十五話 千秋の精神世界 二
黒薔薇の蔦に両手足を拘束された千秋は、何とか逃げようと必死に身体を捩っていた。
しかし、虚しいかな身体を動かす程強く蔦が絡まり棘が皮膚を刺す。
「人間って単純ねえ。無駄よ、アタシの黒薔薇からは逃れられない」
「ちくしょう……何で、こんなっ……!」
「恨むなら、オマエの友人を恨みなさい。混血児に関わったのだからな」
女は赤い唇を吊り上げてニタリと嗤い、千秋の顎を掴むと、強制的に上を向かせ、長い爪で彼の頰をするりと撫でた。
「オマエは人間の割にいい男じゃないか。泣いて命乞いをするなら、アタシのペットにしてやっても構わないよ」
「……俺は、化け物の手下になる気は無い」
千秋の態度に怒りを露わにした夢魔の目から鋭い紅の光が放たれた。
「ぐっ……う、あ、あぁ!!」
呼応した黒薔薇の蔦は、ギリギリと軋む音を立ててさらに千秋をきつく絞め上げた。
首をへし折る勢いで蔦は全身を覆うように絡みつき、千秋はついに顔色を無くした。
「フフッ……アタシを怒らせるからさ。このまま絞め殺してやろうか、それとも……」
『──リリス様、そのくらいで』
暗闇の中から黒衣の者が二体現れ、恭しくリリスに頭を垂れるとすぐさま千秋に近づいた。
「ふんっ……」
不満そうに片手を上げて千秋の拘束を解除する。蔦から逃れた千秋は地面にその身体を打ちつける形となった。
「コイツは人間のくせに特殊な力を持っている。早く半死人にしちまいなよ」
『はい。死神の鎌を使います』
その返答にリリスはそうかと満足そうに笑い、完全に失神している千秋の頰を何度も撫でた。
相手は三人……先程よりも明らかに状況が悪い。
このまま黙って見ていても千秋を救う方法が見つからないし、あの禍々しい死神の鎌を振るわれたら全て終わってしまう。
「フレイ、どのタイミングで千秋を……?」
『んんー、夢魔と三体の相手は無理』
こうもあっさり敗北宣言をするフレイの潔さに思わずがくりと項垂れた。
先程聞いた死神の鎌に首を刎ねられた者の末路が脳裏を過ぎる。
大切な親友の魂を、冥界でフラフラさせるなんて絶対に嫌だ。
彼を救うことが出来なければ何の為にここに来たのか分からなくなってしまう。
「やめろおおおおっ!!」
フレイの静止を無視して遥は岩陰から飛び出した。
「あらん、また餌が増えたのね」
リリスの右手から黒薔薇の蔦が放たれる。
何故かその軌道はスローモーションで視えた。
遥は距離を詰めてグラディウスを鞘から抜いた。鋼の閃光が煌めき、蔦は左右に散り、花弁ははらはらと地面に落ちた。
次の瞬間、千秋へ鎌を振り上げようとする黒衣の者が迫る。
間に合うか──遥は迷わず体当たりを仕掛けた。
不思議なことに、その衝撃は人と同じ肉の感触だった。バランスを崩したその者と共に地面に倒れ込む。
その刹那、彼らの顔を覆っていた黒いフードが外れ、闇に隠されていた素顔が明らかになった。
死神の鎌を持っていた男は、顔半分に呪詛のような不思議な黒い紋様をつけられた人間。
そしてもう一方は金髪のツインテールに、深紫の瞳の女。
お互い仲間ではないのか、男の方が千秋から距離を取った。
そして女の方が遥に一気に近づいてくる。鋭い気配に攻撃されるかと身を竦め、一瞬瞳を閉じた。
だが次に感じたものは守りの気配で、彼女は盾のように遥の前に立ち塞がった。
『ハルカ様に、手出しはさせない』
その凛とした声はリャナによく似ていた。人間の姿に見えるが、その眼差しには異様なものが光る。
「使い魔か。アタシの部下の身体を乗っとるなんて」
夢魔の低く吐き捨てる声が、場の空気をさらに重くした。
『はあっ……!』
女は黒のローブを脱ぎ捨て、軽鎧の姿に戻った。懐からティムが扱っていたものと同じチェーンクロスを取り出し、体勢を立て直した黒衣の人間に向けてチェーンを放つ。
千秋を抱きしめたまま、遥は彼に纏わりつく蔦の残りを切り裂いた。
「チッ……一旦引くよ、ハンゾウ」
『御意』
まさか遥が神器を持っているとは思わなかったのだろう。リリスは、小さく舌打ちするとハンゾウと呼んだ男と共に蝙蝠の群れと共に空間へ消えた。
『くっそ〜! あいつら逃げ足だけは早いんだからっ……』
「あの、あなたは……?」
女は近くで見るほどリャナによく似ていた。
素直にお礼を述べると彼女は嬉しそうに頬を綻ばせて喜んだ。
『ああ嬉しい。ハルカ様に話しかけられた! でもね、私は……其方には行けないの。ウィル様によろしくね』
寂しそうな瞳で彼女がそう告げたその瞬間、風に散る花びらのように彼女の輪郭が揺らぎ始めた。
ザザッと微かな音を立て、姿は淡い光の粒子へ溶けていく。──まるで最初から此処に実体など存在しなかったかのように。
「彼女は……」
精神世界に存在しているということは、千秋の関係者なのか、それともそういう場所でしか生息出来ない魔物なのか。
『ハルカ様、早く早く! この子死んじゃうよ』
フレイに急かされて千秋の心臓の鼓動を確認する。精神世界の彼を蝕む黒薔薇は斬ったが、現実世界ではどうなっているのだろう。
「フレイ、この後はどうしたらいい?」
『あ、ああ……ああ!』
フレイは驚愕に目を見開いたまま口をパクパクさせて言葉を失った。震える小さな指が遥の背後を差し示す。
その先に立つのは──緋色の髪を逆立て、灼熱の炎を全身に纏う人型の影。
鋭い眼光が突き刺さり、空気までも焼けるように重くなる。
『ま、まさか…炎の魔神が…』
「炎の魔神…? でもそれって」
天界の神々によって封印された炎の魔神。まさか、先ほどの戦いによる余波で封印が破られたのだろうか。
魔神と戦う術など持たない彼は、気絶したままの千秋を抱えて、ただその圧倒的な存在を見返す事しか出来なかった。




