星月夜
また、雪が降り始めていた。
深川の夜を宗介は歩いている。とある料亭を訪れた、その帰りだった。
彼が足を運んだのは、伊右衛門の逗留する先である。名輪の商いで縁ができた深川遊廓近隣の店と言えば、どのような性質を持つか、おおよそ見当がつこう。
だがここの主は渡す金が尽きない限り信用できる男だと、伊右衛門はそう語った。彼の開拓した五右衛門の知らぬ拠点であり、だからこそさとと共に落ち延びる先の仮住まいとして選んだのだとも。
江戸へ戻ったその足で、、宗介は伊右衛門のもとへと向かっている。
寸刻でも早く、さとを送り届けてやろうと思ってのことだった。
さとの遺骨と形見を受け取って、伊右衛門はしばしの間、涙に暮れた。しかしそれから、大層な上機嫌を見せた。
村のこと、父母のことについて、彼は何ひとつ尋ねなかった。
十分に予測できることであり、また伊右衛門にとって、もうどうでもいいことなのだろう。
彼は端座ののち平伏し、方相長屋への謝礼を宗介に託した。
「お陰様をもちまして、以後はさとと共に日を送れます。この度は、誠にありがとうございました」
衷心よりの感謝を述べるたのち、伊右衛門は明日早くここを発つつもりだと続けた。
彼の今後の身の振り方について、尋ねることはしなかった。
だからこれより後の伊右衛門を、宗介は知らない。
積もらない雪を踏みながら、宗介はこれでひと段落だと息を吐く。
伊右衛門の依頼は無事履行した。
五右衛門については、約束も何もないことだ。宗介が応じたのは、原へ行くことについてのみである。哀れみを誘い同情を買わんとする振る舞いを見はしたが、そこに正式な要請も受諾も成立していない。
確かに、妖異が治まったら金子を求めると告げはしてた。が、宗介は妖魅の全てを駆逐せず、ゆえに報酬もまた請求していない。
金四ツ目として、どこにも問題のない仕事である。少なくとも、大角は咎めはしまい。
無論、後者について――五右衛門と村を顧慮しない振る舞いについて、非を鳴らす向きはあるだろう。
けれど宗介の働きは、紛うことなく命がけのものだ。
たとえばひもじヶ原の一戦。宗介が蛇群を圧倒したかに見えて、実際のところそうではない。
至妙三歩で晦ませる相手であったことが幸運だとは既に記した。
かの地での戦況は、全てこれと同じくである。宗介が自身の強みを押しつけ、運よくそのまま押し切った結果に過ぎない。決して余裕綽々の仕業ではなかった。
ゆえに己が身の安全のため、宗介はいち早く原を離れた。
原は蛇の縄張りであり、宗介たちの集中力とて無限ではない。もし全ての怨念を払おうと留まったなら、思わぬ不意討ちを被る危険性があった。
巾木宗介には、何を差し置いても成し遂げたい望みがある。手放したくない幸福がある。
よってどれだけ怪事へ肩入れするか、どれほどの危険までを許容するかは、宗介の好悪の情に依存するのは無論のことだ。
宗介は目に入った人間、全てを救おうなどとは思わないし、思えない。そんな真似をすれば、まず潰れるのは自分だと知るからだ。
もちろん五右衛門がもう少し誠実であったなら、宗介も今少し手を伸べていただろう。
が、そうではなかった。
村についても同じくだ。
名輪は恐れられ、恨まれていた。しかし結果を出し、恩恵をもたらしてもきた。
それに乗じて日を過ごしながら、不利益が生じるなりそっぽを向いて、我関せずは違うだろう。他に寄りかかり続けてきた人々が今まで通り日を送るために、我が身を削ろうとは思えなかった。
この感覚には、亡母のことが残留している。根底にあるのは忌避感ではなく苦手意識だ。もし踏みこんでしまったら、ずるずると手助けしてしまう気がしてならないのだ。
だから宗介が踏み込んだのは、結局みよへのみである。
つらつらと思ってから、宗介はまた息を吐いた。今度のものは嘆息に近い。
いくら関わらなくていい理由を並べ立てても、やはり心にはくすみが残る。もう少しいいやり方が、上手い立ち回りがあったたのではないかと、考えずにいられない。
気質が甘い、と言ってしまえばそれまでの感覚である。
たとえば大角であれば、「弥勒の下生はまだ先じゃ。まず己の足で立ち、自らを助くべく精進せい」くらいの放言をするはずだ。
けれど宗介は、なかなかそこまで割り切れない。
やはり、誰かの良い縁となるのは困難なことだ。
『ねえねえ、宗介』
欝々と首を横に振る彼の耳に、少女の声が囁いた。
はっと顔を上げ、鞘を握る。
「どうした?」
『ちょっぴりだけ、出てもいい?』
「ああ、もちろん」
夜道に人気がないのを確かめてから首肯する。
すると朧な影が、すいと宗介の隣に生じた。
現れたのは十四、五の、少女の姿である。
どこか刀身めいた印象のある娘だった。
冷たく、鋭く、美しい。
射干玉の黒髪が、古絵巻の姫君めいて、結われず長く背なへとかかる。流れる夜のようなその色は、黒地金絣の召し物と相まって、痛いほどに白い肌を際立たせていた。
藤の鼻緒の草履の足は、不可思議にも土を踏まない。風にでも乗るかのように、彼女は地表わずかを浮遊していた。
おから村正の現す、幻体幽姿の相である。
銘でも号でもないその名を、せんといった。
「えっへっへー。久しぶりの、宗介だ」
濡れたような黒瞳がじっと宗介を映し、次いで機嫌のよい猫のように細められる。
近づきがたいような美貌が、途端、懐こいものへと変じた。
幽姿を現し、刀からそちらへ主観を移す。
するとせんの知覚は器物から、人の五感に近いものへと切り替わるのだそうだ。
それは世界が一変する感覚なのだと彼女は言う。見る、聞くといった行為は、せんにとって、ただそれだけで楽しく心満たされる愉快なのだ。
だがそうと知ってはいても、息のかかりそうな距離から顔を覗かれれば面映ゆい。
「せん?」
「あ、うん」
呼びかけつつ身を離すと、彼女は不満げに口を結んだ。
次いでふわりと浮き上がるや、両手を宗介の左肩に添え、止まり木のようにする。
実際のところ、その手は宗介に触れてはいない。
彼女の幽姿は、ひどく弱い。
その身は半ば透き通り、背後の景色が見え隠れする。声もか細く、方相長屋にも聞き取れぬ者が多い。はらはらと舞い落ちる雪は、ないもののように彼女のことをすり抜けていく。
最前、幽姿を現せば器物の知覚も人の五感の近似となる旨を記した。
しかし現状のせんに行えるのは見聞きのみだ。嗅ぐ、味わう、触れるといった振る舞いは未だ叶わない。
せんの現実性の低さは未熟が理由だとは、大角の指摘するところだ。刀剣として秀でれど、妖魅としては虚弱極まるとの弁である。
彼はまた、こうも告げた。
『己が何者たるかを見定めぬがゆえ、未だ何者にもならぬのよ。宗介、これはお主も同じじゃぞ』
禅問答のようなこれに、宗介は『なら俺は星になりたい』と応じた。
恩義のみならずで、宗介はせんに惚れ込んでいる。
器量も気立てもよい娘で、美点を述べれば際限がない。のみならず、互いの心のかたちがぴたりと添うように思う。ほんの少しの目線だけで、ただ名を呼ぶだけで、通じ合える気すらする。
せんという少女の全てが、宗介の心を掴んで離さない。
妖刀に魅入られるとは、このような感覚を言うのだろうか。
せんの側も、こちらへ好感を抱いてくれていると宗介は感じる。ある程度以上の信頼を寄せてくれている、と。
ゆえに宗介は線を引く。
もしせんが自分を好いてくれたとしても、それは誤ったことだと信じるからだ。
何故なら彼女の世界は狭い。処刑刀として用いられたのちは長く社にあって世と関わらず、その後は宗介とばかり過ごしている。選択肢がないだけなのだ。それで迂闊な勘違いをする。
従って、今のせんにつけ込むのはよくないことだ。
綺麗事ではない世間にも、綺麗なものはやはりある。彼女に相応しいのは、それこそだ。
だから宗介は、彼女の星になりたいと願った。
それは暗い夜の行く手を、せめて照らすものの意である。陽が世界を明るく輝かせるまでの代役だ。
せんの願いの成就を助け、望みが叶ったのちは手を離し、そっと見送る。
宗介が自身に課したのはそのような役割である。
もちろん、無私の奉公ではない。
力添えの間は彼女の担い手として隣に在れるという実利がある。
また広く世界を見たその上で、それでもせんがこちらを振り向いてくれのではないかという、浅ましい下心もある。
いずれにせよ彼女のために生きるのは幸いで、この心地を憑かれていると呼ぶのなら、それで一向に構わない。
宗介が命を惜しむ理由。先述した彼の望みと幸福とはこれである。
では宗介が輔翼するせんの願いのかたちとは何か。
それがおからとなることだ。
おからとは豆乳を絞った大豆の残り部分だが、別名を卯の花、雪花菜、きらずという。この「きらず」と「斬らず」を掛けたのがせんの号たるおから村正だ。
それは何ひとつ傷つけない、斬らずの刀の意である。
人斬りの道具として作られた彼女は、生まれ持った刀としての価値を捨て、せんとしての価値を見出さんことを願った。
誓願成就の道程は、同時に己が何者かを探る旅路ともなろう。
もちろん、誰も傷つけない、誰とも争わないなどはお題目だ。
生は綺麗事ではない。宗介もせんも、それを承知している。
――清く正しく、心美しく生きていれば、いつか、きっと。
そんなふうにはできない。信じられない。
実際、縁切りを請け負うのは金銭のためでもあった。その金で、妖魅を殺めた報酬で、宗介は暮らしを立てている。自分のために、他を押しのけ生きている。
これは宗介にだけ言えることではない。
妖魅を斬るのは、せんにその精気を摂らせるためでもある。
刀としての己を捨てる近道は、幻体幽姿相の強化だ。強い幻体を得れば、人に交じり人のように日を過ごしもできよう。
そのためには、せん自身が妖魅として強大になる必要がある。
妖しが力を増すには、血肉を食らい、精魂を啜るが手早い。魔剣妖刀の使い手が人斬りに堕すのはこれゆえだ。
無論、宗介たちは一考だにしない振る舞いである。そもそもからして、せんの望みに外れることだ。
ならばどうするかとなったところへ、また囁いたのが大角である。
『人なぞ斬るより、妖魅の魂魄を喰らえばよかろう。その方が余程に捗る』
斯くして宗介とせんは金四ツ目の道を選んだ。
こうした経緯から宗介は、抜刀に際し、必ずせんの了承を得る。彼女の好まぬ行いを強いるつもりは毛頭ないからだ。
「ええとね、さとさんのお骨、渡しちゃってよかったのかなって」
耳元でしたせんの声が、宗介を現実に引き戻した。
宗介は間近の瞳へ問い返す。
「また、どうしてだ?」
「うん、だって」
「伊右衛門さん、これからお弔いをします、って雰囲気じゃなかったよね?」
「ああ、まあ確かに。……言われてみれば、変わった扱い方をしそうだな」
せんのように認識され難い幽姿であっても、人の多い江戸のことである。どこによく見える目、よく聞こえる耳があるかわからない。
ために知覚の愉悦があろうとも、彼女は方相長屋の敷地以外で姿を現さぬよう、声を発さぬように心掛けていた。
自らに課すその戒めを破ったのは、当然恣意からではない。宗介の暗い顔を案じたためだ。
けれど、直接な物言いを彼女はしない。
宗介の性分を承知するからこそ、せんは婉曲に話を運ぶ。伊右衛門への違和感をてこに、彼の思考を違う小道へ誘導していく。
気を遣われたと悟れば、宗介はますます懊悩を秘めんと努めるに決まっていた。
せんに言わせれば、そういうところも可愛らしいという話になるのだが、これはあばたもえくぼもの類であろう。
「焼いて粉にしてお酒で飲むとか?」
「ありえそうだ」
苦笑気味に頷いてから、宗介は思う。
あの人はおそらく、自分と同じ種類の人間だ。大切な相手が傍にいてくれればそれでいい。それだけで満ち足りる。
だから伊右衛門はもう、どこへ行っても、何をしても幸せだろう。それが他者に共感されるかは別として。
常ならば宗介は、そのような在り方に対し説諭したろう。自戒を含み、「相手の幸せも考えろ」、と。
「でも、いいのじゃないかな。遺骨といってもただの物だ。さとさんはもう、そこにはいない」
が、あれはもうさとではない。
さと自身へは決して繋がらない、ぬくもりの抜け殻、当人とは無関係な面影の縁だ。
ならばそうした、伊右衛門だけの幸福のかたちも許容されるのではなかろうか。
「いや、違う。骨は骨だが、刀は、せんはまた違う。俺はせんをただの物だなんて思っていない。断じてだ」
口に出してから一種の失言と気づき、慌てて続けた。
「宗介ってば、いい子なんだから」
その気回しを素直に受けて、せんはまた目を細める。
いつしか、雪が止んでいた。
先年落ちた永代橋を北に折れ、両国橋へ向けて川沿いを行く。月は雲隠れしたままだったけれど、零れた星が宗介とせんの行く手を照らしていた。
江戸は火を恐れる町である。ために幕府は煮売り屋の夜間営業を禁止を命じる触れを幾度も出した。
が、庶民は聞くものではない。
特に深川ともなれば、遊廓流れの客を当て込んだ夜明かしの煮売り酒屋――終夜営業の飲み屋がそこここに見受けられる。落橋のため、江戸市中と深川の往来は悪化したはずだが、その明かりはいっかな数が減らさない。
そんな、逞しい人の営みと喧騒の光から少し離れた薄暗がりを、ふたりは歩く。
人目を忍ぶ逢瀬のように、時折密やかな囁きを交わし。
その耳にふと飛び込んできたのは、「から汁だ、から汁」と叫ぶ酔漢の声だ。
から汁とはおからの味噌汁をいう。
おからの他に細切りにした油揚げ、笹掻きの牛蒡、こんにゃくなどを具材とし、せり、三ツ葉、山椒、葱を吸い口とする。二日酔いに効能があると評判で、多くの店でこれを供した。
宗介の陰に隠れるようにしていたせんが、ひょいと顔を出してそちらを見やる。
「から汁かあ。ふふ、お仲間だね」
少し眩しげにしながら、言って笑んだ。
「……」
「宗介?」
「……ああ、悪い」
小首を傾げるせんへ、宗介は頭を振る。
見慣れたはずのその笑顔に、また見惚れていたとは流石に言えない。
「せんは、よく笑うようになった」
誤魔化しを口にすると、せんは星明かりを受けて懐こく笑った。
「宗介も、おんなじ」
「ん?」
「よく、笑うようになったよ。昔はそれこそ、お面みたいに表情が硬くて心配したんだから」
手を伸ばして、せんは宗介の頬を摘まむ素振りをする。
その指先が、彼に触れることはないのだけれど。
「そうか」
自分ではよくわからない。
が、せんがそう言うならそうなのだろうと、宗介は肯んずる。
「うんうん。すごくやわらかな顔になったよ。今のがきっと、宗介の本当の顔」
せんの手へ重ねるように、宗介は己の頬を撫でた。
だとしたら、それは彼女が見つけてくれたものだろう。
「せんはやっぱり、俺の恩人だな」
掛け値なしにそう思う。
もし彼女がいなかったなら、自分の命はあの時あの場で終わっていた。
もしくはもっと早くに、体よりも心の方が働きを止めていた。
「それを言うなら宗介こそだよ。わたしの恩人」
「何かできたかな、俺にも」
「何かどころじゃないってば」
拗ねたように、彼女はふくれっ面をする。
「もし宗介が見つけてくれなかったら。せんって呼んでくれなかったら。わたしはあそこで、あのまま朽ちてた」
言いながら、せんはそっと目を閉じた。胸の奥の、大切な小箱に触れるように。
宗介にとって、それは何でもないことだったのだろう。
けれど彼女にとっては途方もない出来事だった。くすんでいた世界が、一瞬で色づくような衝撃だった。
付喪神――器物から相を発した妖魅は、性根が道具である。
自分を大切に、そして巧みに扱う者に好感を抱くのが本能を大抵が備えている。
そして宗介は、せんが自分に合わせ、自分好みに育て上げた剣士だった。
刀は、鋳型に金属を流し込んで作る量産品ではない。
ひと振りひと振り鍛え上げる代物であり、ゆえに長さ、反り、重さ、切れ味の全てが異なる。まったく同じ刀など存在しない。
しかしながら人間は、この差異にそこまで頓着しない。手に馴染む、馴染まぬはあれども、おおよそ刀という区分で同一、並列の扱いをする。
けれど宗介の刀法はそうではない。
彼のそれはせんを基盤とする身ごなしを根幹に据え、せんに最適の太刀行きを工夫し続ける、せんのための剣術である。
振るわれ心地が格別なのは言うまでもない。
けれどそのような刀としての感性は、今はもう好意を形成するほんの一部だ。
せんは彼女のもっと深い部分で、より強く彼に惹かれている。
「いつも思ってるし、何回だって言うよ。ありがとう、宗介。わたしと出会ってくれて。それから――」
言いかけて、せんは慌てて口を噤んだ。
どうしようもなく溢れかけた感情を、危ういところで押し留める。
この思慕は、まだ蓋をしておかなければならないものだ。
せんがおからたるを欲するは、刀の身を捨て、人の似姿を得んとするのは、無論宗介のためである。
何もできない自分が嫌だった。
あの日の無力感を、もう二度と味わいたくはなかった。
根幹にあるのはその思いだが、さりとてそればかりではない。
宗介の隣で、人のように暮らしたい。静かに、穏やかに、何でもない時間を共に過ごしたい。
そんな欲心が、せんにはある。
宗介に触れられたら、宗介と触れ合えたら、きっと幸せだろうと思う。
だって顔が見えるだけで、声が聞こえるだけで、こんなにも満たされるのだから。
もちろん、わかっている。
これは甘えだ。
身勝手な願いのために、宗介に命を削る縁切りを請け負わせてしまっている。
それでも、ひとりでは何もできない自分は彼に縋るしかない。使ってもらうしかない。宗介に、ぶら下がり続けるしかないのだ。
ただ、こうも思う。
宗介は優しいけれど、ひどくひどく優しいけれど、それだけではない。
きちんと分別をつけて、重荷であれば手を切れる、必要とあれば手を離せる人間だ。
なら宗介が助力してくれるのは、彼にとって自分がちょっとくらいは特別だからではあるまいか。少しくらい、脈があるのではなかろうか。
だとすれば。
だからこそ。
これは、まだ伝えてはいけない感情だ。
自分の刀に懸想されているなどと、宗介は夢にも思うまい。
でももしそうと知ってしまったら、その事実は彼の判断を曇らせるに違いなかった。
優しい宗介は、離すべき手を離せなくなってしまう。押しつけられる好意を撥ねつけられずに、きっとずるずると関係を持続させてしまう。
それは自分にばかり都合のよいことだ。
それは、とてもよくないことだ。
妖魅の呪縛から逃れる自由が、いつだって彼にはあるべきなのだから。
複雑極まるその胸中は、真実であると同時に言い抜けでもある。
せんは踏み込むのが何より怖い。
もし宗介に拒まれてしまったら、今の関係が破綻してしまったら、自分はまたひとりきりに戻ってしまう。
彼を知ったのちなればこそ、以後の孤独は一入だろう。
「……やっぱり、何でもない」
「気になるな」
「駄目ったら駄目。宗介でも駄目」
「残念だ」
ふいとそっぽを向くせんを、宗介はそれ以上追及しない。
興味ははあれども、彼女を困らせたいわけではないからだ。本当に大切なことならば、いずれ打ち明けてくれるだろうと、そう、せんを信用している。
「なら、代わりに知っておいてくれ」
「え?」
だから穏やかな微笑で、宗介はせんの瞳をじっと見た。
それから、耳元へ口を寄せる。気恥しい物言いだから、他の誰にも聞こえないように。
「俺も、同じ気持ちだ」
宗介には、失敗の記憶が多い。
その人のためと思ってしたことで、当人からの恨みを招く。過去にはそんなしくじりもした。
自分の選択に自信が持てない宗介は、だから思案が袋小路に陥ることが多い。つい、先ほどまでのように。
せんはいつも、それを察して手を伸べてくれる。
彼女の声とそこに籠もる真心は、いつだって宗介の灯だった。
今もそうだ。
――もし宗介が見つけてくれなかったら。せんって呼んでくれなかったら。
それは何でもないような、ふたりの出会いの一幕である。
けれど彼女はその思い出を、ひどく大切に、まるで宝物のように言葉にしてくれた。
自分だけでなく、あの日はせんにとっても特別だった。
そう思うと、誇らしいような、くすぐったいような心持ちになる。
それはちょうど今、雲間から降る星明かりのようだった。宗介の心の足に、前へ進む力をくれる。
「……っ!?」
万感の込もる囁きに、せんは口元を抑えた。
大きく見開いた目を瞬かせ、ふらふらと酔歩めいて宙を揺らめく。
まだない血が、わっと全身を巡る感覚に襲われていた。
朧に透けるその耳まで、桜色に上気している。
「もしかして、あの、宗介、それって……」
「ああ」
しっかりと宗介は頷いた。
もちろん自分の言葉など、せんにはそこまで響かないだろう。
それでも宗介は伝えたかった。この心のひとかけらだけでも、伝えておきたかった。
「俺こそいつも助けられている。いつだって救われている。ありがとう、せん。あの時、俺と出会ってくれて」
けれど真摯な感謝を紡いだ途端、陶酔めいた彼女の瞳がはっと醒めた。
続けて得心と諦念の色が過ぎる。
「……もう! 宗介は、本当に、もうっ!」
憤慨するなり、ふいとその幽姿を消し去った。
慌てて、宗介は鞘を握って鍔元を見る。
「悪い。何か気に障ったか?」
『障ってない。でも、宗介のそういうとこだけはきらい』
どうやら彼には、いささか難しい返答だったようだ。
当惑する宗介を感知して、せんは鞘の内でくすくす笑う。
そのように睦み合ううち、夜の中に方相長屋が見えてきた。
漆喰を用いた長屋門を構え、平屋と二階造りを組み合わせた、それは武家屋敷と見紛うばかりの建築物である。
方相とは周辺環境を利して仏道修行の場を整え、結界することを言う。方相長屋との呼び名は、斯様な拵えの見事さに由来するものであったろう。
ふたりにとって、ようやく馴染んできた棲み処だった。
「あれから、もう一年か」
『あっという間だったね』
宗介の呟きに、せんが同意を示す。
揃って、初めてこの門を潜った時のことを顧みていた。
大角に拾われ、ふたりが方相長屋の一員となったのは、昨年の雪の日のことである――。
一章の補遺を、活動報告として掲載しました。
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