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おから村正  作者: 鵜狩三善
人恋刀二世道行(ひとこいがたなにせのみちゆき)

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勿来七人崩れ

 せんを手にした宗介に、あっと包囲の輪が広がった。(おのの)いた剣士たちが、こぞって退(しりぞ)いたのだ。

 宗介の技量は、この面々なればこそ知悉(ちしつ)している。いずれも道場稽古で(おく)れを取った、苦い記憶があった。

 そこへ加えて、宗介が握る秋水だ。

 それはひと目で(あや)しと知れる存在だった。その上でなお、鮮烈な蠱惑を宿していた。鈍い刃の輝きは、人の、剣士の本能の奥底へ、強く訴えかける(つや)めきそのものである。


 ――あれが欲しい。あれで斬りたい。あれに、血化粧を施したい。


 傾国の美姫の肌身を目にしたような情欲めく欲望に駆られ、ごくりと生唾を呑んだのはひとりふたりではなかった。

 衆目を惹きつけてやまない刀身の奥底から、じわり緋色が滲み出る。それは()れた鬼灯(ほおずき)のように赤々と色を強め、やがて妖火と変じて刃に絡んだ。


「……いざ!」


 この妖変を感得したか、どうか。

 自らを鼓舞するように呟いて、先陣を切ったは小山田だった。彼と宗介の双方に、交わす言葉は最早ない。

 大上段に構えた小山田が踏み込み、手負いとは思えぬ迅速で、宗介がこれに応じた。一瞬の交差ののち、ずるずると地へと(くずお)れたのは小山田である。

 斬り捨てたでは、ない。

 小山田の打ち込みは、まるで斬ってくれと言わんばかりのものだった。おそらくは宗介の刃を、背信の咎として身に受けるつもりでいたのだろう。

 なので宗介は上段の剣が落ち切る前に踏み入って、脾腹(ひばら)に存分の当て身を食らわせた。せんにより鋭敏化された知覚があればこそ為せた反応であり、早業である。


「殺したいほど憎まれただとか、勝手に思い込まないでください」


 至極小さな宗介の声は、果たして小山田の耳に届いたか。

 確かめる(いとま)すらなく、次なる剣士が間を詰めてくる。その名を大葉といった。火の出るような苛烈な攻め手を得意とする男である。七剣の中では最も歳若く、二十半ば。それだけに宗介と比較される機会が多く、剣における宗介への敵愾心は誰より強い。

 対して宗介は、昏倒した小山田を遮蔽にする形で後退。(せん)を己の右横へ(そば)めた。

 剣を我が身に隠し、間合いと初動を秘する脇構えである。逆に言えば相手の刃へ備えなく己が身を晒す形であり、これを道場で宗介が使った(ためし)はない。


 初見の構えに、大葉が一瞬の躊躇を示す。

 が、攻めやすしと(もく)したか。噛み破りうると確信したか。刹那の睨み合いののち、大葉は小山田の体を跨ぎ越え、ぐいと前へ躍り出た。

 勝気からの速攻と見えた。大葉自身も、己の意志でそうしたつもりであったろう。

 が、違う。

 実際のところその攻勢は、魅入られて自ら火へ飛び入る羽虫のさまに等しいものであった。


 宗介の構えは一見、特徴も独自性もない至極ありふれたものだ。

 だがこのひとりとひと振りにぴたりと似合ったそれは、妖気の如き引力を有していた。それは対峙する者を呑む圧力ではない。意識を鈍麻させ、どうしてか宗介の眼前へ、不用意に、無防備に、ふらりと足を歩み出させる種類の力だった。

 それは川面へ突きたてられた妖刀が、我が元へ羊毛を引き寄せるさまに似る。

 引き波のようなこれに、大葉は囚われた。囚われて、動いた。宗介とせんに、見事誘われた形である。

 ゆえに大葉の一刀よりも、宗介の剣閃が速い。刀を握る左手指四本を、せんは骨無きが如くすぱりと断った。命までは取らない。が、剣士としては終わってもらう。そのような一撃だった。

 他者へ刃を向けたのだ。当然、その程度の覚悟はあったろう。


 宗介の手並みを改めて目の当たりにし、続くふたりは目くばせを交わして左右に散った。挟撃の構えである。

 この両名――舟木と三好は竹馬の友だ。幼い頃からまるで兄弟のように育ち、相模時代に壬生道場の門を叩いたのもまったく同時であったという。どちらか一方を欠けば、もう一方もここまで大成しなかったろうと評される剣友でもあった。

 それだけに彼らの連携は、恐ろしく息の合ったものとなろう。

 だから宗介は、ふたりに先んじて動いた。

 踏み込みざま、下方からすくい上げる形で一閃。その刃を中空で翻し、上段から雷電のように地へ落とす。舟木の右膝と三好の左肩を狙う太刀行きであったが、明らかに間合いの外だ。

 どちらの剣士もそうと察して、防ぐ動きをしなかった。

 無論、誤謬(ごびゅう)である。

 宗介の斬撃の後を追い、赤く紅く妖火が(はし)る。それは刀剣の切れ味と、見定めた獲物のみを焼く陰火の性質を兼ね備えた妖威であった。

 火刃に斬られ、更には焼かれ、ふたりは驚愕と悲鳴を上げて地を転げた。


 当然のように使いこなしてのけたが、実を述べれば、この火を()るのは宗介もせんも初めてのことである。

 けれどふたりは本能的に、妖火の扱いを理解していた。

 その感覚は人が五体を動かす折に、いちいち悩まぬさまに似る。たとえば右腕を動かそうとする時、脳髄はどこの筋肉へどういう指令を出すか吟味しない。そう思えば、その意に沿った動きが自然と発される。

 宗介たちにとって妖火は同様の、つまりは手足の如きものであった。


 たちまちに四人を斬り伏せ、けれど宗介の息は荒い。大分、血を流していた。

 目が霞み、耳は鳴り、それでも周囲が知覚できるのはせんのお陰だ。

 だから残る七剣が、鴨井と笹原が何やら喚くのも把握していた。しかし無理な立ち回りのため意識は朧で、何を吠えられているのかがよくわからない。ただ敵意を、殺意を向けられていることだけが明らかだった。

 それで宗介は、耳も貸さずに踏み込んだ。

 風を巻いて襲い来たその袈裟切りを、笹原は辛うじて受けた。

 受けたが、ただそれだけのことだった。笹原の刀がせんと噛み合えたは須臾(しゅゆ)のこと。次の瞬間それは両断され、笹原は鎖骨から腹にかけてをざくりと深く切り下げられる。宗介の手心がなければ、刀同様、真っ二つになっていたろう。


 しかし続く横薙ぎは、鴨井に外された。

 身に覚えさせた剣の賜物(たまもの)、というわけではない。ただ怯えて腰が引け、松明を放り出して下がった結果の(かわ)しである。

 そのまま逃げ去ればよいものを、動きを止めて辛い呼吸をする宗介を見て、鴨井は欲心を働かせた。それは宗介の刀を、せんを奪い取らんという欲動である。


 ――どこでどう手に入れたかは知らんが、小僧には過ぎた持ち物だ。あれは、私にこそ相応しい。


 そのように鴨井は思った。

 名刀は正しい場所に、つまりは我が腰にこそあるべきだ。であればこそ箔がつき、その輝きも弥増(いやま)す。

 忌々しくも腕の立つ小僧だが、気息奄々(きそくえんえん)(てい)ではないか。既に覚束(おぼつか)ぬその足取りで、果たして我が太刀を受けうるか。

 勝ちを確信した慢心の太刀は、宗介に触れもしなかった。無論、せんへも。

 ほんの半歩の後退だけで、宗介は鴨井の切っ先に空を切らせる。

 足を前に戻しざま懐に入り、続けて振るわれたのは剣ではなく、掌底だった。痛烈な打撃が、鴨井の顎を真下から打ち抜く。一瞬、釣り上げられたように棒立ちとなった鴨井は、ひと呼吸ののち膝から崩れた。

 舌こそ噛まねど、或いは砕けた歯もあったろう。しばらくは物を噛むのにも不自由すると思われた。


 容易く斬り散らされたかに見える相州七剣であるが、実のところ宗介と彼らの剣力にそこまで大きな開きはない。長年の努力を容易く凌駕してのける天稟(てんぴん)など、極めて稀だ。

 ならばこの結果が何に拠るかを語るなら、当然ながらせんにである。妖魅としての力、妖刀としての性能を、彼女は今宵、存分に(ふる)ってのけた。

 そこへもうひとつ理由を加えるならば、胆力の差ということになるだろう。

 宗介をただ狩るだけの獲物と下に見た彼らは、対等な剣士へ変容した少年に即応する気迫を欠いた。言ってしまえば、窮鼠に噛まれる猫に近い。

 いずれにせよ事に臨み、しなかやで強い精神を欠けば、十全の力は発揮できないものだ。一眼二足(いちがんにそく)三胆四力(さんたんしりき)とは、先に述べた通りである。

 そして七剣の心の遅鈍については、玄蕃の一件からも窺い知れることだった。


 傷を抑え、肩で息をする宗介の隣へ、せんが寄り添う。

 気づかわしく横顔を見上げ、何か言いかけた時だった。


「一体なんだ、宗介。その刀――いや、女は」


 戸惑いと警戒の声を発したは壬生兵庫。宗介の恩師にして恩人たる、巨躯の剣士である。

 兵庫の視線は、じっとせんへ注がれていた。宗介の予感した通り、彼は彼女を視認していた。


「へえ。わたしが見えるんだ」


 宗介に続くふたり目、以前は待ち望んだ自分を認識してくれる相手との出会いであったが、せんの声音は驚くほど冷たかった。

 まるで心が弾まぬ理由を自問して、せんはたちまち答えに至る。


「でもそうだとしても。宗介を傷つける人なら、わたしは嫌い」


 確認めくせんの呟きに、はっとしたのは宗介だった。


「……ああ、そうか。俺は、痛かったのか」


 宗介自身には、これまで自覚のないことだった。

 彼の悪癖のひとつに、自責が強すぎる点がある。

 生まれ育った環境もあり、宗介は常に、非があるのは自分と考える人間だった。

 何を言われても、されても、道理はあちらにあるのだからと、深く考えずに悪意をただ受け止めてきた。そうする日々に慣れ切っていた。

 けれど今、ようやく気づいた。傷ついていたのだ、自分は。

 ひとりきりで、寂しくて。心を寄せた人々の裏切りが、苦しくて。ひどく痛くて悲しくて、泣きたかったのだ。

 せんの言葉で、それがすとんと()に落ちた。それで、少しだけ心が凪いだ。


「ありがとう、せん」

「え、んん?」


 唐突な礼に一瞬首を傾げた彼女は、しかしすぐさま難解な宗介を理解する。


「どういたしまして!」


 応じるや、ぱっと笑顔を咲かせてみせた。


 そんなふたりを、兵庫はただじっと見ている。

 兵庫の見る目は、宗介ほどに優れない。彼はせんを、ただほの光る、朧な女の形としてのみ知覚していた。言葉もまた同様で、まるで水中の音のようだった。くぐもって確かに聞き届けられない。

 だがそれが、何か睦まじいものであることだけは把握できた。

 そのように魔性と言葉を交わす宗介を見て、兵庫の両眼には、底冷えのする光が宿りつつある。

 この時、不意に兵庫の中で膨れ上がったのは確信だった。

 それは予てより覚えていた違和感の結晶である。


 兵庫の心を明かす前に、まず言明すべきことがある。

 それは兵庫が、今夜の謀略に賛同していなかったという点だ。鴨井や徳五郎があまりにしつこく騒がしいため、乗る素振りをしてみせたに過ぎない。

 宗介と兵庫の感性は近く、剣に余計を持ち込むを(いと)う心は同様か、宗介以上に兵庫が強い。つまるところ兵庫には、そもそも無法の仕置きを許すつもりがなかった。

 恩義は覚えれど、徳五郎の犬に成り下がる気は毛頭ない。

 また諸道場が玄蕃に後れを取った自分を軽侮するというのなら、改めて剣で問うてやればよいだけの話である。


 ――あれに敗れたそのおれに、それでお前は勝りうるのか。


 刀ではなく脅しを突きつけてやるだけで、いずれも立ちどころに表情と態度を変ずるに決まっていた。

 そしてそんな面倒をして回るくらいなら、宗介を連れて旅に出る方が余程に面白かろうとも、兵庫は考えていた。

 剣に拘らず、ただ景勝を巡り、美味いものを食い歩くでも構わない。

 この少年は、もっといい目を見るべきだ。世に出て、それが思うより優しくできていることを、自分が愛されうることを知るべきだ。

 だが、流石に諸国漫遊までは夢想である。

 兵庫は一流の当主であり、彼を信じ、従う剣士たちとその家族の暮らしを、幸福を保証する責を負っている。気ままに流派を捨てるなどするべきではない。


 だから折衷案(せっちゅうあん)として、兵庫は今宵、宗介に免許皆伝(・・・・)を贈り、あんこうを馳走し、それを餞別(せんべつ)に送り出す算段をしていた。

 仰々しく二刀を帯びたも、鴨井らの強行を掣肘(せいちゅう)し、宗介のために活路を斬り開く覚悟の姿だった。

 言ってしまえば小山田の先走りが、この上ない誤算であったのだ。


 しかしここへ来て、風向きが変わった。

 境内に陣取っていた兵庫は、門弟たちに一歩遅れてこの場へ駆けつけ、そして見た。見て、しまった。

 摩訶不思議なる本殿の出現と、そこから走り出た妖しの刀を。

 恐ろしく馴染んだ姿で妖刀を振るい、あまつさえ妖火を繰る宗介の姿を。



 壬生兵庫は、相模の地に生まれた剣士である。

 体躯に恵まれ、剣才に優れ、若くしてこの道に頭角を現した。

 が、生憎それ以外の才には恵まれなかった。

 小さな道場を構えはした。慕ってくれる門人もできた。だが大成には至れなかった。

 天狗に授けられた剣だと箔づけしたところで効能はなく、道場主である兵庫自ら日銭を稼ぎ、弟子たちと共に糊口(ここう)(しの)ぐありさまだった。

 そこへ現れたのが徳五郎である。

 常陸の巾木村まで来てもらえるなら、暮らしの世話をするのみならず、一帯の剣の盟主に仕立てようと持ちかけたのだ。

 出来過ぎて疑うべき申し出だったが、兵庫は乾坤一擲(けんこんいってき)の心地でこれに応じた。このままでは自分の剣に先がないことを、兵庫は予感していた。


 そして博打の(さい)はよい目を出した。

 徳五郎の言葉に嘘偽りはなく、兵庫は長年連れ立った門人たちに、ようやく報いることができた。尊敬と憧憬の眼差しを受ける暮らしは、兵庫にとっても快いものだった。

 自分が積み上げてきたものが、ついに形を為した。そう思えた。


 その感触が変じたのは、宗介を指南するうちにである。

 兵庫の観察眼には、この村で起きる出来事の全てが、この宗介という少年を中心に渦巻くように見え出した。

 何かがいる。陰で糸を繰る何かが。

 それは宗介という人間を恣意(しい)のままに歩ませるべく、兵庫を含む周囲の人間の生きざまを捻じ曲げている。自分や徳五郎は、宗介のために用意された駒であり、今日(こんにち)の栄華はその成功報酬として投げ与えられたものである。

 そのように感じられ始めた。

 これは剣士としてというよりも、生き物としての直感だった。

 途方もない屈辱であり、侮辱だった。兵庫が生涯を賭して磨き抜いた剣が、彼のこれまでの生の全てが、まるで踏み台であるかのようではないか。


 かつて兵庫は宗介に、こう告げたことがある。


 ――偏愛か寵愛かはわからんが、宗介、お前は何かに愛されているように見えるな。


 当の少年は不思議そうな顔をしてたが、これは嘘偽りのない心境の述懐だった。

 この感覚を確信させたのが島崎玄蕃の現われだ。

 この男もまた、糸を繰るものの被害者と見えた。兵庫を招くため、その下地を作るために、都合よく生を捻じ曲げられた存在と感じられた。

 対峙してみれば、やはり玄蕃は人ではなかった。それは玄蕃という人の皮を被った何か、いいように踊る傀儡(くぐつ)だった。

 宗介を愛でる何かにとって、自分は不要になったのだと、兵庫はそう直感した。ゆえに同じ道具のひとつである玄蕃を用い、兵庫を廃棄せんと目論見たに違いなかった。

 それを妨げたが当の宗介であったは、皮肉としか言いようがない。



 斯様にして、兵庫の内には(うずたか)く疑心が降り積もっていた。

 そして今宵、ついにそれへ火がついた。

 妖刀の妖威を目の当たりし、また宗介が恋い慕う人にするようにそれと接するのを見て、兵庫は全てが結びついたと思った。

 あの刀――女こそが宗介に纏いついていた魔であり、宗介の夜の師であったのだ。

 裏で糸を引いていた妖魅がついにその本性を現し、実らせた稲穂を刈り取るように、肥え太らせた家畜を屠るように、宗介という獲物を収穫してしまった。

 少年の魂はとうとうその虜にされてしまったのだと、この大剣士は確信したのである。

 燃え上がった猜疑(さいぎ)の火は、宗介を(ほしいまま)にする妖魅への憎悪へと、熱量をそのままに転化した。


 壬生兵庫は、宗介が思い描くような巨人では決してない。長所も短所も併せ持つ、ただ一個の人である。

 加えて彼には、己の眼力へ重きを置きすぎる嫌いがあった。

 それは一種、信仰にも近しい。

 長く磨き続けた観法は、常に兵庫の道を正しく照らし続けてきた。ゆえに此度(こたび)も、重ねてきた自身の推測こそが正答であると兵庫は信じた。宗介とせんの関係を、ただ悪しきものと見た。

 無理からぬことである。そもそもからして一体誰が、人と刀の間に綴られたが恋物語と思おうか。


 だがだとしても、しかしあまりにも、兵庫の断定は早計だ。

 安易に結論に飛びつき盲信に至る思考の不自然は、兵庫をよく知らぬ者にも察せらるることだろう。かつて宗介の剣に、もうひとりの師の深い愛情を透かし見たことすらも、兵庫の念頭からは抜け落ちている。

 ざわざわと、笑声(しょうせい)のように椎の木が揺れた。

 その異常の根源が、するりと兵庫の足下(そっか)で蠢く。雪舞う冷たい夜に、一匹の蛇がそこにいた。鬼灯(ほおずき)のように赤い目をしたそれは、誰ひとりにも気づかれず、玄蕃より這い出た蛇だった。


 玄蕃から抜け出し壬生道場に潜んだこの蛇は、兵庫の精神を損ねるべく、彼に呪詛を吹き込んでいた。

 心の内の疑念を膨らませ、脳髄に不審を刷り込み、その耳を塞ぎ、都合よく目にもの見せる。蛇が兵庫へ施したのは、そのようなまじないである。時をかけて人格を歪め、崩壊させるための下準備であり、本来、即効性のあるものではない。

 言ってしまえば、これは悪足掻(わるあが)きだった。

 蛇は宗介を巾木の地から逃すまいと、宗介とせんの間を引き裂かんと、今この時、不十分で不完全な呪いを強引に作用させたのである。これにより兵庫の思考は狂い、俗に言う、「化かされた」状態に陥った。そうして蛇の思惑がままに、宗介の刀を悪と断じた。 


 だが、このことで兵庫を責めるは酷だろう。

 容易く晦まされたかに見えこそするが、流石に想定の埒外というものである。宗介とせん、人妖の恋と等しいことだ。やはり同じく一体誰が、この寒村に二体もの――せんとは別の妖魅が潜み居たを見抜けようか。

 そして慮外のり糸を、果たして何者が(かわ)しえようか。


「その刀を捨てろ、宗介。その女は、悪いものだ」


 いっそ優しく、兵庫は宗介に語りかける。

 明らかな最後通牒(さいごつうちょう)であった。

 せんが、はっと宗介の顔を仰ぎ見る。宗介が兵庫へ(いだ)く、敬慕の強さを知るからもある。だが何よりせんは、ここが分水嶺(ぶんすいれい)であると直感していた。

 ここに至ってなお、兵庫からは宗介に対する慈しみが感じられる。兵庫が敵意を向けるのは、間違いなくせんへのみだ。

 ならば兵庫に宗介を委ねれば、彼の指図に従って自分が捨てられれば、宗介はきっと、人の側へ立ち戻ることができる。後のことは兵庫が請け負ってくれるはずだ。

 真に宗介の幸福を願うなら、自分はこの選択を後押しすべきではないか。

 そう、思った。思ったが、動けなかった。どうしても言葉が出ない。


「できません。兵庫さん(・・・・)の言葉であっても、それだけはできません」


 そしてせんの逡巡のうちに、宗介は首を横に振ってしまった。

 初めて兵庫の前で用いられた、「兵庫さん」との呼びかけ。隠された親しみであったそれは、この時、大きくその意味を変えていた。そこに含有されるのは決別だった。それは兵庫がもう宗介の、「先生」でないことを示すための言葉だった。

 

「せんは俺の、片羽(かたは)なんです」


 柄を握る宗介の指の強さに、刹那向けられたその目の色の優しさに、場所柄も(わきま)えず、せんは涙ぐみそうになる。


「……ならば致し方ない。払うぞ、宗介。なるべく死ぬな」


 平素自己主張の薄い少年が見せた断固たる拒絶の意志を、その深い執着を受け、兵庫は問答を断念する。

 出藍の誉れと呼んで差し支えない愛弟子だったが、事程左様に妖魅に魅入られたとあらば是非もなし。宗介の剣腕を思えば、彼はこののちこの土地に、島崎玄蕃以上の災禍をもたらしかねない。

 ゆえに兵庫は、これよりの行いを破邪顕正(はじゃけんしょう)と心得た。正しいことのために、腰の大小を抜き放つ。


 二刀流とは本来、防御の姿勢である。片手打ちに物を斬る困難を思えば、これが攻めに向かぬことの理解は容易だ。

 だが兵庫は死に胴ながら、片手技で人体を両断してのける男である。生来の剛力と磨き抜いた観法の双方を組み合わせることで、兵庫は二刀を極めて攻撃的なものへと変質させていた。

 元来は防ぎに向く特性を活かしてじっくりと敵を知り、そこより剣撃を組み立てる。転じて起こる烈火の攻めはやがて至妙の三歩へと至り、如何なる剣士をも打ち砕く。

 伝えて伝えられる技でも、学んで学べる剣でもないから流派に取り入れてはいないが、天与を最大限に活かしたこの二刀流こそが兵庫の剣の神髄だった。かつて相模の山中で天狗らしきものを斬り捨てたのも、この構えにてある。

 そのまま、ずいと進み出た。巨岩がのそりと迫るような、恐るべき威圧がそこに生じる。

 応じて、宗介がせんを脇に側めた。

 兵庫がせんを、打ち砕くべき敵と見定めたのは明白だった。彼女を捨てない限り、その耳へは如何なる言葉も届くまい。

 だが無論ながら宗介に、そんな選択があるはずもない。ならば帰結は知れたこと。


 宗介の脇構えは、兵庫にとっても異常のものであった。

 一見攻めやすく思えるそれは、兵庫がこれまでに味わった経験のない、重く妖しい気配を帯びる。

 それは不気味な引力のようだった。まるで引き波に攫われるように、視線も、大気も、宗介に吸い寄せられていく。そのように感じられた。心得の浅い者ならば耐え兼ねて、自ら斬られに行くかのような踏み込みをしたことだろう。

 大山(だいせん)真流(しんりゅう)ならぬ、これこそが本来の宗介の剣だと言わんばかりの姿勢だった。

 この見事さに、玄蕃の尋常ならざる振る舞いを重ね見て、兵庫はより確信を深める。

 宗介が時折見せた、凄まじいまでの剣の冴え。それはこの妖刀がもたらしたものであったのだ、と。

 やはりこの少年は魔に飲まれたのだと嘆息し、兵庫は全身に気を張った。最前目撃した妖火の放ちを警戒し、視線や剣先によるいくつもの牽制を絡めつつの、じりじりとつま先で間合いを詰める。露骨な長期戦の構えだった。


 蛇の晦ましを受けようと、剣において兵庫の眼力と判断に誤りはない。

 じわりとした持久戦は、現状の宗介に対する最適解だ。

 今の宗介は、精神が肉体を凌駕した状態にある。瞬間の切れ味においては兵庫にも勝ろう。

 が、その肉体は確実に弱っている。気迫は決して無限ではなく、精神とは肉体の玩具に過ぎない。いずれ集中と気力が乱れ、揺らぎが生じる。兵庫はただその時を待ち、その隙を突けばよかった。


 果たして永劫のような対峙ののち、兵庫でなければ察知できないほどほんのわずかに、宗介の引力が衰えた。

 待ちに待った好機を得、兵庫は裂帛(れっぱく)の気合とともに右の剣を鋭く突き込む。

 突かされた、と気づいたのは、合わせてしなやかに宗介が動いた瞬間だった。喉笛へ迫った兵庫の切っ先を、くるりと(たい)を回して宗介は外す。

 そこから生じる反撃の一刀を捌くべく、兵庫は宗介の踏み込みを注視する。誘われたとの気づきが、幸いにも早かった。お陰で兵庫の姿勢は少しも乱れず、懐へ潜り込んでくる宗介へ十全の対応が叶う――はずだった。

 その刹那、宗介の姿が白と黒に覆われた。

 白装束に、雪のように白い肌。そして絹糸のように細く、深い夜のように黒く長い髪。

 兵庫の視界を遮ったその色の正体は、顔の高さに躍り出て、精一杯に両手を広げたせんである。兵庫は、朧ながらもその両目にせんを捉えた。つまり兵庫に対しては、せんは目隠しとして機能するのだ。

 一瞬ながらも完全に宗介の姿を見失い、兵庫は咄嗟に脇差を払う。妖女を退散させんとする仕業だったが、用をなさないことである。

 確かに先刻、せんの幽姿は幻体に近いほどの現実性を得た。けれどそれを保持できたのは束の間であり、今の彼女はかそけき存在に逆戻りしている。実体に干渉できないせんは、同様に実体からの干渉を受けない。

 せんが目隠しの役割を果たしたのは、このわずかひと呼吸の時間だけだ。

 だがそれは、高度に拮抗した天秤の趨勢(すうせい)を定めるに十分なものだった。


 せんに目を奪われるのは、宗介もまた同様である。

 だが彼は予め、彼女がそうすることを承知していた。その上で続く行動を組み立てていた。ゆえに、迷いも惑いもありはしない。

 獣のように身を低めた宗介が、風のように兵庫の脇を駆け抜ける。後背へ至ると同時に反転しつつで高く跳び、長身の兵庫の首の後ろへ、思い切りせんの柄尻を叩き込んだ。

 鍛え上げられた兵庫の体に、生半(なまなか)な打突は通用しない。それゆえの、捨て身のような一撃だった。

 (ぼん)(くぼ)へ痛烈な衝撃を受け、兵庫の意識は立ちどころに闇へと沈む。


「……また助けられたな。ありがとう、せん」


 巨躯がどうと伏すのを見届けてから、宗介は詰めていた息を吐いた。

 刀身を左肘の内に挟み、その箇所の生地でせんに絡んだ血を(ぬぐ)う。

 兵庫の剣腕は実際凄まじいものだ。もし真っ向正面から立ち向かっていたならば、倒れていたのは宗介だったはずだ。

 だがせんとの以心伝心の小細工により逆転の目が生まれ、その上、手心を加える余裕まで生じた。兵庫と殺し合うなど絶対にしたくなかった宗介からすれば、冥加(みょうが)至極のことである。


「ううん。こちらこそだよ。ありがとう、宗介。わたしを選んでくれて」


 首を横に振りながら、せんは応える。 

 そして一度言葉を切って、痛ましげに宗介を見た。


「それから、ごめんなさい。わたしを選ばせてしまって」


 兵庫に突きつけられた選択は、宗介の機会だった。真っ当な剣士として村で生きる道に通じる好機だった。せん自身も、とうとうその時(・・・)が来たと感じた。

 だのに、動けなかった。

 心の準備と練習を重ねてきたはずなのに、それでも彼女は、宗介の手を離せなかった。やめたはずの傍観をして判断を宗介に委ね、その消極性から彼を自分の側へ、妖魅の側へと引き落としてしまった。

 ゆっくりと目を(つむ)り、せんは自身の胸に両手を当てる。そうして、続けた。


「――でもね。でもすごく、嬉しかったな」


 宗介のことを本当に想うなら、親しい人々との別れを強いてしまったその後には、決して言ってはならない言葉だった。

 けれど、言わずにおれない言葉でもあった。

 小さく震える触れえぬ肩を抱く代わり、宗介は我が腰にせんを()く。それからそっと穏やかに、その柄頭を撫でた。歔欷(きょき)が静まるのを待ちながら、或いは意識を喪失し、或いは痛みに呻くがままの六名の兄弟子を見やる。

 それから、ぽつりと思った。


 ――言ってくれれば、よかったのに。


 事情を話してくれさえしたら、なんだってやりようがあった。

 どうせ遠からず、せんと村を出るつもりだったのだ。最後に下手な芝居をしたってもよかった。


 ――俺が邪魔だったなら、ただ、言ってくれればよかったのに。


 胸中で漏らしてから、宗介は首を横に振る。

 それでは多分、駄目だったのだろう。壬生道場の安堵は、自分に無惨を強いることでしか得られないものだった。それこそが彼らの不安を拭い去る唯一無二のものだった。

 今宵のことの根にあったのは、そうした希求だ。

 わかりやすく目に見える形での安心を彼らは欲した。信頼の薄い宗介の言葉などに、この代理は務まらない。


 それに、と、宗介は眼差しを兵庫へ向けた。

 兵庫の思惑はそこになかったように思う。

 それが幸いなのは、兵庫が宗介への仕置きに賛同していなかったと知れる点だ。おそらく彼は最後まで、宗介のよき師であり、よき兄でいてくれた。

 同時に不幸なのは、兵庫がせんを甚く敵視した点だ。宗介が如何に言葉を尽くそうと、兵庫はせんを認めなかったろう。宗介が刀を捨てる選択をしたならば、兵庫はすぐさませんをへし折っていたことだろう。

 兵庫のせんに対する強烈な憎悪が奈辺より生じたものかは知れないが、悲しいかな、そこに和解の道はなかった。

 ならばどちらを選ぶのか。

 それは宗介にとって決まりきった答えだった。

 これが自分の正しいことで、曲げられない部分なのだ。だからやり方にどれほど悔いが残ろうと、行い自体を恥じはしない。


 錯綜(さくそう)する思惑と行き違いから、宗介と兵庫たちの関係は破綻した。その縁は、ふつりと音を立てて切れた。

 それでも、宗介の中に憎悪はなかった。

 今はこんなに、どうしようもなくなってしまった。けれどそれで過去までが、彼らとのこれまでもが変質するわけではない。

 道場での日々は、確かに宗介の心を救ってくれた。

 もし仮に、全てが打算の嘘であったとしても。それは宗介にとって、(まが)うことなき光だった。


 兵庫へ、そして兄弟子たちへ、宗介は深く(こうべ)を垂れる。

 境内に、最早宗介を妨げる者はない。命にかかわる怪我は負わせていないはずだった。じき、兵庫も意識を回復するだろう。ならば自分が為すべきことは、もうここにありはしない。

 強くせんの鞘を握ると、疼く傷を抑えて宗介は歩き出す。

 ちらちらと舞う雪の中、孤影はやがて闇に紛れた。

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― 新着の感想 ―
あーん!先生!先生は絡んでなかった!良かった! でもこれはね、このタイミング、この流れになってしまうともう一人旅立つしかない……。 兄弟子達の企みは安堵のためとありましたが、宗介ちゃんが剣士として生き…
兵庫さん…信じていたぞ…! でも駄目かぁ。最後の最後ですれ違ってしまった。それも宗介を思う故っていうね。ある意味で、兵庫さんも間違ってない気がする。これが恋でなくてせんの悪意だったら、全然話が変わって…
兵庫さん、弟子たちの企みに賛同していたのでなくてよかった……。・゜・(*ノД`*)・゜・。 蛇の思惑に動かされるのも仕方ない感じではあったけど、もうちょっと穏やかな別れになればよかったのに、と思います…
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