十七話 千秋の抱える闇
重だるい瞼を開くと、見憶えのある天井が視界に入った。ここは間違いなく自分の部屋だ。
遥は布団を捲り、頭を押さえたまま状況を整理した。
変死体事件、外国から来た転校生、千秋からもらった御守り、佐久間神社の襲撃、そして千秋の精神世界──。
「そうだ、千秋……!」
制限時間は五時間。
はっと時計に視線を向けると、現実世界に戻ってきてから既に四時間が経過していた。
重い身体を叱咤してよろよろと階段を降りて一階のリビングに向かう。
そこではウィルが黒髪の吸血鬼の姿に戻り、千秋の身体に血の魔法陣を描いていた。
「ち、千秋……!」
千秋に近づこうとしたが、目の前で仁王立ちをしたリャナに止められる。
「何で?」
止められる理由が分からない遥は思わず彼女をきつく睨みつけた。
しかしリャナは避けようともせずに首を左右に振るだけだ。
「千秋君は必ず助ける。血の盟約によって」
「血の盟約って……」
明らかに物騒な名前の儀式に良いイメージはない。
血と聞いても、吸血鬼が人間の血を啜る様子しか出てこないのだ。
遥の疑問に対してウィルは先の言葉を紡ぐ。
「吸血鬼の血液を分け与える儀式だ。上手く行けば彼を救うことが出来る。ただ、私の血は始祖の血。適合出来なければ、彼は半死人となって人々を襲うだろう」
「どうすれば、適合するとか分かるんだよ……」
精神世界に行ったのに、結局千秋を助ける事が出来なかった。
それだけでも心が折れそうなのに、もしも彼が半死人になってしまったら──。
「ハルの混血児の血であれば、彼を救う事が出来る」
「えっ……?」
ウィルは言いかけてそこで口を噤んだ。しまった、と双眸は天を仰いでいる。
「お、俺の血で千秋が助かるなら、最初からそうしてくれよっ! 俺は……!」
興奮した遥をリャナが必死に止めていた。あの魔法陣に入られるとまずいのだろう。
「これからハルに流れてくるのは、彼の『負』の感情だ。それに耐えられなければ、盟約は完成しない」
「それくらい、どうにでも──」
「ハル、お前の大好きな親友が、もしもお前を殺そうとしたり大嫌いだと言っても耐えられるか?」
千秋は親友だ。いつどんな時でも側に居てくれる心地よい存在。
だが人間の負の感情は理不尽で、表面上では親友であっても、心の根底にでは──。
ましてや、母は攫われ、父は瀕死の重症を負った。これをキッカケに遥は化け物だと忌み嫌われる可能性も十分ある。
信頼と愛情が深い憎悪に変わりこの関係に終止符を打たれる可能性だってありえる。
それでも、救いたい。
たった一人の親友を。たとえ憎まれようとも。孤独に沈もうとも。千秋の命だけは、決して奪わせない。
『ハルカ様……』
覚悟を決めた遥の瞳に迷いは欠片も無かった。
リャナに道を開けてもらい、遥はウィルの紅い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……どうすればいい?」
「既に魔法陣は描いた。後は、ハルがもう一度千秋君の心の中を視て、闇を払うだけだ」
心の中を視る。
あの変死体の噛み跡を発見した時と同じように、精神を集中するだけ。
冷たい千秋の手をしっかり握りしめた。この体温が急激に奪われていく感覚──手遅れかも知れないという恐怖が胸を締め付ける。
「ハル、強く願うんだ。余計なことは考えずに」
ウィルの声が響く。遥は迷いを払拭し、千秋を絶対に救うという強い意思を抱いた。
その瞬間、魂が吸い込まれるような錯覚に包まれ、ぐらりと視界が歪み、遥の身体は千秋の心の根底に潜り込んでいった。
◇
遠くの方から赤子の産声が聞こえる。
セピア色の景色。ここは何処だろう?
ゆっくりと視線を動かしてみると、遥は自分の実体が無い事に気がついた。
これが精神世界なのか──
意識の欠片となった遥は、見覚えのある神社に向けて吸い込まれるように飛んでいった。
身体を持たぬ今、ただ少し「動け」と願うだけで思考がそのまま移動となる。この世界は奇妙でありながら便利だった。
だが利便さに気を取られている余裕はない。
果たしてこの状態でどうやって千秋を救い出せばいいのか──答えは見えない。
その時、再び赤子の声が響いた。
遠い記憶を呼び覚ますようなその声に導かれ、神社と門構えが今と異なっていることに気づく。
ここは『過去』の佐久間神社。時を逆流するような幻影の中に千秋の魂は囚われているのだ。
もう少し中に入り込むと、広い庭に整った顔立ちの男が立っていた。
全体的な雰囲気は千秋に似ている。──おそらく彼は千秋の父だろう。
しかしその瞳は影を宿し、一点を見つめたまま何度も切ないため息を吐いている。
遠く響く産声は千秋が産まれた瞬間のもの。生命の誕生を祝う女性達の嬉々とした声が重なり、本来であれば歓喜に満ちているはずであったが、父親となった彼の顔には、ただ一つの笑みすら浮かんでいない。
遥は自分の実体が無い事を忘れて、思わず彼に声を掛けようとした。だが次の瞬間、産声が聞こえていた部屋の襖が開き「ご報告です」と言いながら女が姿を現した。
「おめでとうございます、元気な男の子ですわ」
「男の子、ね」
自嘲的にそう呟く男に、女は口元を押さえて「まぁっ!」といきなり不満を漏らした。
「千里様。産まれた命にそのような事を申してはなりません。神が与えてくださった貴重な……」
女が命についての説法を始めたので、それを千里は申し訳ない、と笑いながら遮る。
「冗談だよ。俺と愛菜の宝だ。可愛いに決まっている」
「そうですよ、では千里様も早く愛菜様の下へ」
『佐久間神社に、男の子なんて、必要無い』
まるで怨念のような声が意識の欠片となった遥にも突き刺さった。
佐久間神社は巫女の家系。祈りと血脈が千年もの時を紡ぎ、女性だけがその歴史を継いできた。
一人娘の愛菜から産まれた待望の稚児。だが、千秋は男の子だ。
その事実は彼の心の根底に拒絶と孤独を沈殿させてきた。誰にも言えず封印してきた闇の正体が──今、紐解かれようとしている。




