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ダンピールと血の盟約  作者: 蒼龍 葵
第一章 第二部 唯編
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二十五話 黒い薔薇の紋章


 (ひいらぎ)(まい)はN大学でオカルト研究サークルの副部長を務めている。

 世田谷の公園で起きた不可解な事件に目をつけて以来、渋谷区の封鎖や新宿の変死体騒ぎまですべてが一本の線で繋がっていると信じていた。


 大学からは「危険だから一人で出歩くな」と回覧が回っていたが、舞にとってそんな忠告は意味をなさない。謎は待ってはくれないのだ。


「ふっふっふ〜。ここで副部長たる私が動かないとね。さあて、どうやって中に入ろうかしら?」


 黒のボブヘアーを風に揺らしながら、舞は「進入禁止」と貼られた紙の先に広がるブルーシートを見据えた。

 公園全体を覆うその薔薇の幕は外から覗く者を拒む壁のようだが、この辺りを幼少期から知り尽くした彼女にとって、突破口を見つけるのは難しくはない。


 公園の柵につけられているワイヤーを軽く曲げて、中にそろりと侵入する。この時間だと警察も撤収しているはずなので、監視の目は薄い。

 勢い余った舞は転がっていた枝を思い切り踏んでしまった。甲高く響いたパキッという音に、ヤバイと息を呑む。

 恐る恐る周囲を見渡して見るが、どうやら誰も居ないようだった。

 ほっと肩の力を抜き、静まり返っている公園の中央まで進む。新宿公園の街灯は電球が切れそうなのか、不気味にチカチカと点滅していた。


「う〜ん……事件の証拠(ネタ)は全部警察よね。ま、当たり前か」


 事件の痕跡がまだうっすら残る地面を、愛用のカメラに収めていく。

 シャッター音が静寂に溶けるたび、不可解事件の謎を解く証拠に一歩近づいた気分になる。

 だが、数枚目を撮った瞬間、カメラの画面が唐突に闇へ沈む。


「あ、あれ……電池変えたばっかりなのに」


 レンズを思い覗き込むが、バッテリーの警告灯は沈黙したまま。代わりに、赤い文字がじわりと浮かび上がる。


 【Warning】


 血のように滲むその文字は、機械の表示というよりも、誰かがこちらへ向けて発した「警告」のように見えた。舞は思わず息を呑み、背筋を冷たいものが這い上がっていくのを感じる。


「な、何……これ」


 舞は怯えたままカメラから目を離し、カチカチと連続で撮影ボタンを押すが、どこを触っても全く反応しない。

 愛用のカメラは壊れた。おまけに、不気味な警告。

 これは、ヤバイ事件に足を入れたかもと立ち尽くしていると、背後からクスクスと楽しそうに笑う声が聞こえてきた。


「いけませんねぇ。無断で入ってくるなんて」


「あ……」


 慌てて声の方を振り返ると、闇の中に銀の光が揺れた。

 そこに立っていたのは、夜気を纏うように輝く銀髪の青年。瞳は菖蒲色(しょうぶいろ)──人の目ではありえない深みを持ち、見る者の心を吸い込むような光を放っていた。


 綺麗、という言葉では足りない。

 美しい彫像でも、絵画でも、夢の中の幻影でもない。

 舞は生まれてから一度も目にしたことのない、異界の美そのものを前にしていた。


 思わずほうっと息を呑み、手にしたカメラを握りしめる。しかし、画面にはなお赤く【Warning】の文字が滲んでいた。


 どうして、こんな時に限って。

 舞は胸の奥で悔しさを噛みしめた。人の世に二度と現れないかもしれない存在を、記録できないまま目に焼き付けるしかないのだ。


「あ、貴方は……?」


「お嬢さんは、吸血鬼(ヴァンパイア)に興味がおありですか?」


 その声までも、身体を震わせる。


「私は、柊舞と言います。N大学文学部、オカルト研究サークルに所属しています。も、もしも吸血鬼(ヴァンパイア)についてご存知な事がありましたら、是非教えて頂きたいですっ!」


「とても勉強熱心ですね。ではこちらへ」


 青年はふわりと口元に笑みを浮かべ、右手を舞へと差し出した。闇の中でその手は淡く光を帯び、氷の彫像のように透き通って見える。

 指先が触れた瞬間、氷の刃が皮膚をなぞるような冷たさが走り、血の気が引いていく。


『ノエル=ティエノフの名において……若き聖乙女の血(ジャンヌ・ブラッド)を、我が力へ還せ』


「ひっ……!」


 ノエルの腕に強引に引き寄せられた瞬間、舞は甘い薔薇の香りに包まれた。花弁が開くように広がるその芳香は、彼女の脳を蕩かし、意識を霞ませていく。

 首筋に触れる冷たい息──そして、皮膚を軽く噛まれた刹那。

 稲妻のような痺れと痛みが全身を駆け抜け、次いで血が沸騰するような熱が身体の奥底から噴き上がる。

 肉体だけでなく、魂までも焼き尽くされる錯覚に、舞は声を押し殺すことができなかった。


「あ、あ、あぁっ……」


 恍惚の表情で天を仰ぎ、震える唇から漏れる声は、苦痛ではなく甘美な嬌声。

 まるで絶頂の果てに至ったかのように、彼女はその瞬間、ノエルという異界の美に完全に囚われていた。


 ノエルは唇についた血液をぺろりと舐めると、舞の頬を優しく撫でた。その仕草は恋人に触れるように甘美でありながら、支配者が所有物を確かめるような冷ややかさを(はら)んでいる。

 既に魅了(チャーム)に囚われた舞は、ノエルの右手に縋るようにしがみついた。


「さあ……僕の可愛い半死人(グール)、お前の役目は分かっているな」


 舞は自我の残滓(ざんし)を抱えながらも、大人しくこくりと頷く。その瞳には意思の光が薄れ、ただノエルの命令を待つ人形のような静けさが宿っていた。


「いい子だ」


 ノエルはそんな舞を腕の中に引き寄せ、愛でるように髪を撫で、指先で唇の形をなぞる。

 血の香りと薔薇の芳香が混じり合い、彼の微笑みは甘美にして残酷だった。



「ただいま……」


「あ、お姉ちゃんお帰り。もうっ、遅い時間まで出歩いたらダメって言われてたじゃない。お風呂も自分で追い焚きしてよ?」


 風呂上がりの唯はピンクのパジャマ姿で、濡れた髪から水滴を落としながら部屋から出て来た。

 いつもなら「スクープよ!」と明るく応じる舞が、今夜はやけに沈黙している。唯は眉をひそめるとじっと姉を見つめた。

 その瞬間、唯の右手の甲に淡い光が走ったのだが、二人はそれに気づいていない。


「お姉ちゃん?」


「折角新宿まで行ってきたのに、収穫も無かったのよ。残念」


 寂しげに笑った舞は、落胆を抱えたまま二階へと上がっていく。「大スクープを撮ってくる!」と意気込んで家を飛び出した姉の姿はそこになく、背中には哀愁が漂っていた。

 唯は元気のない姉にどう対処すべきか分からず、ただ静かに階段を登って自室へ戻るしかなかった。


 平穏な柊家の外で、ノエルは血の香りを指先に残したまま、右手を唇に当てて愉悦の笑みを浮かべる。


「可愛い餌だ……哀れな人形の振る舞いすら、始祖を誘うための舞台装置になる」


 舞の背中には人間らしい哀愁が漂っていた。だがノエルにとってそれは利用価値のある「演出」にすぎない。

 彼女が自我を保っている時間が長いほど、ウィルは必ず心を揺さぶられる。


 手鏡に映る柊家の内部を覗き込み、パジャマ姿の唯を次なる標的と定めると、ノエルは形の良い唇を僅かに吊り上げた。

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