十三話 神器
治療の間へと続く地下階段はどうやらウィルの仕事部屋に隠されているらしい。
棚の奥にある隠しボタンをカチリと指先で触れた瞬間、ガコンと床全体が震え、フローリングの下にある重い石の板がずれるようにして暗い階段が口を開いた。
普通の家の地下を人力でここまで掘る事など到底出来ないはずだ。
しかも電気もないのに白い蛍の群れのような光がふわりふわりと漂い、ぼんやりと壁や階段を灯している。
足元を這うように動く光に目を奪われていると、それは遥の視線に気づいたかのようにすっと身を翻して静かに階段の奥へ消えていった。
「光が、動いた?」
「あれは、光の妖精だ」
「妖精?」
「人間が電気を生み出す前から自然界に存在していたものだ」
更に奥へと進むウィルについていくと、一際光に満ちている魔法陣の中で治療を受けて眠っている千秋と対面した。
彼の中に埋め込まれた黒い薔薇の種──リャナとウィルの力でその種を凍結させて症状の発症を遅らせてはいるが、根本的な治療はない。
黒薔薇はまだ咲いていないが、茎の淡白い光は輝きを増しているので時間の問題だろう。
千秋が御守りを自分で持っていたら、こんな目に遭わなかったかも知れない。遥は彼から貰った御守りをぎゅっと握りしめた。
「千秋は……グールになるのか?」
「……難しいな。彼の意志が薔薇に喰われたらそうなるだろう」
半死人は人間を襲う。しかも知性が低く食欲旺盛で残酷。夢で見た渋谷区と暴れる千秋が重なる。
「渋谷区って、本当に閉鎖されたの?」
素朴な質問を投げかけると、ウィルとリャナは驚いた表情で遥を見つめてきた。
「ハル、お前……視たのか?」
「う、うん……黒い薔薇の花が駅前のスクランブル交差点の所にあって、それで、みんな食われて……」
あの夢を思い出すだけで背筋が凍りつく。
アスラが吹いたフルートの音色が引き金となり、以前から半死人となっていた人間二人が反応した。
佐久間神社を襲ったのも、アスラによって半死人とされた元・人間だろう。
「あれが、アスラの能力だ。彼は一度に数百体の半死人を笛の音で操る」
「グールって、元は人間なんでしょう? それって、みんな喰われちゃったの?」
「渋谷区の人間は壊滅した。あの薔薇が成長して次の区を襲う前にあいつを止めないといけない」
アスラは、人間は我々の餌だという最も吸血鬼らしい性格の吸血鬼だ。
そもそも、旧世紀から人間の血を啜っていた彼らの本質はそれが当たり前で、人間や家畜、生きるもの全て餌としか考えていない。
人の世界を守りたいなど、人間の女に骨抜きにされたウィルが放つ戯言が彼らにとって特殊なだけなのだ。
「──ハル、私は千秋君を救いに行ってくるよ」
ウィルはそう言うと、左耳のパープルクリスタルのイヤリングを外す。
すると、腰まである漆黒の髪に、燃えるような紅の瞳。吸血鬼本来の姿へと戻った。
「待って、俺も行きたい。千秋を助けたいんだ」
「……」
縋るようにウィルの服を掴み、俯いたまま声を絞り出す。
「千秋は俺の大事な友達なんだよ……」
「……ハル、お前は人間の『本心の闇』に耐えられるか?」
遥の覚悟を確かめるため、ウィルは瞳の色だけ元の碧眼に戻し、静かに問いかけてきた。
本心の闇──それは人であれば誰しも心の根底に隠し持つ本音の影の事だ。
だが千秋はどうだろう。恵まれた容姿に抜群の運動神経、サッカー部のエースで頭も良く、明るい性格でクラスの中心にいるような存在。
欲しいものは全て手に入る。そんな彼に闇などあるのだろうか?
霊力も高く、人の心を視る事さえ出来る千秋に不満などあるはずがない、と断言しそうになった。
迷いのない遥の双眸は真剣そのものだった。これは、止めてでもきっと千秋を救いに行くだろう。
ウィルは緩く首を振ると右手側の空間を歪め、銀色に光る短剣を取り出した。
「この短剣は、私には扱う事が出来ない。グラディウスと呼ばれており、古の時代に神が魔物を狩る為に、人間に遣わした神器の一つらしい」
「それは、もしかしてアスラが使っていたものと同じ?」
「そうだ。あいつはミストルティンを神の武器ではなく、死人を喰らう魔剣へと変えた。他にも幾つかあるらしいが、残念ながら私が持っているのはこれだけだ」
遥の手に短剣を握らせると、彼の両手首に浮かぶ赤い薔薇の紋章にそっと指先を這わせた。
「薔薇の紋章は魔の証。赤はグレイス、黒はティエノフだ」
大嫌いな薔薇の紋章も使い方次第で大切な親友を救うことが出来る。
ウィルの結界を破った薔薇の紋章の力。──もしもこの力を使いこなせるようになれば、渋谷で命を落とした人達は報われるだろうか。
「千秋君は精神世界で黒薔薇に喰われかけている。グラディウスで蔦を切り裂け。そして自分が危険と感じたら手首の薔薇の紋章を翳して強く『念じる』事だ」
「……はい」
素直に返事をした遥を見て、ウィルは嬉しそうに眉尻を下げて嬉しそうに微笑んだ。
「ハルが、私に対してそんなに素直になってくれるなんて……華江さんが見たら喜ぶだろうな」
「そ、そんなに俺って捻くれてる?」
「ふふっ……千秋君が戻ってきたらもっと喜ぶことにするよ。さあ、時間がない。今からハルを『仮死状態』にして千秋君の精神に飛ばす。制限時間は五時間だ」
グラディウスを強く握りしめて力強く頷いた。
『冥契の血印』
ウィルが右手を翳した瞬間、心臓に突き刺されたような鋭い痛みが走った。
同時に喉の奥から内臓が逆流しそうなほどの強烈な嗚咽が込み上げる。
遥の視界は一瞬で闇に閉ざされ、意識が遠のいた。




