十二話 母の手紙
赤い霧のお陰で一瞬で佐久間神社から戻って来れたが、それも非現実的なことを思い出させるので頭が痛い。
重い足を引きずり、遥は千秋の肩を抱いて玄関を開けた。
するとこちらの気配に気づき、慌ただしい足音が近づいてくる。
「ハルカ様! どうして勝手に封印を破ったのですか、あれほど──」
「すまないリャナ。治療の間に彼を頼む」
リャナは三人の状況を見て言葉を失った。
そして体格差のある千秋をひょいと抱え、こくりとひとつ頷き、姿を消した。
治療の間と言っていたが、そんな部屋などあっただろうか。
「ハル、おいで」
金髪英国紳士に戻り、リビングの椅子に腰掛けるウィルの姿は毎朝と同じ光景だ。
けれども、隠しきれない薔薇の香りと、アスラの独特な血の匂いが鼻腔に残っている。
あれは、夢ではない。
現に瀕死の千秋が病院ではなくすぐさま家の地下に運ばれたところを見ると、一般の治療では救えない状態なのだろう。
そしてティムが全て終わった時に放った物騒な言葉。
彼らは記憶を操作する。全て、何も無かった事にしてしまうのだ。
あの場所に居合わせていなければ、千秋だけではなく、みんな死んでいたかもしれない。
「決心はついたか?」
思わずびくりと肩が揺れた。
ウィルの存在を受け入れられず、友達を傷つけたことに遥が深い悲しみを抱いていることを十分に理解していた。
ちらりとウィルの顔を見つめる。
鮮やかな碧眼に、金髪を束ねて結び、ラフなカッターシャツとチノパンを履いたごく普通の〈人間〉としての姿は、先ほど異次元の戦いをしていた人物とは思えない。
どう声を掛けたら良いのか分からない。
ウィル、父、吸血鬼……その存在を、否定も肯定も出来ないのだ。
項垂れる遥の様子にウィルは胸を痛めた。
「ハル、すまない……お前を苦しめるつもりは無かった」
ソファーから腰を上げたウィルは母親の肖像画の前に立った。その下にあるローボードの引き出しを開け、一通の手紙を取り出す。
渡された手紙は相当古く、部分的に紙が焼けて朽ち果てていた。
差出人の名前は擦れて読めなくなっていたが、まだ見ぬ私の息子へと書かれていた。
「お、俺が読んでもいいの?」
「ああ。それはハルのだから」
ボロボロの手紙の封を丁寧に開く。ウィルは華江との約束を守りただ一度もそれを開封しなかったらしい。
最初の一文は、達筆で【まだ見ぬ私の息子へ】と始まっていた。
『まだ見ぬ私の息子へ
愛おしい私の息子。
あなたがこの世に産まれてくるのがどれほど待ち遠しいでしょうか。
この手紙は私が万が一何かに巻き込まれた時の為にウィルに託しております。
しかしこれをあなたが読んでいるということは、すでに私はあなたの側にいないのでしょう。
万が一ウィルがお父様達に殺されてしまった時、私はこの手紙を消去します。
逆に吸血鬼達が私達の存在を忌み嫌い、人間世界に対しての革命を起こした時、あなたがこの世界にとって必要となります。
あなたが成人を迎えた時に全てをお話しするつもりでした。吸血鬼と混血児について。
藤宮の血は特殊で、魔物を寄せ付けるものでした。
下等な魔物から私を守ってくれたのがウィルです。
人の世界を脱してウィルと共に吸血鬼の世界で生きることを決意したにも関わらず、私は人間を捨てる、永久を生きるという決断に踏み切れなかった。
この決断のせいであなたはとんでもない事件に巻き込まれているかも知れません。
これは私が死んだ後にあなたに読んでもらうようウィルに託しております。
どうかウィルを嫌わないでください。
混血児という人間の狭間に位置するあなたを産んだ私をどうか恨んでください。
私はウィルと愛し合い、そして私を選んで産まれようとしてくれたあなたを心の底から愛しております。
そしてあなたの存在が、人間と吸血鬼を結ぶ架け橋になるのではないかと思っております。
辛い運命を背負わせるかもしれない。魔物に狙われる危険も高く、あなたが心を許せる人間の友達が出来ないかも知れない。
でも、私がウィルと分かり合えたように、きっといつか人と吸血鬼は一緒に暮らせる世界になる。
愛する人を守りたいという気持ちは種族が違っても同じなのですから。
文字の後半はまだ何か伝えたい言葉があったのかも知れないが掠れていた。
「混血児って、何……?」
「基本的に覚醒しなければ人間としてごく普通に生活する。唯一違うのは、血液型が適合しないことだ」
遥の血液型はAの−とは診断されているものの、その時対応した医者がかなり不思議そうな顔をしていたような気がする。
今思えばあの時診察室にいたウィルがさり気なく魅了をかけて余計なことを話させなかったのだろう。
つまり、些細な怪我でも命取りになりえる。
「混血児の血は、吸血鬼にとって極上の美酒であると同時に、吸血し過ぎると猛毒となって死ぬ」
生かさず殺さずの境界線に立たされている限り、混血児は極上の餌として君臨し続ける。
もしもあの時アスラに捕まっていたら──監獄の闇に囚われて永遠に血を啜われるだけの存在となっていただろう。
クラスメイトと思った男が突然牙を剥き出しにして襲いかかってくる。恐ろしいアスラの顔を思い出した瞬間、背筋が一気に凍りついた。
不安に震える遥をウィルがそっと抱きしめる。
「出来る事なら、これからもハルには『人間』として生活させるつもりだ」
「あの、俺が魘される夢は……」
「華江さんが強く願ったものがハルの夢の中に投影されてしまったんだね。私が意図的に見せたものではないんだ」
悪夢の類は吸血鬼の専門ではない。
毎晩同じ夢を見るのは辛いが、あれが彼の引き起こした夢でないとすると、一体何を示唆しているのか。
「吸血鬼の世界に帰るのか?」
「……まだ帰らないよ。ハルがここに居るからね」
『人間』として全てをなかったことにしてもらい平和に生きるのか、『混血児』としてアスラのような吸血鬼と対立するのか、それともウィルと共に吸血鬼の世界に行くのか。
ウィルの腕に包まれたまま瞳を閉じる。アスラのような吸血鬼が今後も出てきたら──その時、自分は。
「ハル、今は急いで結論を出す必要はないよ。千秋君の容態を確認してこよう」
自分の存在そのものを否定すると両親から注がれた愛をも否定することになる。
だが混血児としての自分を肯定すれば、これから先、アスラのような吸血鬼に狙われ続ける未来と向き合わねばならない。
答えの出ない問いに押しつぶされそうになりながらも遥は小さく頷く。
穏やかな視線を向けてくるウィルの手を取り立ち上がり、迷いの残る一歩を踏み出した。




