二十九話 唯の精神世界
頰と身体に触れる異常な冷たさに、目が覚めた。
手のひらには、さらりと吸い付く白い粉。
視界のすべてを覆う銀世界。
「……人工雪みたいな感触だ」
さらさらと崩れ、肌に染み込み水へと変わる。
足で踏みしめても、なお溶けぬ不思議な雪。既に十センチは積もっていた。
「あっ、荷物……!」
グラディウスに、緑の液体の小瓶。
それらを確かめたところで遥はようやく息を吐いた。どうやら、ここが唯の精神世界らしい。
視界に広がるのは、ただ白。
昨年のスキー教室──東北の雪景色が脳裏をよぎる。まるでゲレンデだ。
「……俺はスキーに来たつもりじゃない」
凍てつく風が遥の唇を裂く。
両腕で身体を抱きしめるが、鼻の奥まで凍りつくような寒さが襲いかかる。
都会育ちの遥には、軽装で耐えられるはずもなかった。
「唯を探すどころか、俺が凍りそうだよ……!」
──我を呼べ、主人よ。
頭の中に炎の魔神の声が響く。だが、肝心の召喚方法が分からない。
「アグニ、どうしたらいいんだ?」
必死に問いかけても、返答は返ってこない。
『──呆れた。貴方はウィル様から何も聞いてないのね?』
突如、別の声が吹雪を切り裂いた。
左手で顔を覆い風を遮りながら、音のした木の上を見上げる。
そこには火の妖精に似た存在が、鋭い眼差しでこちらを睨みつけていた。
「君も妖精?」
素性を当てられた事に驚いたのか、彼女は小さな瞳を一瞬だけ丸めたが、すぐさまクールな表情へ変える。
『ふぅん……そういう事は分かるのね。私は水の妖精。ここは水の女神様の世界よ』
「ウンディーネ……でも、どうして水の女神が、こんな吹雪の国なんて……」
水の女神は非常に温厚な性格で、古の時代には『豊穣の女神』との別名がつけられていた。
気品と美、愛に溢れた心の綺麗な精霊と言い伝えられている。まさかそれが──。
『貴方、ウィル様の御子息の割に頭の回転が悪いのね』
描いていた水の女神像が砕け散って心が萎えそうだったのに、追い討ちをかけるように、アープはハッキリとそう言い放つ。
芯の強さを感じさせる彼女は、青い髪をポニーテールに結い、揺れるたびに同じ色の瞳が鋭く光った。
身に纏うビスチェドレスは、フレイのものと色違いに見える。背に広がる羽の造りや顔立ちも、二人はどこか似通っていた。
だが、彼女はウィル以外には心を閉ざしているのか、遥の視線を受けると怪訝そうに眉を寄せた。
『さっさとアグニを召喚してくれない? 貴方が凍死したら私が迷惑なのよ』
ツンキャラのように急かされても、遥は召喚士ではない。
千秋を助けた時はただ無我夢中で、身体の奥底が熱に包まれ、突然吸血鬼の言葉が流れ込んできただけだった。
だから「今すぐ出せ」と言われても困るのだ。
魔術と呼ばれる力は、窮地に追い込まれた時にだけ反応するらしい。
左手首に刻まれた赤い薔薇の紋章を確かめると淡い光を放ってはいるが、あの時炎の魔神対峙した際のような眩い輝きは見られなかった。
「ごめん。使いこなせなくて」
『はぁ……仕方ないわね、それじゃあ目を瞑って』
アープに言われるまま瞳を閉じると、遥の服の周りに淡い光が纏わり付いた。重量はなく、ほんのりと暖かい。
「ありがとう。アープ」
素直にお礼を述べた途端、アープは白い頰を真っ赤に染め、ぷいと背中を向けてしまった。
「べ、べべ別にあんたを助けたくてやったわけじゃないんだからね……! ウィル様に叱られたくないから」
吐き捨てるように言いながらも、その声はどこか震えている。
アープのお陰で凍死を免れた遥は、視界の良い場所を探すことにした。
しかし吹雪は先ほどよりも強まり、視界は二十センチほどしかない。このような場所で化け物に遭遇すれば、命がいくつあっても足りないだろう。
『変ね。水の女神様がこんな吹雪を起こすなんてありえない……』
「だから、それは俺がさっき……」
頭の回転が悪いと一蹴されてしまったが、それでもこの世界の理不尽さが気になって仕方がない。
書物に記された水の女神は、本来穏やかな性格のはずだ。
だが、目の前に広がるこの世界は、人の心すら凍りつかせる極寒の地。まるで、外からの侵入を一切拒むかのように冷たく閉ざされている。
「もしかして、此処に水の女神以外の精霊が?」
『まさか……』
思い当たることがあるのか、彼女は小さな顔を顰め、結論を出す。
『いえ、その可能性はあるわ。水の女神様には、腹違いのお姉様がいらっしゃるから』
精霊は一体だけでも世界を破壊する能力を持っている。アープの考えた最悪な可能性が当たり、ここに精霊が二体いるのであれば、今の遥ではとても敵わない。
制限時間は刻々と迫る。人探しに、最悪の視界。
『まずはこの辺りを見渡せる高台を目指しましょう』




