十六話 千秋の精神世界 三
炎の魔神は宙に浮いたまま鋭い視線を遥に落としてきた。その視線に絡み取られるだけで息が詰まりそうになる。
『ウィリアム=グレイスの息子か?』
アグニの言葉が直接脳裏に語りかけてきた。今まで感じたことのない、不思議な感覚。
遥はどう返事をしたら良いのか分からなかったので、こくりと小さく頷いた。
『──そうか』
小さな呟きが脳裏に響いた瞬間、彼は右手を遥に向けた。
「うわ!?」
咄嗟に回避はしたものの、アグニの手から放たれた炎は近くの岩山にぶつかり四散した。
「ど、どうして攻撃を!?」
彼に向けて声を張り上げる。しかし言葉は通じず、炎の魔神は口角を僅かに吊り上げ、無言のまま再び灼熱の球を連続で放った。轟音と共に周囲の視界が赤く焼ける。
「このままだと、千秋に被害が……」
炎の魔人の扱う炎は、【地獄の業火】。対象を焼き尽くすまで決して消えることの無い悪魔の炎。
遥は千秋を守るため恐怖を押し殺し、わざと距離をとってアグニと対峙した。
頼れる武器はグラディウスのみ。しかし短剣なので相手にかなり接近しなければ致命傷は難しいだろう。
炎の魔神との緊迫した空気に、フレイはあわあわしながら、気絶したままの千秋の頰を羽でペチペチ叩いた。
『こらぁ〜! キミ、起きて、ねえ起きてって〜! ハルカ様がアグニに焼き尽くされちゃう!』
フレイの必死のアピールに全く応じない千秋。遥が気絶した千秋を抱えて逃げるのは難しいし、フレイは妖精なので力がない。──このままだと全滅だ。
「……炎の魔神、あなたの目的は何ですか?」
『お前がこの先、我々の力を正しく導けるかどうかを試したい。神器は持ち手によって、聖にも邪にも変わる』
神器が邪にも変わるということは、アスラが使っていた剣のことを言っているのだろうか。
確かにあれは魔物であろうと関係なく血を啜る悪魔の剣だ。
再び炎の魔神は地獄の業火を繰り出した。炎が渦となり、二つの巨大な火柱は轟音を立てながら、遥に近づいてくる。
逃げようにも逃げられない遥は左右から火柱に覆われていた。
『ハルカ様っ!』
フレイの叫び声が聞こえたと同時に、頭の中に吸血鬼の言葉がするりと入ってきた。何故それが吸血鬼の言葉と理解出来たのか。
ウィルがピンチの時にそれを発動させるように何か術をかけてくれたのだろうか?
身体の奥が熱い。
遥は無心で服の袖を捲り、赤い薔薇の紋章を凝視した。紋章は遥の心と呼応し、静かに点滅しながら淡い光を放つ。
「天を衝く怒りの焔よ、悔恨までも灼き尽くせ……蒼き双獄!」
赤い薔薇の紋章が眩い光を放つと同時に、遥の手のひらには蒼い炎の球が浮かびあがった。
それは炎の魔神が扱っていた物と酷似していたが、蒼炎は異質な威圧感を放っていた。
「いける──!」
直感が遥を突き動かす。蒼い炎は瞬時に火柱へと変貌し、天を突く轟音を伴った。
その瞬間、目前にはアグニの火柱が迫っていた。まさに紙一重のタイミングで、蒼炎の火柱がそれを迎え撃ち、二つの炎が衝突する。
しかし、炎の魔神と混血児では魔力の違いは歴然。
蒼炎の火柱は弾ける音と共にあっさり消滅し、遥の眼前は赤に染まった。
死ぬ……!
そう思い遥は無意識に両手で顔を覆ったが、予想していた灼熱の業火は身を焼くどころかかき消えていた。
一体何が起きたのか、恐る恐る目を開くと、遥の前で炎の魔神が跪拝している。
どうやら、彼が自身で地獄の業火を消したらしい。
「え、えっと……」
状況が飲み込めない遥は、視線をフレイの方に向ける。
勿論、彼女も首を左右に振るだけだ。
今、目の前では『炎の魔神』と恐れられている彼が頭を垂れている。
数十秒の沈黙の後、再び遥の脳裏に直接声が響いてきた。
『ハルカ様。貴方を試した非礼をまず詫びさせて下さい』
世界を滅ぼす力を持つ魔神が、なかなか頭を上げてくれない。
慌てて手を差し出したものの、彼の極炎の鎧を素手で触れる勇気はなかった。
「か、顔を上げて下さい。あと、あなたの力を貸して頂けるのでしたら、俺の友人を助けて下さい」
『……人間を?』
漸く顔を上げたアグニは面を引き締めた。どこか不服そうに唇を曲げている。
彼はどちらかと言えば吸血鬼側の存在だ。
「俺の親友……千秋は、俺を守る為に自分が肌身離さず持っていた御守りを俺に渡したせいで、こんな……」
遥は生気を失い気絶している千秋をそっと抱きしめた。
『ふむ……』
千秋の命は、今まさに尽きようとしていた。精神世界においての死は、現実の死と何ら変わりない。
遥の呼びかけにも応えず瞳は閉じられたまま。魂の輝きが薄れているように感じられる。
この最悪の状況を悟った炎の魔神は、妙に人間らしく顎に手を当てたまま神妙な面持ちを浮かべていた。
『ハルカ様、結論から先に申し伝えましょう。この人間は死にます』
覚悟していた事とは言え、結果は残酷であった。
『貴方達をまずウィル様の下へ戻しましょう』
先ほどの好戦的態度から一変。彼は空間を歪めて赤い輪を作り上げた。
どうやらこの精神世界から出る門を開いたらしい。
魔神の炎で出来た輪はグラグラと揺らめいており、触れても全く熱を感じなかった。
「ありがとう、炎の魔神──」
『礼には及びません。我々はウィル様と、共に』
その先の言葉は聞こえなかったが、遥は絶対に離すまいと千秋をきつく抱きしめ、門の中に意を決して飛び込んだ。
吸い込まれるように身体を眩い光が包み込む。現実の世界に戻る為に──。




