三十一話 唯の精神世界 三
遥は今にも落ちそうな吊り橋を何とか渡り終え、凍てつく吹雪で震える足をさらに前へと進めた。
さらに視線の先に広がった光景に、思わず息を呑む。
黒い薔薇の蔦に全身を絡め取られ、身動きできずにいる唯。その苦しげな姿を、唇の端を吊り上げて楽しそうに見下ろす夢魔。
さらにその横には、黒いローブと深いフードを被った者が二体、無言のまま立ち尽くしていた。
雪の静寂の中、彼らの存在だけが異様な圧を放っている。
「さぁて、貴女の若き聖乙女の血はどんな味がするのかしらね」
「いや、いや……!」
肩で喘ぐ唯の顎を無造作に掴んだ。 その爪先が白い肌に食い込み、血の匂いがわずかに漂う。
「アスラ様……。アタシがこの娘を捧げれば、きっと微笑んでくださる。その御手で撫でてくださる……あぁ、それだけで、アタシはもっと強く、美しくなれる……!」
リリスの瞳はうっとりと細められ、唯を見下ろすその顔は苦痛を与える者のものではなく、愛に酔う女のものだった。
彼女の吐息は蕩けるようき甘く、しかし冷酷に雪の空気を震わせる。
「あぁ、愛しのアスラ様……どうか、あたしを見ていて……」
『リリス様、此奴を殺してしまってはなりませぬ。若き聖乙女の血は生きている状態こそが最大の効果を──』
「そんな事いちいち言われなくても解ってるさ。ところで、門は開いたのかい?」
『はっ……それが、水の女神が邪魔をしており、なかなか……』
「そうかい。んふふ……お嬢ちゃん、少しだけお前の命が延びただけさ」
リリスは楽しげに笑うと、唯の顎を掴んだままぐいと持ち上げる。薔薇の蔦がさらに彼女の身体を締め付け、肌に食い込み、赤い線を刻んでいく。
「その苦しそうな顔……あぁ、アスラ様に捧げる前にもっと綺麗に歪ませてあげたいわ」
彼女は爪先で唯の頬をなぞり、わざと傷を浅く刻む。血の一滴が雪に落ちるたび、リリスはうっとりと目を細めた。
殺さぬままに嬲るその仕草は、愛に酔った女の残酷な戯れに過ぎなかった。
しかしその戯れも突如放たれた蒼い炎によって遮られる。
「天を衝く怒りの焔よ、悔恨までも灼き尽くせ……蒼き双獄!」
蒼い炎の球は瞬く間に火柱へと変わり、轟音と共に雪を焼き尽くす。
唯を傷つけられたことで、遥の胸奥に渦巻く怒りは魔力へと直結し、血が沸き立つような熱を全身に巡らせていた。
手首の赤い薔薇の紋章が眩く輝き、左右から放たれた蒼炎の柱がリリスを完全に包囲した。熱風が吹き荒れ、空気さえ震える。
しかし、リリスは一歩も動かず、右手で円を描くように軽く振った。うっすらと細められた瞳には恐れの影などなく、むしろ愉悦の光が宿っていた。
「残〜念。不滅の陣」
リリスが作り上げた黒い炎の円に、遥の放った蒼い火柱はみるみる呑み込まれていく。
驚愕に目を丸める遥の様子を見て、彼女は唇の端を吊り上げて笑った。
「成長する能力は本当に厄介だこと。芽は早い内に潰すに限るねぇ。門が開くまで、たっぷり遊んでやろうじゃないか」
漆黒の羽を広げると、リリスは懐から円月輪を取り出す。
その刃を指先で撫で、わざと耳障りな金属音を響かせた。
「この音、嫌い? でもねぇ……アタシは大好きなの。血肉を裂く瞬間を想像するだけで、身体が震えるのよ」
彼女の瞳は愉悦に濡れ、唯を苦しめた時の残酷な笑みと同じものが浮かんでいた。
千秋の精神世界で見せた姿とは違い、今のリリスは完全に戦闘に酔いしれた悪魔そのものだった。
『ちょ、ちょっと! どうして貴方は何も考えずに突っ込むのよ! リリスはアスラが扱う使い魔の中でも片腕に近い存在なのよ。そんなのに正面から挑むなんてほんと、バカなんだから!』
アープは慌てて小言をぶつけながらも、遥の全身から迸る怒りの蒼い気を見て、言葉を飲み込んだ。
唯は黒薔薇の蔦に全身を絡め取られ、覗く白い肌のあちこちから血が滲んでいた。
蔦は時折蠢き、彼女の血を啜っているのか、生気を奪っているのか分からない。どちらにせよ、千秋の時と同じく根本を断たなければ救うことは不可能だ。
「……何か、何か方法があるはずなんだ」
胸の奥が焼けるように苦しく、拳を握りしめる。
今の能力はリリスには通用しない。──だがここで引き返すこともできない。
あの不滅の陣が何度使われるのかは分からないが、もし回数制限があるのならこちらも同じ。賭けに出るしかない。
「混血児の死骸も、アスラ様の手土産にしてやるわっ!」
漆黒の羽を広げたリリスが上空へ舞い上がり、円月輪を放つ。
その刃が迫る瞬間──遥の視界が異様に研ぎ澄まされた。
(──視える……?)
それは不思議な感覚だった。
彼女の動きが、まるでスローモーションのように視える。
遥の中で何かが覚醒し、円月輪の軌道を先読みできた。
このまま彼女が丸腰になる瞬間を狙う──残された時間は、僅か八秒。
「終わりだ、混血児!!」
「天を衝く蒼き双龍よ、怒りの焔で眼前の敵を焼き尽くせ……【ブルードラゴン】」
両手首の薔薇の紋章が眩く輝き、素早く印を結ぶ。
その瞬間、巨大な蒼龍が大地を踏みしめ、咆哮と共に蒼炎を纏って姿を現した。
「くっ──!?」
耳を劈く咆哮に耐えきれず、両耳を押さえたリリスは思わず円月輪を落とした。
『このっ──!』
リリスの護衛と思われる黒いローブの者達が一斉に龍へ立ち向かう。
だが蒼龍は鋭い眼光で彼等を一瞥すると、蒼炎を吐き出した。
業火に焼かれた者達は断末魔の叫びを残し、雪の中に跡形もなく消え去る。
「ちっ──厄介な奴だよ」
リリスは忌々しげに舌打ちをし、白い空間をぐにゃりと歪める。
その姿は煙のように掻き消え、ただ不気味な余韻だけが残った。
「はぁ……はぁ……」
脅威が去った事に安堵した遥は龍の鱗にぽすんと顔を埋める。
蒼龍は心配そうに遥を見下ろし、大きな舌でべろりと顔を舐めた。
「ありがとう……」
『ちょ、ちょっと! 貴方ねぇ、自分の能力も弁えないで突っ込むなんて……! ほんとバカなんだから』
アープが慌てて声をかけた時、遥はすでに意識を失っていた。
困惑した表情の妖精に、蒼龍は低く咆哮した後、ごく自然にアープの脳へ語りかけてきた。
『……静まれアープ。我ら精霊は主の命を守るために在る』




