恩師
冬を迎えた巾木村は、いつになく賑わっていた。
庄屋の家の隣に、新しく剣術道場が築造されつつあったからである。これは徳五郎の肝煎りで行わているものだった。
徳五郎は新年と同時に、遠く相州よりひとりの剣士を招くことを決めていたのだ。
その剣術家の名は壬生兵庫。
相模は大山の天狗に剣の奥義を授けられ、大山真流なる流派を開いた男である。
六尺を越える大兵であり、その腕前も外見に相応しく練り上げられたものらしい。
特に聞こえるのは、至妙三歩なる秘奥の凄まじさだ。
兵庫がただ三歩歩いて刃を振るえば、対峙する者は皆、何の反応もできないまま斬られるとの噂だった。それは人には知覚できない、神仙の歩法であるといった。
このような武芸者とどういう縁があったかは不明だが、徳五郎はこの兵庫を余程に見込んだものらしい。村に道場を築き、その主として兵庫を招き、生活一切の面倒をみると約束したのだ。
当然ながら、この話は庄屋の剣術好みで終わるものではない。
徳五郎には徳五郎で、別の目論見があった。
巾木村のある常陸の国は関東七流――鹿島や香取といった地で長く受け継がれてきた剣術群の余流が数多い。これらの剣は武士階級のみならずで学べたため、常州には尚武の気風が強くあった。
が、太平の世の影響は強く、この頃はそうした志も徐々に薄れゆくようだった。事実、巾木周辺に真っ当な剣を使う道場など既に、全て剣を商品として扱う商店へと成り下がっている。
徳五郎はここに目をつけた。
実力ある剣士と新風となる流派を迎えることで付近の剣術道場を取りまとめ、自身の権勢を支える一翼にせんと企てたのである。
もちろん、徳五郎は抜け目のない男である。兵庫に斎藤伝鬼房の轍を踏ませるつもりはない。彼を迎えるに当たり、十分な根回しを施していた。
ために道場の落成前から周辺道場の面々が、新たな盟主へ挨拶すべく馳せ参じ、それが村の賑わいに拍車をかけていたのである。
徳五郎は村の歳若い男全員に、兵庫の門弟となるようにも命じた。
毎日でなくともよい。が、月に数度は壬生道場へ出て竹刀を握れ、と。
これは道場内での格付けを、村内に反映させるための仕業だった。壬生兵庫とその後援者たる自身を頂点とする強固な体制を構築し、剣術という繋がりを梃子に、これを諸道場へ、延いては村外へも拡大していく。それが徳五郎の算段であった。
驚いたことに、この道場通いは宗介を例外としなかった。
明らかに自分を厭う態度を見せる徳五郎であるから、宗介はてっきり、このことから自身は除外されるものとばかり思っていた。けれど徳五郎は実に不承不承の顔をしながら、宗介へも壬生通いを厳命したのだ。
となれば俄然、意欲と興味の湧く話である。
意欲とは、言わば道場破りの如き心境だ。自分とせんが練り上げた剣が、どこまで世に名高い武人に通じるか。それを試したい心地である。
もう一方の興味とは、壬生兵庫当人に対するものだ。天狗より剣を受けたという風聞に、宗介は勝手な親近感を覚えている。天狗と縁づくとは、一体どのような人物か。そこへも強く関心を抱いたのだ。
珍しくも浮き立って、宗介はこの顛末をせんに語った。
せんは竹刀稽古に、つまりは宗介が自分ではなく竹刀を握るという点にのみ難色を示したものの、「怪我だけはしないようにね」とその背を押した。
彼女自身も知りたかったのだ。ふたりで編んだ剣が、どれほど宗介のためになるかを。
そうこうするうちに、こけら落としの日が来た。
道場へ姿を見せた兵庫へ、近隣道場の面々が列をなして礼を尽くし、結局村の者が村の者が呼び集められたのは、昼を大分過ぎてからとなった。
道場に集った村民は十数名。
徳五郎が声かけしたにしては少なく見えるが、これは一度に全ての対象者を参集させたではないからだ。村の男どもは組み分けをされ、数日かけて選別を受ける予定だった。
兵庫は相州から門弟たちを引き連れてきている。この中に、七名の高弟がいた。彼らを称して、相州七剣という。
選別とはこの七剣が竹刀を以て相手をし、力量と意気込みを試すことを差した。その結果に応じて、甲乙丙丁の組み分けをするのである。
何せ齢が両の指に満たないような子供たちまでもを、徳五郎はかき集めている。剣を教える前にある程度、出来不出来で仕分けておく必要があったのだ。
宗介の姿は、この第一陣の中にあった。
高弟たちの試しを受けるのは年齢順と決まっていたから、若年の宗介は当分手持無沙汰である。
なので宗介、道場の庭先を眺めていた。
そこでは大柄の剣士が、選別を受けるまでもない童たちに竹刀を手渡す光景があった。
眺めるうちに彼は、握り方、振り方の指南をひと通り終え、ついで子供らを順繰りに自分へと立ち向かわせ始めた。ぱん、ぱんと軽やかに打ち合う竹刀の響きが鳴り、緊張の面持ちをしていた少年たちに、次第子供らしい笑顔が浮かぶ。対峙が一巡する頃には、声を上げてはしゃぐまでになっていた。
そんな童の輪の中で、男もまた、剣士とは思えぬほど穏やかな瞳で笑っている。
驚いたことに、率先して幼童の相手を務めた彼こそが、壬生兵庫その人であった。漏れ聞いた話によれば、子供の体格に合わせた短い竹刀も、兵庫が手ずから用意したものであるらしい。
徳五郎が格別に計らって招聘した人物であるから警戒が先に立ったが、どうやら随分と気分のよい人物のようだ。
その穏やかにして揺るぎない風格に、宗介は早くも好感を抱き始めている。
「次!」
そこへ、叱咤のよな声がかかった。はっと気がつけば、余所見のうちに番が回ってきていた。
宗介は慌てて返答をし、呼ばれた先へと赴いた。指示された通りに、もそもそと防具をつける。
初めて握る竹刀は、その全長が三尺八寸(約117cm)。平素宗介が稽古に用いる刀よりもいささか長い。軽くひと振りしてみたが、それで手に馴染むというわけにはいかなかった。
だが宗介の何気ない振りを見て、宗介を受け持った小山田という高弟は、ほう、と唸った。
なかなか堂に入った刃風である。某かの心得があるのだろう。そう思って見やれば、なんとない威風が感じられた。
――ならば十分に実力を引き出してやろうではないか。
小山田はそのように考えた。つまりは、鄙びた村の少年剣士と高を括ったのである。
「まずは存分に打ち込まれよ」
「はい」
素直な返答と同時に、小山田の視界の中でわっと宗介の姿が大きくなった。想定を遥かに上回る速度の、宗介の踏み込みである。あっと思う間もなく、ばちんと面越しにも脳天が痺れるような衝撃が走った。炸裂した宗介の面打ちは一瞬の目眩を引き起こし、小山田の足を縺れさせる。
倒れるまいと懸命に踏みとどまるその肩を、別の高弟が支えた。
「何をしている。代われ」
「土屋か。面目ない」
小声で囁き交わすと、土屋は入れ替わって宗介の前に立った。
「小山田は朝から立ち通しでな、どうやら眩みを起こしたらしい。ここからは自分が見よう」
相州からの面々には 小山田は油断の多い男として知られている。
その粗忽は親しまれる一因でもあるのだが、今しがたのような、うかうかとした負けもしばしばやらかすのが困りものだった。
大山真流の晴れの日に、おかしなくすみを残すのはよからぬことだ。諸道場よりの目もあることゆえ、悪いがこの少年には少し痛い目を見てもらう。
土屋は、そのように考えている。そこにはやはり、侮りがあった。
「わかりました。お願いします」
某かの反駁を予想しつつ構えた土屋へ、宗介は素直に応える。ああも見事な打ち込みを無効とされたことに、何の意趣もないようだった。
これは鍛えがいのある奴だと、面の下で土屋が笑う。
「では、参る」
告げると同時に、真新しい道場の板張りがばあんと鳴った。
土屋の猛進、その一歩目の爆音である。宗介に比せば速度を欠くが、軽妙のないぶんだけ、巌の如く愚直に重いが土屋の剣だ。圧しかかるように、ぐんと迫った右斜め面を、宗介の竹刀が受ける。
構わず、鍔迫り合いに持ち込む形で土屋が打ち当たった。
同輩たちの誰もが止めえぬ突進である。このまま押し切って転倒させ、そこへとどめのひと太刀を浴びせるのが、彼の得意の形だった。
しかし。
波濤のような満身の当たりを、宗介はしっかと、真っ正面から受け止めた。まるで足に根が生えるかのように、微動だにしない。
驚愕の間もあらばこそ、宗介からの押し返しが来る。下方から凄まじく突き上げられ、土屋の両腕が天へと高く跳ね上がる。空いたその胴を、翻った宗介の竹刀が一撃した。
「ぐ、む」
低く呻いて、膝を突く。
道場内に、どよめきが起きた。小山田が退き、注目を集めた直後の一幕である。他の七剣が顔を見合わせ、門人候補たちの低いざわめきが続く。
その中心で、宗介は息を整えていた。
人と対峙するのは初めての経験だったが、見えている。動けている。
緊張はあれども、体の強張りはない。少しばかり感覚が違うのは、やはりいつもの刀ではないからだろう。馴染まない竹刀は少しばかり勝手が悪い。だが太刀行きの重さ、精妙さに、致命的な影響はないと思えた。
せんとの修練の結実だと思い、面の下でほんのわずかに口元を緩める。
「これはどうも、常州の小天狗が迷い込んだか」
そこへ楽しげな声がした。庭先での指南から、いつとも知れず道場へ舞い戻った壬生兵庫である。
言いながら宗介の前へ歩み出ると、兵庫は転がる土屋の竹刀を拾い、ひょうと片手でひと振りした。
「では、おれとやろう」
「お待ち下さい、先生!」
「少しの間違いがあっただけのこと。次はありません。兵庫殿が出ずとも」
一瞬の静寂ののち、慌てた弟子たちが言い募る。
が、兵庫は気にも留めない。
「おれが彼に興味があるのさ。構わないな?」
後半は、宗介へと向けた声音だった。ぞくりと身震いしつつ、頷く。
そうして兵庫と、宗介の対峙が始まった。
兵庫は巨漢である。
だがその肉体に、鈍重の印象は一切ない。身ごなしが恐ろしく滑らかなのだ。それは機敏からではなく、判断の早さから生じる軽捷であった。
兵庫は常に先を読み、次を見越し、行く末を織り込んで行動する。ゆえに慌てた反応などひとつも起こらず、全てにおいて滑らかに緩やかに、それでいて追い越しようがなく速い。
この特性を秘したまま機先を制すれば、対人経験のない宗介は手もなく押し切られていたことだろう。
けれども兵庫はそうしなかった。
宗介に先手を譲り、敢えて攻めさせた。
油断なく構えた上で睨み合い、降着へふっと隙を見せる。すかさず宗介が打ち込めば、丁々発止の斬り結びが始まる。だがそれは兵庫の組み立てる攻防であり、兵庫が先導する舞だった。
ここを打てるか。こちらはどうだ。次はもっと速いぞ。間に合うか。してのけたな。ならば返しが行くぞ。受けれるか。
言葉ではない声が、ふたりの間を行き来する。
兵庫に応じて動くにつれ、宗介の立ち回りはみるみる洗練されていった。手を掴んで高みへ引き上げてもらう感触を、宗介は体感している。
なるほど、と宗介は心中で頷いた。
これは、愉快だ。兵庫の稽古を受けた少年たちが、皆笑顔になる理由がわかる。
「さて」
宗介の合点を見抜いたように、兵庫が呟いた。
「次は、こちらから行くぞ」
ひたりと、竹刀を青眼に据える。
途端、空気が変わった。ずしりと重く変じて、宗介の全身へ圧しかかる。宗介ばかりではない。この立ち合いを見守る周囲すら息を呑む圧力を、瞬間に兵庫は滲ませて見せた。
これまでのように気軽に打ち込むなど到底できない。どこへどう仕掛けても、その動きにつれて生じる隙を貫かれる気がした。
生唾を呑み、宗介は気圧される自分に気づく。腹に力を込めて、強く息を吐いた。
相手を小さく見てはならない。同時に、大きく見過ぎてもならない。せんの教えである。萎縮して手足の反応を鈍らせることこそ命取りだ。
宗介の面持ちを見て、兵庫がまた楽しげな顔をする。
心構えを確かめるべくひと太刀を送ると、少年は瞬時に反応して捌いてみせた。どころか、臆せず切り返してまでくる。
――まるで歴戦の猛者じゃあないか。
賞賛しつつも、兵庫は攻め手を緩めない。
苛烈ではないが、繰り出されるのはいずれも嫌な剣だった。受け切れそうで受け切れない、弾けそうで弾けない。守れば守ったそのぶんだけ姿勢が崩れ、状況が悪化してゆく。兵庫の太刀行きのいずれもが、そのような性質を宿していた。
宗介がどうにかながらこれを凌ぎ、時に反攻の剣を振るえるは、せんと紡いだ時間があればこそだ。
けれども宗介の竹刀は、兵庫にまるで届かない。一寸以下の距離で、悉く見切られていた。
――この人は、恐ろしく目がいい。
動作の前後に生じる起こりから、兵庫は宗介の次の仕掛けを読み切っている。だから恐ろしく反応が早く、対応が上手い。
もちろん、ただの一瞥で相手の全てを見切るなど叶うまい。兵庫がまず宗介に攻めかからせたは、動きの癖を把握する方策でもあったのだろう。
盤石の勝利のための、これもまた組み立ての妙と言えた。
先ほどまでの打ち合いが嘘のように、宗介の剣は空を切り続ける。
さしもの彼も、呼吸が乱れ始めていた。空振りとは、体力ばかりでなく、気力の消耗を招くものだ。そしてそれは焦りと絶望に繋がってゆく。
が、それでも宗介は折れず挫けず前へ出た。この立ち合いが、ひどく楽しかったからだ。我知らず、口元が微笑を象っている。
それに、まだ吐き出せるものがある。せんの伝えてくれた技たちが、まだ出し切れずに残っている。
せんの剣術とは、宗介に特化した刀法であった。それは宗介のもっとも動きやすい形を、剣と姿勢の変転を重視している。ために彼の剣はただ一閃で終わらない。ひとつの太刀風は次の踏み込みへ、更なる一刀へと、継ぎ目なしに繋がっていく。宗介が諦めない限り、彼の攻勢は終わらない。
挑み、抗い続ける宗介の姿に、兵庫もまた軽く笑った。
それは、幾度目の空振りだったろう。
右方へ流れた宗介の切っ先を追うように、兵庫もまた剣を払った。宗介の竹刀の峰を打ち、跳ね飛ばそうという剣筋である。
咄嗟に、宗介は剣を引いた。引いて、外したつもりだった。
だが直後、外したはずの兵庫の剣に、宗介の竹刀は弾かれた。
これは感覚のずれから生じたしくじりである。
宗介は、兵庫の一刀を外すのに必要なぶんだけ、竹刀を引いたつもりだった。しかし先述した通り、宗介が馴染み切った刀よりも、道場竹刀はいささか長い。このいささかのぶんだけ、宗介は見切りを誤ったのだ。
兵庫の剣の軌道に竹刀がわずかに残り、結果として宗介は得物を打たれた。
想定しなかった衝撃に、宗介の上体が流れる。
一歩。
つけ込んで、兵庫が肉薄するのを宗介は見た。
二歩。
見たが、動けなかった。目では追えるのに、体が少しもついていかない。
三歩。
兵庫はあたかも、筋骨が機能できない瞬間を、硬直しきるその刹那を、見極めるかのようだった。
至妙の位置を兵庫は得て、そこから存分の剣を振るう。
直撃を外すのが、宗介の精一杯だった。重く苛烈な打突によって少年の体は跳ね飛んで、一転、二転。片膝立ちに身を起こしはしたものの、その時には既に、宗介の喉元に兵庫の切っ先が突きつけられている。どうにもならない死に体だった。
「参りました」
素直に、宗介は負けを認めた。
悔しさはあるが、同時に爽快の感がある。兵庫の強さの在り方は、宗介にとってひどく好ましいものだった。
「最後まで、おれを追ったな。見えていたのか?」
「はい」
「見事だ」
にっと笑うと、兵庫は手を貸して宗介を立たせる。
「あれは、なんですか」
最後の一撃の、その前。踏み込みのひと呼吸手前から、完全に自分の動きが、兵庫に支配されていた感覚がある。
想像もつかない技術を目の当たりにした興奮に突き動かされて、宗介は勢い込んで問うた。
「おれの秘奥さ。簡単には教えんぞ」
「失礼しました」
剣士に秘術の種明かしを求める無礼に気づき、宗介が赤面して頭を下げる。
その頭を面越しに、兵庫ががしがしと撫でた。
「知りたければ、以後ここで鍛錬に励むことだ」
「……はい!」
新弟子の返答に頷くと、兵庫は手を鳴らして道場を見渡した。
「どうした、お前たち。手が止まっているぞ」
ふたりの剣舞とその後に見入っていた高弟たちが、そして門人候補たちが、はっと我に返って選別を再開する。
そのさまから目を戻すと、兵庫が尋ねた。
「お前、名は?」
「宗介です」
「剣はどこで学んだ?」
「ほとんど独学です。村にお侍が来た時に、少し、習って」
「ふむ、ではそういうことにしておこう」
まさか本当は語れないから、宗介は咄嗟に嘘をつく。
だが兵庫の眼力は、宗介の秘した修練を見抜くようだった。敢えて問い詰めない彼へ、宗介は黙って頭を下げる。
「にしても、面白い癖がついているな」
「悪い癖ですか?」
「いや、悪くはない。あれこれと混じりはするが、お前にぴたりと噛み合ってもいる。その色を如何に消さずに剣に仕込むか、むしろ師として腕を問われるところだな」
嘯いてから、兵庫は宗介の甲組入りを告げた。
壬生門下としての宗介の日々は、このようにして始まった。




