこに宿るのはわずかな寂しさ。だが次の瞬間、両手の爪をクロスさせ、皮膚が硬質な鱗のように変化していく。
その姿は、かつて優しかった姉の面影を完全に塗り潰す怪物のものだった。
唯は状況を呑み込めず、怯えたまま尻もちをつき、首を左右に振る。
「いやだ……お姉ちゃん……やめて……!」
ジリジリと距離を詰めていく舞。
地面を踏みつける足音はセピア色の過去を切り裂き、唯の心臓を締め付けるように響いていた。
『ワタシハ、ノエルサマニミトメラレナカッタッ!!』
「い、いやあっ!」
鋭い舞の爪撃が地面に深くめり込んだ瞬間、唯は身を翻してさらに彼女から離れた。
──逃げないと殺される。唯の本能がそう告げた。
何とか逃げ道を探そうと唯は視線を動かす。
だがセピア色の精神世界には、出口も景色も存在しない。
ただ灰色に沈んだ虚無が広がるばかりだった。
『ゆい……私と変わって? ワタシハ、ノエルサマと……』
舞の声は歪み、醜く変貌した容姿はもはや人間のものではなかった。
青黒い皮膚に血管が浮かび、牙が覗くその姿を見た唯は、恐怖に震えながら後ずさる。
「やだ……私は、死ねない。お姉ちゃんは大好きだけど、私はまだ……!」
必死の拒絶が震える声となって漏れる。
だが舞の瞳は執念に濁り、爪がゆっくりと唯へ伸びていく。
その時──遥の心の聲が再び響いた。
『唯……お姉さんを説得するんだ。その心にまだ残っている“姉の舞”を呼び戻せ!』
唯は涙に濡れた瞳で舞を見上げる。
恐怖に押し潰されそうになりながらも、胸の奥から絞り出すように声を放った。
「優しいお姉ちゃんに戻って! 化け物に負けないで!」
『混血児、余計な事をっ! 私は唯を始末してノエル様に、寵愛を──』
「そんなの……お姉ちゃんじゃないっ!」
『──私は唯が大嫌い。いつも“お姉ちゃんだから”って我慢させられて、褒められるのは唯ばかり。唯は可愛くて、みんなから愛されていた。友達も先生も、家族さえも……みんな、みんな唯が大好きで……私はいつも、影に追いやられていたのよ!』
「お、お姉ちゃん……」
唯は顔色を失い、胸の奥が締め付けられる。
思い返せば、友達が居ない寂しい幼少時代、舞はずっと側にいてくれた。
ニコニコ優しい姉、そしていつも無条件に甘やかしてくれる姉の友人達。
唯にとっては居心地のいい空気であり、当たり前のように享受していた。
だが──その「当たり前」は舞にとっては苦痛だった。笑顔の裏で、舞はずっと嫉妬に苛まれていたのだ。
「姉だから」と押し付けられる役割と、唯だけが愛される現実。その積み重ねが、今の歪んだ心を生み出したのだろう。
『ノエル様は違うのよ! あの御方は私を愛してくださる。私が、若き聖乙女の血を手に入れれば、寵愛も、力も、全てが私のものに!』
舞は天を仰ぎ、うっとりと恍惚の笑みを浮かべる。
その黒き瞳は紅へと染まり、狂気の炎が宿る。
声は次第に叫びへと変わり、精神世界全体を震わせる。
『唯……お前さえいなければ。お前さえ……!』
その狂気に満ちた叫びが響く中、遥の頭にウンディーネの声が鋭く届いた。
──妾の力を使え。
『唯……この詞を、そのまま紡げ……!』
「深淵に眠りし白き双龍よ──冷酷な凍氷で全てを無へと孵せ……【ホワイトドラゴン】!」
唯は遥と一体化し、左手を天へと掲げる。
詠唱の瞬間、閉ざされていた空間が轟音と共に震え、地鳴りが走った。
大地は裂け、亀裂から蒼白の光が迸る。
「きゃああっ!」
舞と唯は振動に耐え切れず地面に座り込み、視界を覆う光に目を細めた。
空間の裂け目から、純白の細龍がゆるやかに姿を現す。
鱗は氷の結晶のように輝き、双眸は蒼天を映す。その存在は見る者を魅了し、神話の具現のように荘厳であった。
龍が咆哮を放つと、舞の狂気の叫びさえ掻き消される。
唯の胸に宿った恐怖は、次第に希望へと変わっていった。




