二十三話 グールと接した乙女達
遥達が精神世界から戻り、丸二日が経過した。
精神世界で強烈なダメージを受けた千秋は学校を休んでいる。
一方の遥は体力も回復したので、何事も無かったかのように学校へ通うことにした。
佐久間神社での事件はどうやらウィル達が魅了を発動させたのか、ニュースにも上がらなかった。
それに、断界領域と呼ばれる特殊空間の中で戦っていたので、神社に被害は及んでいない。
唯一の損害と言えば、アスラが来た時に吹き飛ばした襖とドア、裏庭への廊下に穴が空いたくらいだろうか。
「おはよう、遥くん!」
自分の席について教科書をしまっていると、携帯電話を片手に満面の笑みを浮かべた唯が声をかけてきた。
「ねえ、遥くん、今日のニュース見た?」
「ニュース?」
思わずぎくりと顔が強張る。もしかして、佐久間神社の件だろうか。
今はウィルとどう対応したら良いのか分からなくて今日もテレビを見ていない。
「これこれっ。見てよ、また変死体だって」
唯が携帯で開いているのは、とある検索サイトのトップニュースだった。そこには「新宿公園で昨日、変死体事件が発生」と報じられている。
公にはあまり知られていないが、その事件は、かつて世田谷で起きた例の死体事件とほぼ同じものだった。
渋谷区が完全に閉鎖空間となっている今、政府も情報を隠しきれず、公表せざるを得なかったのだろう。
遥は精神を集中し、唯の携帯画面をじっと見つめる。そこに映る死体には、通常の人間には見えない〈噛み跡〉が首にくっきりと浮かんでいた。
さらに今回は、死体の手の甲にも黒い薔薇の紋章が刻まれている。
それは──千秋の心臓に突き立てられたものと同じ印だった。
遥は無意識に左手の指を顎へ当て、一体何が……と考えを巡らせていた。
彼が黙り込むと、取り残されたように感じたのか、唯はぷぅっと頰を膨らませて機嫌を損ねる。
「んもぅ! 遥君はすぐ一人で考え込むんだからっ」
「あ、ごめん……携帯ありがとう」
携帯を唯に返した後も、ニュースの内容は頭から離れない。
アスラとはまた別の吸血鬼が動いているのか。妙な胸騒ぎが遥を落ち着かなくさせる。
沈黙を続ける彼に、唯はそわそわとした様子で何度も顔をちら見してきた。
「何か他にも用事があるのか?」と、遥は視線だけで彼女へ問いかける。
「遥君の叔父様、さ……私とお姉ちゃんの話しとかしなかった?」
彼女が言う『叔父様』はウィルの事だ。
実は吸血鬼です──なんてことは言えないので、父親はイギリスで単身赴任中という事にしている。
彼女の話の内容は、唯と彼女の姉についての出来事。
遥とウィルが初めて喧嘩した夜に遡る。
◇
「なあ、まだ隠し事してるんだろ? なんで教えてくれないんだよ。俺の小さい頃のこと、もっと教えてよ」
「今はその時ではない。華江さんはハルを愛して……」
事あるごとに母・華江の名前で話を逸らされ、遥はついに怒りを露わにした。
「母さんの名前で誤魔化すなよ! 俺だってもう子供じゃない。吸血鬼は何をしようとしてるんだ? 千秋にあんなことをして……それに、千秋の母さんはどうなるんだよ!」
「千秋君のお母さんは、私が必ず助け出す。それだけは約束しよう」
真っ直ぐに遥を射抜くウィルの瞳。だが、全てを語ろうとしないその態度は、息子との溝を深めていく。
今まで仮初に築いてきた平穏は、ガラガラと音を立てて崩れ始めていた。
「もう嫌だ……なんで俺は、人間じゃないんだよっ!」
「ハル……!」
ウィルの制止を振りほどき、遥は暗闇へと飛び出した。
一瞬だけ見えたウィルの哀しげな瞳が、胸に鋭く突き刺さる。
人間じゃない。その言葉は吸血鬼でありながら遥を守ろうと決意したウィルを深く傷つけた。
それでも、もう戻れない。
もしも、自分がこの世に生まれていなければ。
そして、ウィルが日本に来ていなければ。
千秋が傷つくことは無かったし、佐久間神社も平穏なままだったはず。
何もかもが崩れていく……非日常の連続。
こんなことには、ならなかったはずなのだから。
遥が家から飛び出したのとそれとほぼ同時刻。
お目当ての買い物を済ませ、消えかけた街灯の下を鼻歌を歌うご機嫌な姉妹が歩いていた。
「うふふ〜。今日は大好きな先生の本をゲットできたし、超幸せっ」
「お姉ちゃん、最近変な事件多いし早く帰ろうよ」
「そうなのよ、聖地・渋谷がまさかの閉鎖!! あーん、来月新作のブランド発売予定だったのに、超ショック」
舞は胸に参考書を抱きしめ、残念そうに小さく呟いた。
その瞬間、電柱の影から、酔っ払いのように足取りの定まらない男がふらふらと近づいてくる。
『グウウウウウ……』
「えっ、あれって──」
「ちょっ……ニュースの化け物じゃない!? カメラ持って来るべきだったわ」
怯える妹とは対照的に、サークルのネタになると興奮する姉。
獣のような咆哮を上げた男の鋭い爪が振り上がったその瞬間、彼女達の前で鮮やかな金髪が闇夜に揺らめいた。
『ガ、グ、ウウウウウ』
「眠れ」
たった一言。ウィルの術で、半死人は自ら電柱に激突し、ずるずると崩れ落ちた。
その異様な光景を前に、舞はきらきらと目を輝かせ、唯は震えながら地面にへたり込んでいた。
「大丈夫ですか? お嬢さん達」
微笑みを浮かべたウィルの姿は、突然出てきた化け物の恐怖を溶かし去るほどに神秘的で、美しかった。
彼の手が唯の頭に触れると、震えは静まり胸の奥に温かな安堵が広がる。
舞はその光景にほうっと息を呑み、まるで夢の中の英雄を目の前にしたかのように完全に心を奪われていた。
◇
「とにかく、カッコよかったのよ!!!」
「そ、そう……」
ガタンと机まで揺らされ、唯の鼻息まで聞こえてきそうなくらい近くで力説される。
唯はウィルの写真を覗き見したあの日から妄想を膨らませている。うっとりした様子に流石の遥も顔を引きつらせた。
ウィルは昨日遥を探していた時に、偶然にも半死人の気配を感じて二人を助けたらしい。
そしてあの後リャナに追跡されてしまい、遥の人生初の家出は三十分もせず幕を下ろした。
「だ・か・ら〜」
「な、何……?」
唯はにんまりと笑い、遥の腕をきつく掴んだ。危うく手首の赤い薔薇の紋章が見えそうになったので、唯の手をそっと引き剥がす。
「まさか、叔父に会いたいとか?」
「そっ! 昨日のお礼も言いたいし。ねぇ〜、ダメ〜?」
「ちょっと聞いてみるよ……」
遥は携帯電話を持ち、廊下へ出てから小さく溜め息を吐いた。




