あとかくしの雪
陽が落ちたのち寒さはしんしんと強まり、ついには細雪が落ち始めた。
その宵闇の中へ、名輪からひとつ、滑り出た影がある。饗された夕餉で腹支度した宗介であった。
出で立ちは先頃、門前に立った折と変わらない。ただ右手に、提灯ひとつが加わるのみだ。
空を見上げた宗介は、淡い雪から守るように刀を合羽の下へ引き入れた。白い息を吐きつつ、歩き出す。
目指す先は五右衛門に告げた通り、ひもじヶ原だ。
「あの!」
が、名輪の家をさして離れぬうちに、その背に声がかかった。
「あの、巾木さま!」
必死の声に足を止めて振り向けば、呼ばわりながら駆けてくるのはみよである。
防寒も何もない薄着なのは、宗介の出立を知り、慌てて飛び出してきたためだろう。
「どうした」
問うが、少女は答えない。けれど夜目にも明らかなほど、思い詰めた表情をしていた。伝えたいことがあるけれど、上手くそれを口にできない。そんな風情だった。
家中では出来ない話なのだろうと察しをつけて、宗介は近くの木立の陰へと入る。
立ち尽くすみよを手招きし、せめてもで笠を被せた。
「聞くから、焦るな。落ち着いてから物を言え」
自分が口達者でないことを、宗介は知っている。だから誠実に意図だけを告げ、後は時に任せて淡々と待つ。
なんとなしに雪を見上げ、あまり長いさせれば風邪を引くかな、などと余計な気を回し始めた頃、ようやくみよが口を開いた。
「さと姉さん、だったんです」
蚊の鳴くように細い、けれど全身で絞り出した声だった。
さととは、みよの先達の名である。
年の頃は二十と少し。音曲に通じ、﨟たけた女性だった。
みよは手習いから行儀作法、三味線の技までもを彼女から教わっていた。
やわらかに穏やかな人物で、「さと姉さん、さと姉さん」と、みよは彼女を実の姉のように慕ったものである。
ふたりの関係に影が差したのは、昨年のことだ。
小娘といえどもみよも女、恋のひとつも齧る年頃である。その片恋の相手の名を伊右衛門といった。
伊右衛門は言わずと知れた、名輪の跡取りである。
色白で線の細い才子で、野良仕事に携わる村の男衆とは、もう見た目から何からが違う。
母であるたきも息子を大層可に愛がり、元服ののちも傍から離さない。間もなく二十を数える齢ながら嫁の来手がないのは、このおふくろ様の所為であると陰で囁かれるほどである。
そんな相手への慕情であるから、みよは己の恋心を表に出すことはしなかった。村の中心人物と、自分が釣り合わぬのは承知している。
だからそれはずっと秘めて、いつか過去になる感情のはずだった。
けれどさとへの感情を歪めたのは、その想いこそである。
何故なら伊右衛門は、さとに惚れ込んでいたからだ。
当のふたりの他にこの事実を知るのは、名輪の家でもみよくらいのものだったろう。
みよに与えられた部屋は指南役のさとの部屋にほど近く、それゆえ少女には、ふたりの囁きを耳にする機会が多くあったのだ。
だがみよの憧れの人に口説かれながら、さとの態度は曖昧だった。拒まず、けれど受け入れず、声音にも困惑の風情ばかりが滲む。
なんで、と思った。
――何でも持っているくせに、どうしてそんなに不幸せそうにするんだ。
それが少女の正直な気持ちだった。羨みは妬みへ転化し、いつしかみよの一方的な嫌悪が始まった。
諸事世話を受けながら、みよは彼女を「さと姉さん」とは呼ばなくなった。口に出しては「おさとさん」、心の中では「婆」などと悪しざまに呼称するようになった。
さとはそんなみよの反発を悟る様子だったが、やはり困ったように眉を寄せて、そのまま何も言わなかった。
そうして、暮れのある日、みよは耳してしまう。
それは駆け落ちの約束だった。年越しの慌ただしさに紛れて屋敷を抜け出し、ひもじヶ原の塚にて落ち合う。それからふたり、手に手を取って村を出る。
伊右衛門がさとに語っていたのは、そのような計画である。
いつもは曖昧に言葉を濁すさとも、ついに彼の一途に絆され、頷いたようだった。
――許せない。
瞬間に、そう思った。
さとと伊右衛門が、自分を置いていなくなってしまう。
そんなのは嫌だ。そんなのは、駄目だ。
だからみよは、五右衛門に告げ口をした。
ふたりとも、こっぴどく叱られるだろう。さとなどは厳しい折檻を受けるかもしれない。
意地悪く、そんなふうに思っていた。少女の悪意とはその程度のものだった。
翌朝。
五右衛門はみよを呼びつけ、沈鬱な面持ちで告げた。
『さとは江戸へやらせた。伊右衛門は頭が冷えるまで蔵へ押し込める。可哀想だが、釣り合いの取れるふたりではない。こうするしかなかった』
そう言ってみよに菓子を与え、下がらせた。
『全ておまえのお陰だ。礼を言うぞ』
頭を垂れながら、みよは奇妙な心細さを覚えた。
羨望しながら、嫉妬しながら、結局少女はさとに甘え切っていた。だからこそ空いた、ぽっかりとした胸の穴である。
だが少なくとも、大事な人間の一方が村に残ったのは確かなことだ。
そう考えて、みよはわずかな安堵を得た。
けれどその夜、思わぬことが起きた。
伊右衛門が蔵から抜け出し、行方を晦ませたのだ。
五右衛門が捜索を命じたが手がかりはなく、さとを追って江戸へ出たのだとも、望みを絶たれて身を投げたのだとも言われた。
そして真相が突き止められるその前に、事件が起きた。
名輪の小者が死んだ。
蛇による死だった……
「巾木さまがいらした後、あたし、旦那さまにお伝えしたんです。巾木さまが見せてくださった、屋根の上の蛇のこと。そうしたら、旦那さまは仰ったんです」
両手で顔を覆い、みよは指の隙間から涙を落とす。
深い悔いの色しかない雫を。
『そういえば、おまえには教えていなかったな、みよ』
その折五右衛門が見せたのは、何とも歪な笑顔だった。
蝶の羽をむしり取る子供が見せるような、ひどく嫌な笑みだった。
『さとはな、死んだぞ。おまえが告げ口をしたあの日にな。たきが機嫌を損ねて、そういうことになった。いい具合の女だったのに、惜しいことをした』
あの晩、約束通り屋敷を抜け出したさとは、供養塚の前で名輪の小者たちに捉えられた。そうして嬲られ、殺され、埋められた。
残虐の仔細を、五右衛門は嬉々とみよに伝えてのけた。
その上、更に告げたのだ。
蛇の祟りを受けた三人の小者こそ、その下手人である、と。
『つまりな、あの蛇はさとだ。死んださとだ』
続く声は、もうほとんど聞こえなかった。
みよの耳に轟くのは、過日の五右衛門の言葉ばかりだ。
――全ておまえのお陰だ。礼を言うぞ。
全部おまえの所為だと、今のみよにはそう聞こえた。事実、その通りだと思った。
――あたしが、さと姉さんを殺した。
自身の体を抱き締めて、みよは愕然と蒼褪める。
『なあ、おみよ』
真実の衝撃にふらつく娘へ、五右衛門は猫撫で声をかけた。
内心では、にんまりとほくそ笑んでいる。思うさま心を殴りつけ、弱った精神を意のままに支配するやり口は、予てから五右衛門が得手とするものだ。小娘ひとりの思考を誘導する程度は児戯に等しい。
五右衛門は、ただ癇癖が強いだけの人間ではない。
もし彼が小人であったなら、豪農という地盤を有したところで、こうものし上がれなかったろう。
少なくとも村ひとつを掌中に握る仕組みを構築する器量が、彼にはある。
だがそれゆえに五右衛門の判断は、自身の成功体験を基盤とした。己が狭い世界の名君であり暴君であることを、彼は認識していない。
手前勝手で都合のよい未来図ばかりを、五右衛門は胸に描き上げている。
『蛇はわしらを狙っている。さとへ手を下した三人も、それを使嗾したたきも既に亡い。残る恨みはわしとおまえばかりだ』
五右衛門は、浪人が何者かを知らない。
だが、そいつは少なくとも蛇を見た。ならば何らかの験力を備えた人間なのだろう。そして自ら、名輪家に関与せんとしている。利用しない手はないというものだ。そう、あの老行者のように。
『その浪人に救ってもらわねば、わしらの命は危うい。ならば気分良く救わせてやろうではないか。そのためには、わかるな? わしらは筋違いの恨みを受けた、無辜で無力な被害者でなければならん』
自助努力しない弱者の傲慢を滲ませて、五右衛門はみよの両肩に手を置いた。
『さとの名は、そやつの前では決して出すな。口を噤んで黙っていろ。蛇の祟りは、かつての飢饉の怨念とする』
五右衛門の言葉に、みよは唯々諾々と従った。
命惜しさからではない。続けて、家族のその後の暮らしについてを匂わされたからだ。五右衛門の機嫌を損ねるのは、村八分と同義である。
「あたし、馬鹿だから。馬鹿だったから。ちっとも思わなかったんです。そんなことになるだなんて。そんな、ひどいことになってただなんて……!」
へし折れたみよの心が形を取り戻したのは、離れで宗介の剣を目にした瞬間だった。
素人目にも凄まじい抜き打ちと、太刀行きの痕に青白く燃えた不可思議な火。
屋敷を包む瘴気を打ち払ったその仕業に、みよは思ったのだ。この人なら、と。
――この人なら、正しくあたしを罰してくれるに違いない。
あの蛇がさと姉さんだというなら。
それならあたしは心から詫びよう。
許してくれなくったっていい。さと姉さんの手にかかるなら、それでいい。
そのように思い詰めたみよは、宗介の出立を聞いて冬の夜に飛び出した。自らの罪を、全てを打ち明ける覚悟を携え。
「せめて謝りたいんです。巾木さま、お願いします。あたしも一緒に――」
「やめておけ」
みよの懇願を、短く宗介は切り捨てた。
いっそ冷淡と言ってよい声音だった。
「あんたのそれは、自分が楽になりたいだけの行為だ。ただ、あんたが満足するためだけの仕業だ」
少女の希死念慮を見透かしたように、彼は続ける。
「世の中には取り返しのつかないことがいくつもあって、人の死はそのひとつだ。だからその悔いは、ずっと胸に抱えていけ。同じ轍をもう踏まないように。それからいつか自分が、幼さから同じ振る舞いを受けた時。そっと、それを許してやれるように」
「あ……」
宗介の言いに、みよは俯けていた顔を上げた。
いっそ静かに紡がれた言葉だった。けれど仰ぎ見た宗介の瞳は、ひどく穏やかな色をしていた。
その色彩を目にして、みよは不意に思い出す。さとも時折、同じ瞳の色を浮かべたことを。
昔はわからなかった。けれど、今ならわかる。
それはひどく悲しいことを飲み干したその後にだけ現れる、優しさの色なのだ。
二度と帰らないものの重みを、みよは今度こそ本当に受け止める。
「……と、言いたいところだがな」
言葉が娘へ沁み込むのを見届けてから、宗介は気まずげな顔をして見せた。
「あんた、騙されてるぞ」
「……え?」
「あんたが告げ口するまでもなく、おさとさんと若旦那さんのことは露見していた。だから、追手がかかったのはあんたの所為じゃない」
「な、そ!?」
「なんでそんなことを言えるのかって? 俺はその若旦那さんに、伊右衛門さんに頼まれてここへ来たからさ」
これは嘘偽りのない話である。
出奔ののち江戸へ出た伊右衛門は方相長屋の門戸を叩き、金四ツ目に助けを求めた。
だからこそ宗介たちは、名輪家の事情をある程度承知の上でいた。わざわざ五右衛門に昔語りをさせたのは、彼の性根の確かめであり、伊右衛門の話の照合である。
「だからあんたが悔いるのは、おさとさんを悪く思った、その一点だけでいい。おさとさんの死について、あんたに何の責もない」
「ほん、本当に……?」
「本当だ」
またも短く、だが強く、宗介は請け合ってみせる。
鼻の奥がつんと痺れて、みよは身も世もなくまた泣き崩れた。
「ただ、まあ、名輪五右衛門に逆らう振る舞いをしたのはよくなかったな」
彼女が落ち着くのを待ってから、宗介は名輪家の方角を眺めた。
みよが飛び出したのは、じき五右衛門の知るところとなるはずだ。とすれば今後、屋敷での彼女の立場が悪くなるのは想像に難くない。
「唆すわけじゃない。これはあくまで、その気があればの話だ」
相談するように刀を撫で、前置きしてから宗介は告げる。
「あんたには逃げ道がある。あんたみたいな、見る目のある人間は貴重なんだ。もしこの村が心底嫌になったら江戸へ出て、本所の方相長屋を訪ねるといい。俺の名前を出せば、悪くは扱われないはずだ」
みよはこれに頷いて、「よく考えてみます」と答えを返した。
生まれ育った土地を、今の自分の居場所を捨てるのは、難しい選択であり決断であることを、宗介はよく知っている。
だからただ頷きを返し、それ以上は何も言わずに木陰を出た。
しばらく夜を進むと、やがて背なの側から、小さく歔欷が聞こえ始めた。
が、宗介は足を止めない。
その総髪にゆるゆると雪が降り積もった。彼の笠は、みよに貸し与えたままにしてある。少しでも少女に降りかかるものを和らげるように。
「いいや、覚え違いじゃない。伊右衛門さんは、そこまで細かな話をしていない」
歩むうちに問われて、宗介はすまし顔をした。
「ああ、そうだ。あの子の所為じゃないなんてのは俺の嘘だよ」
むくれた子供をなだめるように、優しくまた鞘を撫でる。
「決して取り返しのつかないことは、やっぱりあると俺は思う。でもあれは、あんな子供が一生背負わなくていい傷だ。違うかな?」
名輪の仕組みがなかったら、多分違う流れがあった。さとにも、みよにも。
だが逆にこうも言える。
名輪家の存在がなかったら、生まれさえできなかった可能性がある。さとも、みよも。
だから、外からどんなに悪く見えるものでも、生きるためのしきたりならば致し方ない面があると宗介は思う。そこにおいては、五右衛門にも一理あるのだ。
けれどよりよいやり方へ切り替えうる時分へ至っても、旧弊を改めず、旧態依然を是とする思考はよくないものだ。それが既得権益を守るためというなら尚更だ。
なら、そういうものに振り回されて犯した過ちは、少しくらい大目に見られていいだろう。
「褒めてくれなくていい。嘘を吐いただけさ、俺は」
言って宗介は、穏やかな瞳で微笑んだ。
ひもじヶ原へゆくその耳に、幽かな三味線が届き始めている。




