三十二話 唯の精神世界 四
不慣れな召喚により体力の殆どを失い、完全に気絶している遥。
そんな彼に蒼龍は慈愛に満ちた瞳を向けていた。
『ふむ……ハルカ=グレイスか。此奴も悲運を背負うものよの。混血児でありながら、人間のために戦うとは……』
『水の女神様、なぜ龍のお姿を?』
アープは困惑しながらも、敬意を込めて問いかける。
しかし期待した返答は返ってこなかった。
『妾は魂を氷で封じられておるゆえ、実体を持たぬ。姉上が暴れておる今、妾は器を必要とした。ゆえに、この蒼龍の身を借りておるのじゃ』
『でしたら、まずはウンディーネ様の御身を取り戻すために、闇氷の女王様にお会いすべきでは?』
アープは必死に提案するが、その声には焦りと苛立ちが混じっていた。
それでもウンディーネへの敬意は崩さない。
『姉上の居場所は定かではない。──それよりも急げ。黒薔薇の蔦を断たねば、あの人間は死ぬぞ』
二体が見つめる先には、真っ白に染まった唯の姿と気絶している遥。
妖精のアープと、実体を持たぬウンディーネ。どちらも人間に直接干渉はできない。ならば、とアープは覚悟を決めた。
『ハルカ様に、私の命を。どうせバカみたいに突っ込むんですから、私が支えなきゃ駄目なんです』
『──わかった。妾がその願いを受け入れよう』
アープは決意を込めて力強く飛び立ち、龍の顔前まで近づく。
自分の体長ほどもある鼻頭に、小さな手のひらをあてがう。そして自らの命と引き換えに、強大なウンディーネの能力をその身に一時的に宿した。
全ては、主人の宝を守る為に──。
『ハルカ様……ほんと、バカなんだから。でもそんな貴方だから、守りたいって思っちゃったのよ。もっとお話ししたかったけど、仕方ないね。これも〈運命〉だから』
龍の鱗の上で意識を失っている遥。その白い頰をアープの指先がそっと撫でる。
そしてそのまま瞳を閉じ、詠唱を始めた。
精霊の詞が響くと、吹雪はピタリと止み、暖かな太陽の光が天空から差し込んでくる。
アープの身体が少しずつ生命の光を失い、薄くなっていく。
対照的に、遥の身体は力強い光を放ち始めた。
『──生命転換っ!』
詠唱と共に、アープは弾ける光の粒子となって空気中に溶けた。
きらきらと雪の中に消えてゆくその光──ウンディーネだけが、彼女の魂の最期に宿る「毒舌の優しさ」を感じ取っていた。
──目覚めるのじゃ、ハルカ。
頭の中で直接響く声。導かれるようにゆっくりと瞳を開くと、先ほど召喚した蒼龍がまだ実在している事にまず驚く。
距離を取ろうとした遥を見た龍は鼻息を荒げた。
『妾は水の女神。お主らが豊穣の女神と謳っていた精霊ぞ』
「貴女が、ウンディーネ……あれ……?」
遥は思わず視線を彷徨わせる。先ほどまで隣にいたはずのアープの姿が見えない。
もしや、と胸の奥がきゅっと締め付けられ、声を呼ぼうとしても喉が震えるだけで言葉にならなかった。
彼女の小さな笑顔や毒舌が脳裏に浮かび、心臓が痛むほどに寂しさが押し寄せる。
遥の意図を察し、沈黙を先に破ったのはウンディーネだった。
『奴は元の世界に孵った』
「……そう、ですか」
遥は唇を噛み、視線を落とす。その答えが正しいと分かっていても、胸の空虚さは消えなかった。
彼女に声をかけることも、お礼を言うことも出来なかった。突然の別れに心を乱されながらも、遥は目の前の現実に引き戻される。
『アープの死を無駄にするな。ハルカよ、お主にはやることがあるじゃろう?』
時は止まらない。黒薔薇の蔦に捕らえられ、今にも命を落としそうな唯がそこにいた。
グラディウスを振り翳すと、ザッザッと軽快な音と共に蔦は驚くほど容易く切り裂かれる。どうやらリリスが消えたことで、その力は弱まっていたのだろう。
支えを失い、ぐったりと倒れてきた唯を遥は両腕でしっかと抱きとめる。
血の気を失った顔、紫色に染まった唇──しかし耳を澄ませば心音はまだ確かに刻まれていた。 その鼓動に安堵しつつも、焦燥に駆られ、遥は懐から特効薬を取り出す。
緑色の液体は毒々しく濁り、鼻を劈くような薬草の匂いが立ち上る。
「……唯、頑張って飲めよ」
後頭部を支えながら小瓶の口を唇にあてがう。
だが意識のない彼女の喉は動かず、液は零れ落ちて顎を濡らす。
遥は必死に呼びかけながら、どうにか一滴でも体内に入れようと焦りを募らせた。
「……仕方がない」
意を決してその不味そうな特効薬を口に含み、唯の顎を押さえて喉の奥へと流し込む。
──数秒後、彼女の喉がコクリと小さく動いた。
唯が薬を飲んだことを確認し、遥はゆっくりと唇を離す。まだ口内に残る苦さを袖で拭いながら、安堵の息を漏らす。
「う、うぅ……ん」
「唯、気がついたか?」
覗き込む遥に、唯は一瞬だけ安堵の表情を見せる。
しかし次の瞬間、彼女の小さな唇から放たれたのは鼓膜を突き破るような悲鳴だった。
「き、きゃああああああっ!」
遥は目を丸くし、何が起きたのか理解できずに固まる。
だが唯が太股を寄せ、両腕で胸元を必死に隠す様子を見て──ようやく彼女が裸であることに気づいた。
「な、なんで……っ!? ちょ、ちょっと待て唯、俺は何も──!」
狼狽する遥と、羞恥に震える唯。
救命の安堵は一瞬にして気まずさへと変わり、場の空気は奇妙な緊張に包まれた。
「ご、ごめんっ!」
真っ赤になった遥は、自分が着ていたブレザーを唯の胸元にそっとかけた。
『その格好では凍死してしまうじゃろう』
ウンディーネは静かに声をかけ、ブレザーだけを羽織った唯を龍の鼻先へと導く。
怖いもの知らずな唯は、状況を呑み込めぬまま手を伸ばし龍の鼻に触れた。
「わっ!」
瞬間、暖かな風が彼女を包み込む。
風はやがて淡い水色の光へと変わり、身体に沿って密着しながら女神の羽衣へと形を成した。
その羽衣は遥にかけられたアープの術と同じく重さを持たず、雪に触れても濡れることはない。
まるで神話の祝福を受けたかのように、唯の輪郭は柔らかな光に縁取られていた。
「凄い……魔法使いになった気分」
唯は嬉しそうに声を弾ませ、無邪気にくるりとターンして見せる。その姿に、遥は思わず息を呑み、ウンディーネは慈愛の眼差しを深めた。
『ハルカよ、お主らを早く現実世界に還してやりたいのじゃが、妾も実体が無い今、門を開く事が出来ぬ』
「……分かっています。シヴァを探します。そして、ウンディーネ……貴女を元の姿に」
唯を救った今、遥らが精神世界に留まる理由はないのだが、帰る術は閉ざされている。現実へ戻るには、ウンディーネの実体を取り戻すしかないのだ。
しかし、相手は氷の精霊──勝てる相手とは到底思えないが、やるしかない。
迷いのない遥の瞳を見て、ウンディーネは静かに顎を動かす。
背中に乗れ──その仕草は、女神の威厳と慈愛を併せ持つものだった。
遥は唯を抱きかかえ、深く息を吸う。
「行こう……シヴァのもとへ」
蒼龍の背に二人が乗ると、白銀の空が裂ける。
その先に待つのは、氷の女王との邂逅──そして、新たな運命の扉だった。




