三十話 唯の精神世界 ニ
アープと共に、視界の悪い雪道を十分ほど進む。
やっと辿り着いた高台から見下ろす世界は、右も左も果てしなく白い。
風が頬を刺し、耳の奥で低く唸る。人の気配など微塵もなく、ただ歩けば雪に呑まれてしまうのではないか──そんな不安が遥の胸を締めつける。
『んんっ……東の方角から、強い魔力の流れを感じる』
アープの声は澄んだ鈴のように響き、指差す先には吊り橋が揺れていた。だが、その先は山影に隠れ、どこへ繋がるのかは見えない。
「行ってみよう」
手がかりなど元々ない。ならば、可能性のある道へ進むしかない。
雪深い道を踏みしめても、革靴は不思議と濡れない。アープが最初にかけてくれた術の恩恵だろう。
(妖精達は人間を嫌うはずなのに……こんなに優しいのは、俺が彼女達が慕うウィルの息子で、混血児だからなのかな)
吊り橋が近づくと、黒いローブを纏った者達の影が視界に入った。
遥は慌ててしゃがみ込み、息を潜める。隣のアープは小首を傾げ、目をぱちぱちさせる。
『どうしたの? そんなにコソコソして……まるで泥棒みたいよ』
「あいつらは……俺の友達の精神世界にいたやつなんだ」
その姿があるということは、この先に唯が居る可能性が高い。遥の胸は緊張で高鳴る。
『まさかと思うけど、貴方……暗殺者とやり合うつもりじゃないわよね?』
「……必要なら、戦わないといけないだろ?」
護身用の短剣を握りしめる遥。 その真剣な横顔を見て、アープは大げさにため息をついた。
『はぁ……ほんとに男ってバカね。怪我したら私が面倒見るんだから、せいぜい派手に倒れないでよ?』
呆れ顔に見せかけて、どこか心配そうな視線を送るアープ。遥は苦笑しながらも、その軽口に少しだけ肩の力を抜いた。
『貴方って、本当にウィル様の御子息なの? 私達の第一目標は若き聖乙女の血を守ること、次に生きて帰ることよ』
「……気になっていることなんだけど、その〈ジャンヌ・ブラッド〉って、何?」
『はぁ……ほんとに何も知らないのね。ウィル様の御子息って肩書きが泣いてるわよ』
アープは頭を抱え、わざとらしくため息をつく。
『いい? ジャンヌ・ブラッドっていうのはね、十五歳から二十歳くらいの人間の女の子。しかも昔、吸血鬼と交わった血を持つ者だけが選ばれるの。 彼女達はかつて吸血鬼だった者の生まれ変わりで、その血が特別なのよ。混血児も例外じゃなくてよ』
説明を終えると、アープはじろりと遥を睨む。
『……これくらい、普通なら知ってるはずなのよ。 でもまあ、貴方がバカだから私が教えてあげたの。感謝しなさい』
「その、〈ジャンヌ・ブラッド〉があればどうなるんだ? 唯は、殺されるのか……?」
『若き聖乙女の血を飲み干した者は全てを統率する能力を手に入れる。死んだ者でさえも蘇らせる力があるって言われているわ』
彼女の紡ぐ言葉は、遥の胸奥に封じられた記憶へと触れるようだった。 高校に入学する以前の記憶は、一体どこへ消えたのか。
思い出そうとするたび、頭の中を稲妻のような痛みが走り、視界が白く弾ける。
彼女が語る吸血鬼達の過去──それは、遥の奥底に封印された記憶と密接に絡み合っているのかもしれない。
「アープ、教えて欲しい。俺はどうしたらいい? 俺はただ友達を救いたいだけなんだよ……!」
縋るように彼女の腕を掴むと、アープは困惑したように眉を寄せ、視線を逸らした。
『……貴方が混血児であるってことはね、血も狙われるってことよ。しかも男の血肉なんて、吸血鬼にとっては最高の美酒……』
彼女はそこで言葉を切り、ため息を吐く。
遥は息を呑み、問い返した。
「オーフェン=グレイスって……?」
アープは一瞬だけ遥を見て、すぐに吊り橋の方へ視線を投げた。その横顔は真剣なのに、どこか拗ねたようでもある。
『……今さら名前だけ聞いても意味ないわよ。どうせ説明したって、貴方は半分も理解できないんだから。でも──知ってしまえば、もう後戻りできない。だから……今は黙っててあげる』
遥は苦笑し、思わず掴んだ細い腕をそっと離した。
『時は待ってくれないわよ。若き聖乙女の血を救いたいのでしょう?』
アープの言葉は正しい。ここで謎の吸血鬼の名前を追及したところで、極寒の中震えている唯を救うことには繋がらない。
遥は唇を噛み、静かに頷いた。
『……やっと分かったみたいね。まったく、余計なことばかり気にして……。でも、そんな貴方だから放っておけないのよ。行くわよ、早く!』




