三十三話 唯の精神世界 五
蒼龍の背に乗り、闇氷の女王の気を追う。
眼下に広がる白銀の山脈は静まり返り、ただ氷の風だけが耳を裂く。
その中で、遥は小さな洞窟から異様な気配を感じ取った。
「ウンディーネ、その下から何か……強烈なものを感じます」
『ほぅ……さすが混血児。姉上の気を読めるか』
次の瞬間、蒼龍は突如急降下した。
遥も唯も叫ぶ暇さえなく、冷気が喉を焼き、視界が白に塗り潰される。
心臓が鷲掴みにされたような圧迫感──それは確かに、シヴァの気配だった。
降り立った場所は吊り橋を越えた先、聳える白銀の山のさらに奥に口を開ける小さな洞窟。
だがその入口からは、氷の匂いと共に、魂を凍らせるような圧が溢れ出していた。
「……ここに、いる」
洞窟の奥から放たれる気配は、疑いようもなくシヴァのもの。
本体が氷漬けとなっているだけではない──術者そのものが待ち構えている。
遥の背筋を冷たい汗が伝い、唯は思わず彼の腕を強く握りしめた。
「さ、寒っ……」
闇氷の女王の周囲は洞窟の内部であっても冷凍庫のように冷え切っていた。
一歩踏み出すたびに靴底が氷を軋ませ、鼻を啜れば鼻腔の奥が凍りつくような感覚に襲われる。
遥は隣を歩く薄い羽衣の唯に視線を向けた。
「唯は、寒くないの?」
「全然。むしろ、丁度いいのよ」
『当然だ。妾の魔力で編み出したものぞ。人間の体温に合わせ、外気を調節するのじゃ』
蒼龍となっているウンディーネが鼻を鳴らした直後、洞窟の奥から凛とした声が響き渡る。
氷の壁を震わせるその声は、まるで魂を凍らせる呪詛のようだった。
『侵入者を始末なさい──〈蒼氷の槍〉』
瞬間、洞窟の天井から蒼い光が走り、鋭い氷の槍が次々と形成される。
それらは重力に従うよりも早く、意志を持つかのように遥たちへと殺到した。
「──っ!」
遥は反射的にグラディウスを振り翳し、迫り来る氷の槍を弾き飛ばす。
金属音と氷の砕ける音が洞窟に反響し、破片が床に散らばった。
だが安堵する暇はなかった。砕けた氷は地面に落ちてもなおも蠢き、まるで生き物のように形を変えて再び槍と化しこちらへ迫ってくる。
「な、何だこれ……!」
『ハルカ、避けろ!』
ウンディーネの声が鋭く響き、遥の背筋を冷たい恐怖が走った。
蒼龍の放つ蒼い炎が氷の槍を溶かした後、クスクスと楽しげな笑い声が洞窟に響き渡り、鼓膜を鋭く刺激する。
『ふふ……無様な姿ねぇ、ウンディーネ』
天井の空間がぐにゃりと歪み、そこから姿を現したのは青白い肌に四本の腕を持つ精霊。
その瞳は冷酷に光り、声には高圧的な響きが宿っていた。
ウンディーネは蒼龍の姿のまま、鋭い眼差しで相手を睨みつける。
『姉上……お主は何故、このような事を』
『あんたがティエノフ家に逆らったからよ。主人のために邪魔な混血児は、ここで死んでもらう』
その言葉は氷刃のように鋭く、洞窟の空気をさらに凍りつかせる。
しかし、彼女の姿はどこか違和感が残った。
かつて書物で見たシヴァとは明らかに違う。目の前の彼女からは禍々しさだけでなく、どこか悲壮な影が漂っている。
この圧倒的な力の裏に、何者かの操りがあるのではないか? そんな疑念が胸を締め付けた。
『さあ、覚悟なさい。混血児』
氷の弾丸が次々と放たれ、洞窟の空気を裂く鋭い音が響き渡る。
ウンディーネは唯を守るために後方へ下がり、戦場に立つのは遥ひとり。
世界を破滅させる事が出来る力を持つ精霊と戦う術など知らない──だが、ここで退けば唯が死ぬ。
遥はグラディウスを握りしめ、全身の血が沸騰するような熱を帯びるのを感じていた。
──力を。
俺に、力を……!
心臓が暴れるように鳴り、ドクドクと耳を塞ぐほどの音が頭蓋に響く。
氷の刃が瞳に迫る刹那、左手首に浮かぶ赤い薔薇の紋章が脈打ち、眩い光を放った。
花弁の紋が震え、まるで生き物のように血潮を吸い上げる。
──ハルカ、妾の力を使うのじゃ。
脳に直接響くウンディーネの声。慈愛に満ちたその響きに、遥の唇が勝手に動く。
もう一体の精霊が奏でる古の言葉が、まるで呪文のように零れ落ちる。
「……深淵に眠りし冷酷な凍氷よ──
悪しき魂を穿ち、蒼き息吹となりて顕現せよ!
蒼氷の息吹っ!」
詠唱の言葉が洞窟の壁を震わせ、空気そのものが凍りつくような緊張を孕む。
次の瞬間、遥の身体から蒼い煙が爆ぜるように迸り、氷の刃を触れる間もなく蒸発させた。
蒼煙は渦を巻き、鋭い光を帯びながら形を変える。
やがてそれは一振りの剣となり、蒼龍の咆哮を思わせる轟音と共にシヴァへと突き進む。
『……ほぅ、やるではないか。だが──』
シヴァの四本の腕が広がり、禍々しい氷の障壁が立ち塞がる。
蒼氷の剣と氷壁が激突した瞬間、洞窟全体が震え、氷柱が次々と砕け落ちた。
遥の瞳は赤く燃え、赤い薔薇の紋章がさらに強い光を放っていた。
『チッ……!』
シヴァは片手で蒼煙を振り払い、空中で優雅にターンして態勢を整えようとした。
しかし、その煙に紛れていた遥の影に気づくことはなかった。
グラディウスを握る遥は、迷いを捨てた瞳で一直線に踏み込み、 その短剣をシヴァの肩口へと躊躇なく突き刺す。
『小癪な!』
美しい顔を歪めたシヴァの口から、怒気を孕んだ声が洞窟を震わせる。
四本の腕のうち右腕が鋭く振り翳され、氷刃のような爪が遥を切り裂こうと迫った。
「──っ!」
遥は紙一重で身を捻り、頬を掠める冷気を感じながら攻撃を躱す。
氷の爪が背後の岩壁を抉り、粉雪のような破片が舞い散った。
息を荒げながらも、遥はグラディウスを握り直す。 次の一撃の機を逃せば、即座に命を奪われる──その緊張が全身を支配する。
彼の瞳は鋭くシヴァを捉え、第二撃のタイミングを伺っていた。
「……もうやめよう、シヴァ。姉妹で互いを傷つけても、残るのは悲しみだけだ。貴女が本気でウンディーネを殺すつもりじゃないことは……俺には分かる」
『──ッ』
「その瞳に宿る哀しみが、そう語っている。だから戦う理由なんて無いはずだ」
『……ふ、ふふ……甘いよ、混血児』
シヴァのサファイアの瞳が一瞬だけ揺らぎ、哀愁の影を宿す。
その迷いは確かに存在したかのように見えたが、次の瞬間、冷たい手が遥の首を締め上げた。
「くっ──!?」
氷の魔力が血管を凍らせ、息が奪われていく。 遥の身体は宙に浮かされ、完全に抗う術を失った。
「ぐっ……がっ……!」
遥の首を締め上げるシヴァの瞳の奥には、確かに迷いが残っていた。
怒りと悲しみの狭間で揺れる光──それは救済の可能性を示す微かな兆しとも言える。
意識が闇に沈む刹那、唯の悲痛な叫びが遠くで響いたような気がした……。




