さよならバイスタンダー
夜の底を、すっかりと黒雲が覆っている。
細やかな雪がちらちらと、そこから落ち始めていた。
「手順に、問題はないな?」
「はい」
小山田の問いに頷く宗介の鼓動は、早鐘のように打っている。
兄弟子の先導により、いよいよ切紙の拝受へ臨まんという場面であった。
とはいえ宗介がこれから行うべきに、さして難しい仕業はない。
小山田と共に境内へ進み、兵庫の盃に酒を注いで返杯を受ける。そののち七剣――今夜は総勢六人だが――とも、同じく杯を交わす。
ただ、それだけのことである。
以上を終えたなら、あとはざっくばらんの無礼講だとの話だった。
大山真流は兵庫一代で築き上げた流派であり、そもそも複雑な作法など持ち合わせはしないのだ。
その証拠と言うべきか、現在宗介が抱えるのも、道場で普段使いしている通い徳利のひとつである。
しかしながら当事者となれば緊張は否めない。小山田の先に立って歩きながら、宗介は呼吸を整え、舌で乾いた唇を湿す。
その背後で、小山田が静かに履物を外した。足音を消す工夫だった。そしてやはり無音で、鯉口を切る。
抜き打ちはしない。人を殺傷するには刺突こそが向くからだ。
これが剣を握る者にとって常識であるのは、吉良義央に斬りつけて仕損じた浅野長矩が、同じく江戸城中で大老を刺殺した稲葉正休と比され士道不覚悟とされたことからも知れる通りだ。
だから小山田は焦らない。心と息を殺して白刃を抜き、衣擦れも立てずに、ついと宗介との距離を詰める。小山田は、この温厚寡黙な少年が自らの死に気づかぬほど手早く仕留めてのけるつもりだった。
膝を撓め、腰を沈め、何も知らないままの宗介の背を、いざ剣尖が貫かんとする。
宗介の姿を探し求めていたせんが遠間から目にしたのは、まさにそのような光景だった。
「宗介、後ろ!」
ただならない警告に、宗介がはっと振り向く。そして抜き放った小山田の姿に目を見張り、見張ったそのぶんだけ、反応が遅れた。
咄嗟に半歩に飛ぶも、間に合わない。
拍子の悪い宗介の顧みに動じつつも小山田の突きは精妙であり、それは宗介の脇腹を抉って抜けた。すぐさま人事不省に陥るほど深くはないが、さりとて浅い傷でもない。
「……小山田さん? どうして?」
赤く染まる半裃の腹を抑え、呆然と宗介が呟く。
小山田は一瞬だけ目を伏せたのち、意を決したように見返した。
「おぬしは疎まれたのだ、宗介。鴨井の主導でな、今夜おぬしは、剣士として殺される手筈となった。目を潰され手足を折られ、晒し者とされる運びとなってしまった」
「一体、何を言って……?」
「だからこれは、慈悲のつもりだった。おれがただひと太刀に仕留めれば、おぬしは何が起きたかもわからぬうちに、我らの裏切りに気づかぬままに冥途へ行ける。そう思った。だが、しくじった。やはりおれは粗忽者だな」
「兵庫さんは、先生はこのことを」
「無論、ご存じだ」
傍らへ駆けつけたせんの姿も目に入らず、宗介はただただ立ち竦む。
「宗介。剣士としてのおぬしは、目の中に入れても痛くない弟弟子だった。だが我々はもう、ただの剣士ではなくなってしまったのだ。この地に根づき、人としての幸福を得てしまった」
斬られた宗介よりもなお青白く、小山田の血の気は失せていた。
死人のような、土気色の顔だった。裏切りの手応えと深い悔恨が、その姿からにじみ出る。
「土屋は郷里から家族を呼び寄せた。おれも間もなく嫁を取る。そして先生は一帯の剣の盟主だ。宗介。おぬしがそうした暮らしを、我らの今を脅かすとなれば、そうなれば、どうしても、どうしてもな……」
深々と息を吐き、小山田は刀を握り直した。
心を寄せた人々の前触れのない背信を聞き、宗介は心砕けて立ち尽くす。
「ゆえに土屋は、深酒をして逃げたのだ。手前勝手な慈悲など思わず、おれもそうしておればよかった」
「宗介、逃げて! その人の言うことは本当で、境内からも、人が!」
小山田の世迷言を遮り、袖に取りすがるようにして、せんが叫んだ。
痛ましく宗介の傷を眺めつつも、触れえない手で懸命に彼の手を引かんとする。
けれど、宗介は動かない。動けない。
小山田さんが、辛そうにしている。俺の所為で善良な人が、ひどく苦しげにしている。
「ああ、またか」と思い、「ああ、まただ」と思った。
きっと、また間違えたのだ。かつて母にしたように。おそらく自分はまたしても、どうしようもなく誤った。
ずきり、と。
手傷よりもなお、胸が痛んだ。
かつて徳五郎に投げつけられた、「おまえの所為だ」という言葉が蘇る。
「宗介! ねえ、宗介!」
絶望がわんわんと耳を聾して、すぐ傍らのせんの声さえ、彼の心に届かない。
「逸ったか、小山田!」
「この、粗忽者めが!」
そうするうちに、剣士たちの声と足音が轟いた。
ぼんやりとそちらへ向けた宗介の目が、その最後尾に兵庫の姿を捉える。
「宗介、逃げて。逃げてよ!」
「だけど」
必死に続くせんの言葉へ、枯れ果てた宗介の心が、乾いた返答を紡ぐ。
「どこへ逃げればいい? 逃げて、どうすればいい?」
それは、己に生きる意味などないと確認する言葉に等しかった。
いつも、幾度も、大切な人を苦しめる自分は、どこへ行こうと同じ仕業を繰り返すに決まっている。
――ならばいっそ。いっそ、このまま。
ふっと、ひどく後ろ向きの思考が脳裏を過ぎる。
――このまま、斬られてしまうのがいいかもしれない。
――そうなるのが正しくて、楽なことなのかもしれない。
昏く濁った宗介の瞳に、せんは思わず息を呑む。それはかつて刑場で、幾度も見てきた目の色だった。望みが絶え、生きる気力を喪失し、死の前に蹲るしかできなくなった人間の心の色だった。
「やだ。そんなの駄目だよ、宗介っ!」
せんの夜のような黒瞳に、たちまち大粒の涙があふれ出す。
「……俺が死んだら、せんは泣くのか」
「あた、当たり前だよ!」
ぽつりと漏らした呟きに嗚咽交じりの答えを得、それは嫌だな、と宗介は思った。
好いた人を失いたくないという真っ当な慟哭が、自分にも案じてくれる人がいるのだという気づきが、宗介を我に返らせる。
「わかった。なら、足掻こう」
呟くなり、宗介は跳ねた。
跳ねた先は小山田の懐だ。深手を負わせたと判断していたこと、そして迷いの只中にあったことから、小山田の反応は鈍く、遅い。
その顔面へ、宗介の手から何かが飛んだ。
「むっ!?」
咄嗟に顔を振った小山田の両眼を液体が襲う。
血液であった。腹からの出血を手のひらに溜め、宗介は即席の目潰しとして用いたのだ。
視界を奪われた小山田の脇を、宗介が駆ける。拝殿の奥、椎の木々へ逃げ込まんとする動きだった。
「手負いだ。追え。囲め。殺しても構わん!」
そのまま夜の山へ紛れられてはたまらない。鴨井が指示を飛ばし、応じて七剣が走る。
傷を受けた宗介の足取りは、平素よりも明らかに重い。鍛え上げた剣士の速度に敵うべくもない。彼らが放つ追いすがっての斬撃を、しかし宗介は幾度となく回避した。暗い木立の中、地の利は宗介にこそあった。
だが剣の達者の切っ先を、いつまでも外し切れるものではない。容赦のない刃は数え切れず身を掠め、宗介の身を切り裂いていく。
そうして、鬼事はごく短時間で終わった。
椎の木を背に退路を断たれた宗介を、ぎらりと白刃の輪が囲む。
「無駄な労を執らせてくれたものだ。小山田、覚えおれよ」
「もう仕留めたつもりか、鴨井。稽古で宗介に勝った例はあるまいに、見上げた腕前だな」
他の剣士を前へ出し、篝火から抜き取った松明を掲げた鴨井の言葉に、我から先陣を切る小山田が皮肉を返した。
このやり取りで宗介の技量を思い出したか、他の者が改めて構え直す。
「それも剣あっての話だ。恐れるな。膾に叩け」
鴨井の隣から、笹原が酷薄に指図した。
下知の如き不遜に不満を覚えなくもなかったが、今宵の企てはこのふたりの主導である。従って七剣たちは、じわりと包囲の円を縮めた。
椎の幹にもたれる宗介の顔には影がかかって、どのような表情をするのか見えない。何を思うかも窺い知れない。だが絶体絶命の窮地において胸に浮かぶは、諦念以外の何物でもあるまい。
けれど。
新たに固めた覚悟を胸に、誰よりも先んじた小山田は、少年の口元がわずかに笑んだのを見る。
そして直後、ばん、と大きな物音が雪の夜に響き渡った。
想定外の物音に、宗介以外の一同が思わずそちらへ目を送る。
松明の光明に照らされて、そこにあったのは至極小さな本殿だった。人除けの結界に包まれたそれは、ここ数日出入りしていた道場の者たちにも、手伝いの小者たちにも、存在を気づかれないままでいた。
だが今、その術式は破られ、刀祀りの社は誰の目にも明らかとなる。
音は、突如現れたとしか思えないこの本殿の扉が、爆ぜる勢いで開かれた折に発せられたものだった。
――少しだけ待ってて。必ず、取ってくるから。
木立に走り込む折、そう囁いてせんは宗介の傍を離れた。その背の目指す先は本殿である。
意図は量れたが、無理だろうと思った。せんの幽姿は物に触れられない。宗介は彼女の手すら握ったことがない。丸腰の宗介のもとへ、せん自身を運ぶなどできないことだ。
宗介が浮かべた微笑は、そんな勝手な決め込みを見事裏切ってのけた、せんへの惜しみない賞賛であった。
開かれた本殿内部に納まるは、四方の上に鎮座する、色褪せた拵え袋。その房紐がするすると自ずから解け、白鞘白柄のひと振りが姿を見せる。
「宗介!」
宗介にしか聞こえない声で、宗介にしか見えない娘が、自らの本体をしっかと掴んだ。
――もう、おしまい。
せんはそのように思い定める。
ずっとずっと嫌いだった。
流されるだけ、振り回されるだけ、傍観しているだけの自分が大嫌いだった。だから。
――見ているだけのわたしは、もうおしまいっ!
今、できる限りをする。宗介の足掻きを、全力で手助けする。その先だって、いつまでも傍で。
恋しい人を救いたい一心が、せんの幽姿にひと時の、しかしかつてない力を漲らせる。応じて高まった現実性が、彼女に本殿の扉を押し開け、自らを握るを叶わせた。
自身の本体を胸に抱えたせんは、強く地を蹴ってひと飛びに宗介の隣へと舞い戻る。
「使って」
ぐいと胸元へ寄せられた刀を、宗介が握った。それはそこにあるのが当然の顔で、宗介の手にしっくりと納まる。
剣士たちにしてみれば摩訶不思議の光景であった。
これまで誰の目に映らなかった社が唐突に姿を見せたと思うや、その内に納まっていた刀が、自ら浮き上がって宙を走った。彼らにとって、一連の流れはそうとしか捉えられない。
動揺しきりの面々を他所に、宗介は幽姿へ、分け身の方のせんに問う。
「いいのか?」
「うん、もちろん!」
応えは簡潔で、明朗だった。
「行こう、宗介。どこへでもいいよ。その先で何をしてもいい。いつか一緒に、ここを出ようって約束したよね。そのいつかを、今にしよう」
「……」
それでもまだ快諾できずに、宗介は躊躇いの色を見せる。
そうするということは、文字通り血路を開くということだ。人斬りを忌避したせんを刀として、本来の用途で用いるということだ。
斬らずの刃へ、命惜しさでまた血を絡めてよいものか。せんへの想いがゆえ、事ここに至るも宗介の迷いは消えない。
「いいよ。宗介がひどい目に遭うくらいなら、わたしは誰かをその身代わりにする。わかりやすく斬り伏せるよ。全部妖刀の所為でいい。だから宗介、わたしを抜いて。お願い、生きて」
いっそ穏やかな声音から、言葉以上にせんの心が流れ込む。
宗介は、黙したまま頷いた。しゃらりと刃音を立てて、抜き放つ。
白鞘から現れた刀身は、研ぎ上げたばかりであるかのように煌めいていた。幽けき雪明かりを受け、冴え冴えと刃は輝く。それは地上に落ちた冷たい月の欠片にも似て、誰もが息を呑み、見惚れる美しさを宿していた。
抜刀した瞬間、何かがかちりと噛み合った感触を宗介は覚える。
常以上に、五感が鋭く澄んでいく。のみならず宗介の中に、常にない知覚が生じていた。見る聞くに拠らず、誰がどこにいるのか、何がどこにあるのか、周囲様々の存在を今の宗介は感知できる。
――これが、せんの景色か。
一心同体。
彼女と共に在る感触を強く覚え、宗介は静かにまた微笑んだ。




