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おから村正  作者: 鵜狩三善
ひもじヶ原雪追分(ひもじがはらゆきのおいわけ)

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6/23

あとかくしの雪

 陽が落ちたのち寒さはしんしんと強まり、ついには細雪(ささめゆき)が落ち始めた。

 その宵闇の中へ、名輪からひとつ、滑り出た影がある。(きょう)された夕餉(ゆうげ)で腹支度した宗介であった。

 出で立ちは先頃、門前に立った折と変わらない。ただ右手に、提灯ひとつが加わるのみだ。

 空を見上げた宗介は、淡い雪から守るように刀を合羽の下へ引き入れた。白い息を吐きつつ、歩き出す。

 目指す先は五右衛門に告げた通り、ひもじヶ原だ。


「あの!」


 が、名輪の家をさして離れぬうちに、その背に声がかかった。


「あの、巾木さま!」


 必死の声に足を止めて振り向けば、呼ばわりながら駆けてくるのはみよである。

 防寒も何もない薄着なのは、宗介の出立を知り、慌てて飛び出してきたためだろう。


「どうした」


 問うが、少女は答えない。けれど夜目にも明らかなほど、思い詰めた表情をしていた。伝えたいことがあるけれど、上手くそれを口にできない。そんな風情だった。

 家中では出来ない話なのだろうと察しをつけて、宗介は近くの木立の陰へと入る。

 立ち尽くすみよを手招きし、せめてもで笠を被せた。


「聞くから、焦るな。落ち着いてから物を言え」


 自分が口達者でないことを、宗介は知っている。だから誠実に意図だけを告げ、後は時に任せて淡々と待つ。

 なんとなしに雪を見上げ、あまり長いさせれば風邪を引くかな、などと余計な気を回し始めた頃、ようやくみよが口を開いた。


「さと姉さん、だったんです」


 蚊の鳴くように細い、けれど全身で絞り出した声だった。



 さととは、みよの先達(せんだつ)の名である。

 年の頃は二十と少し。音曲(おんぎょく)に通じ、(ろう)たけた女性だった。

 みよは手習いから行儀作法、三味線の技までもを彼女から教わっていた。

 やわらかに穏やかな人物で、「さと姉さん、さと姉さん」と、みよは彼女を実の姉のように慕ったものである。


 ふたりの関係に影が差したのは、昨年のことだ。

 小娘といえどもみよも女、恋のひとつも齧る年頃である。その片恋の相手の名を伊右衛門といった。

 伊右衛門は言わずと知れた、名輪の跡取りである。

 色白で線の細い才子で、野良仕事に携わる村の男衆とは、もう見た目から何からが違う。

 母であるたきも息子を大層可に愛がり、元服ののちも傍から離さない。間もなく二十を数える(よわい)ながら嫁の来手がないのは、このおふくろ様の所為であると陰で囁かれるほどである。


 そんな相手への慕情であるから、みよは己の恋心を表に出すことはしなかった。村の中心人物と、自分が釣り合わぬのは承知している。

 だからそれはずっと秘めて、いつか過去になる感情のはずだった。

 けれどさとへの感情を歪めたのは、その想いこそである。

 何故なら伊右衛門は、さとに惚れ込んでいたからだ。


 当のふたりの他にこの事実を知るのは、名輪の家でもみよくらいのものだったろう。

 みよに与えられた部屋は指南役のさとの部屋にほど近く、それゆえ少女には、ふたりの囁きを耳にする機会が多くあったのだ。

 だがみよの憧れの人に口説(くど)かれながら、さとの態度は曖昧だった。拒まず、けれど受け入れず、声音にも困惑の風情ばかりが滲む。

 なんで、と思った。


 ――何でも持っているくせに、どうしてそんなに不幸せそうにするんだ。


 それが少女の正直な気持ちだった。(うらや)みは(ねた)みへ転化し、いつしかみよの一方的な嫌悪が始まった。

 諸事世話を受けながら、みよは彼女を「さと姉さん」とは呼ばなくなった。口に出しては「おさとさん」、心の中では「婆」などと悪しざまに呼称するようになった。

 さとはそんなみよの反発を悟る様子だったが、やはり困ったように眉を寄せて、そのまま何も言わなかった。


 そうして、暮れのある日、みよは耳してしまう。

 それは駆け落ちの約束だった。年越しの慌ただしさに紛れて屋敷を抜け出し、ひもじヶ原の塚にて落ち合う。それからふたり、手に手を取って村を出る。

 伊右衛門がさとに語っていたのは、そのような計画である。

 いつもは曖昧に言葉を濁すさとも、ついに彼の一途に(ほだ)され、頷いたようだった。


 ――許せない。


 瞬間に、そう思った。

 さとと伊右衛門が、自分を置いていなくなってしまう。

 そんなのは嫌だ。そんなのは、駄目だ。

 だからみよは、五右衛門に告げ口をした。

 ふたりとも、こっぴどく叱られるだろう。さとなどは厳しい折檻を受けるかもしれない。

 意地悪く、そんなふうに思っていた。少女の悪意とはその程度のものだった。


 翌朝。

 五右衛門はみよを呼びつけ、沈鬱な面持ちで告げた。


『さとは江戸へやらせた。伊右衛門は頭が冷えるまで蔵へ押し込める。可哀想だが、釣り合いの取れるふたりではない。こうするしかなかった』


 そう言ってみよに菓子を与え、下がらせた。


『全ておまえのお陰だ。礼を言うぞ』


 (こうべ)を垂れながら、みよは奇妙な心細さを覚えた。

 羨望しながら、嫉妬しながら、結局少女はさとに甘え切っていた。だからこそ空いた、ぽっかりとした胸の穴である。

 だが少なくとも、大事な人間の一方が村に残ったのは確かなことだ。

 そう考えて、みよはわずかな安堵を得た。


 けれどその夜、思わぬことが起きた。

 伊右衛門が蔵から抜け出し、行方を晦ませたのだ。

 五右衛門が捜索を命じたが手がかりはなく、さとを追って江戸へ出たのだとも、望みを絶たれて身を投げたのだとも言われた。

 そして真相が突き止められるその前に、事件が起きた。

 名輪の小者が死んだ。

 蛇による死だった……



「巾木さまがいらした後、あたし、旦那さまにお伝えしたんです。巾木さまが見せてくださった、屋根の上の蛇のこと。そうしたら、旦那さまは仰ったんです」


 両手で顔を覆い、みよは指の隙間から涙を落とす。

 深い悔いの色しかない雫を。


『そういえば、おまえには教えていなかったな、みよ』

 

 その折五右衛門が見せたのは、何とも(いびつ)な笑顔だった。

 蝶の羽をむしり取る子供が見せるような、ひどく嫌な笑みだった。

 

『さとはな、死んだぞ。おまえが告げ口をしたあの日にな。たきが機嫌を損ねて、そういうことになった。いい具合の女だったのに、惜しいことをした』


 あの晩、約束通り屋敷を抜け出したさとは、供養塚の前で名輪の小者たちに捉えられた。そうして嬲られ、殺され、埋められた。

 残虐の仔細を、五右衛門は嬉々とみよに伝えてのけた。

 その上、更に告げたのだ。

 蛇の祟りを受けた三人の小者こそ、その下手人である、と。


『つまりな、あの蛇はさとだ。死んださとだ』


 続く声は、もうほとんど聞こえなかった。

 みよの耳に轟くのは、過日の五右衛門の言葉ばかりだ。


 ――全ておまえのお陰だ。礼を言うぞ。


 全部おまえの所為だと、今のみよにはそう聞こえた。事実、その通りだと思った。


 ――あたしが、さと姉さんを殺した。


 自身の体を抱き締めて、みよは愕然と蒼褪める。


『なあ、おみよ』


 真実の衝撃にふらつく娘へ、五右衛門は猫撫で声をかけた。

 内心では、にんまりとほくそ笑んでいる。思うさま心を殴りつけ、弱った精神を意のままに支配するやり口は、(かね)てから五右衛門が得手とするものだ。小娘ひとりの思考を誘導する程度は児戯に等しい。


 五右衛門は、ただ癇癖(かんぺき)が強いだけの人間ではない。

 もし彼が小人(しょうじん)であったなら、豪農という地盤を有したところで、こうものし上がれなかったろう。

 少なくとも村ひとつを掌中に握る仕組みを構築する器量が、彼にはある。

 だがそれゆえに五右衛門の判断は、自身の成功体験を基盤とした。己が狭い世界の名君であり暴君であることを、彼は認識していない。

 手前勝手で都合のよい未来図ばかりを、五右衛門は胸に描き上げている。


『蛇はわしらを狙っている。さとへ手を下した三人も、それを使嗾(しそう)したたきも既に亡い。残る恨みはわしとおまえばかりだ』


 五右衛門は、浪人が何者かを知らない。

 だが、そいつは少なくとも蛇を見た。ならば何らかの験力を備えた人間なのだろう。そして自ら、名輪家に関与せんとしている。利用しない手はないというものだ。そう、あの老行者のように。


『その浪人に救ってもらわねば、わしらの命は危うい。ならば気分良く救わせて(・・・・)やろうではないか。そのためには、わかるな? わしらは筋違いの恨みを受けた、無辜(むこ)で無力な被害者でなければならん』


 自助努力しない弱者の傲慢を滲ませて、五右衛門はみよの両肩に手を置いた。


『さとの名は、そやつの前では決して出すな。口を(つぐ)んで黙っていろ。蛇の祟りは、かつての飢饉の怨念とする』


 五右衛門の言葉に、みよは唯々諾々(いいだくだく)と従った。

 命惜しさからではない。続けて、家族のその後の暮らしについてを匂わされたからだ。五右衛門の機嫌を損ねるのは、村八分と同義である。


「あたし、馬鹿だから。馬鹿だったから。ちっとも思わなかったんです。そんなことになるだなんて。そんな、ひどいことになってただなんて……!」


 へし折れたみよの心が形を取り戻したのは、離れで宗介の剣を目にした瞬間だった。

 素人目にも凄まじい抜き打ちと、太刀行きの痕に青白く燃えた不可思議な火。

 屋敷を包む瘴気を打ち払ったその仕業に、みよは思ったのだ。この人なら、と。


 ――この人なら、正しくあたしを罰してくれるに違いない。


 あの蛇がさと姉さんだというなら。

 それならあたしは心から詫びよう。

 許してくれなくったっていい。さと姉さんの手にかかるなら、それでいい。

 そのように思い詰めたみよは、宗介の出立を聞いて冬の夜に飛び出した。自らの罪を、全てを打ち明ける覚悟を携え。


「せめて謝りたいんです。巾木さま、お願いします。あたしも一緒に――」

「やめておけ」


 みよの懇願を、短く宗介は切り捨てた。

 いっそ冷淡と言ってよい声音だった。


「あんたのそれは、自分が楽になりたいだけの行為だ。ただ、あんたが満足するためだけの仕業だ」


 少女の希死念慮を見透かしたように、彼は続ける。


「世の中には取り返しのつかないことがいくつもあって、人の死はそのひとつだ。だからその悔いは、ずっと胸に抱えていけ。同じ轍をもう踏まないように。それからいつか自分が、幼さから同じ振る舞いを受けた時。そっと、それを許してやれるように」

「あ……」


 宗介の言いに、みよは俯けていた顔を上げた。

 いっそ静かに紡がれた言葉だった。けれど仰ぎ見た宗介の瞳は、ひどく穏やかな色をしていた。

 その色彩を目にして、みよは不意に思い出す。さとも時折、同じ瞳の色を浮かべたことを。

 昔はわからなかった。けれど、今ならわかる。

 それはひどく悲しいことを飲み干したその後にだけ現れる、優しさの色なのだ。

 二度と帰らないものの重みを、みよは今度こそ本当に受け止める。


「……と、言いたいところだがな」


 言葉が娘へ沁み込むのを見届けてから、宗介は気まずげな顔をして見せた。


「あんた、騙されてるぞ」

「……え?」

「あんたが告げ口するまでもなく、おさとさんと若旦那さんのことは露見していた。だから、追手がかかったのはあんたの所為じゃない」

「な、そ!?」

「なんでそんなことを言えるのかって? 俺はその若旦那さんに、伊右衛門さんに頼まれてここへ来たからさ」


 これは嘘偽りのない話である。

 出奔(しゅっぽん)ののち江戸へ出た伊右衛門は方相(ほうそう)長屋の門戸を叩き、金四ツ目に助けを求めた。

 だからこそ宗介たちは、名輪家の事情をある程度承知の上でいた。わざわざ五右衛門に昔語りをさせたのは、彼の性根の確かめであり、伊右衛門の話の照合である。


「だからあんたが悔いるのは、おさとさんを悪く思った、その一点だけでいい。おさとさんの死について、あんたに何の責もない」

「ほん、本当に……?」

「本当だ」


 またも短く、だが強く、宗介は請け合ってみせる。 

 鼻の奥がつんと痺れて、みよは身も世もなくまた泣き崩れた。


「ただ、まあ、名輪五右衛門に逆らう振る舞いをしたのはよくなかったな」


 彼女が落ち着くのを待ってから、宗介は名輪家の方角を眺めた。

 みよが飛び出したのは、じき五右衛門の知るところとなるはずだ。とすれば今後、屋敷での彼女の立場が悪くなるのは想像に難くない。


(そそのか)すわけじゃない。これはあくまで、その気があればの話だ」


 相談するように刀を撫で、前置きしてから宗介は告げる。


「あんたには逃げ道がある。あんたみたいな、見る目のある人間は貴重なんだ。もしこの村が心底嫌になったら江戸へ出て、本所の方相長屋を訪ねるといい。俺の名前を出せば、悪くは扱われないはずだ」


 みよはこれに頷いて、「よく考えてみます」と答えを返した。

 生まれ育った土地を、今の自分の居場所を捨てるのは、難しい選択であり決断であることを、宗介はよく知っている。

 だからただ頷きを返し、それ以上は何も言わずに木陰を出た。


 しばらく夜を進むと、やがて背なの側から、小さく歔欷(きょき)が聞こえ始めた。

 が、宗介は足を止めない。

 その総髪にゆるゆると雪が降り積もった。彼の笠は、みよに貸し与えたままにしてある。少しでも少女に降りかかるものを和らげるように。


「いいや、覚え違いじゃない。伊右衛門さんは、そこまで細かな話をしていない」


 歩むうちに問われて、宗介はすまし顔をした。


「ああ、そうだ。あの子の所為じゃないなんてのは俺の嘘だよ」


 むくれた子供をなだめるように、優しくまた鞘を撫でる。


「決して取り返しのつかないことは、やっぱりあると俺は思う。でもあれは、あんな子供が一生背負わなくていい傷だ。違うかな?」


 名輪の仕組みがなかったら、多分違う流れがあった。さとにも、みよにも。

 だが逆にこうも言える。

 名輪家の存在がなかったら、生まれさえできなかった可能性がある。さとも、みよも。

 だから、外からどんなに悪く見えるものでも、生きるためのしきたりならば致し方ない面があると宗介は思う。そこにおいては、五右衛門にも一理あるのだ。

 けれどよりよいやり方へ切り替えうる時分へ至っても、旧弊(きゅうへい)を改めず、旧態依然を是とする思考はよくないものだ。それが既得権益を守るためというなら尚更だ。

 なら、そういうものに振り回されて(・・・・・・)犯した(あやま)ちは、少しくらい大目に見られていいだろう。


「褒めてくれなくていい。嘘を吐いただけさ、俺は」


 言って宗介は、穏やかな瞳で微笑んだ。

 ひもじヶ原へゆくその耳に、幽かな三味線が届き始めている。

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