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番外編『質疑、応答?』

 カリダは紙を一枚、アネッロから与えられていた。

 いつも食事をしているテーブルにつき、それをまっすぐ目の前に置く。

 床につかない足をぶらつかせたい衝動を我慢しながら、見下ろす。

 文字を読む練習ではあったが、カリダの眼には大きなミミズがのたくっているようにしか見えない。

 唸り声こそ上げてはいないが、カリダの眉間に深いしわが寄せられていく。

 掃き掃除をしながら、モネータは密かに少女へと視線をやる。

 カリダは紙に手をやり、目の高さまで持ち上げた。

 自分の名前に使われている字に関しては、なんとなく分かる。

 紙を握りつぶす前に、カリダはなんとかそれを元の場所へと戻し、顔を上げた。


「……モネータ兄様、読んでくれ」


 あっさりと音を上げたカリダが、背筋を伸ばしながらモネータに眼を向けると、掃除の手を止めた彼が、困ったような顔でカリダを見た。

 モネータがゆっくりと口を開くと、カリダは小さく眼を見開き、はっとする。


「カリダ……」

「ませんか!」


 モネータの言葉の上から、たたみかけるように声を張り上げる。

 たかが四文字は、文字通りにも聞こえるし、ちょっと待てとも聞こえる言い方だった。

 少女の小さな手の平が、モネータに向けられているのが、全てを物語っている。

 必死の思いが伝わったのだろう。モネータは思わず苦笑した。


「セーフですか!」


 笑った事に安堵を覚えたのだろう。

 モネータは仕方なくうなずいて見せた。


「……ええ、今回の罰則は、半分にしておきます」

「なんで! ……ですかっ! 頑張ったじゃないですか!」

「頑張った事については評価しています。ですが……」

「ああ、はいはい。分かりましたよ」


 唇をとがらせ、カリダは紙をモネータに向ける。


「はい。これ、読んでくれませんか」

「……これを読む事が出来たら、持ってきなさい。と書いてあります」


 言いづらそうに、モネータが口にすると、カリダは眼を瞬かせた。

 しかし、すぐにしてやったとでも言いたげに笑みを浮かべる。

 椅子を鳴らして飛び降りた少女に、モネータは制止の声を上げた。


「待ちなさい」

「は? ああ、ありがとうございました」

「そういう意味で止めたわけではない!」


 真剣な顔でひたと見つめてくるモネータに、カリダは怪訝な顔をする。

 そしてすぐに、笑って見せた。


「大丈夫です。モネータ兄様に教わったとは言いません」

「それについては、どうでも構いません。もし、今の状態でアネッロ様にその用紙を持っていって。困るのはカリダですよ」


 何を言っているのか、カリダにはさっぱり分からなかった。

 宿題には、読めたら持って来いとだけ書かれているのだ。

 ズルをするな。とも、モネータに聞くな。とも書かれてはいないのならば、困る事などないはずだ。


「困りません」


 頭に浮かんだ言葉を、全部吐き出そうとすれば、ボロが出るだろうと踏んで、カリダは堂々と胸を張って答える。

 眉間を押さえたのは、モネータの方だった。


「そのまま用紙を持っていったとして、アネッロ様に復習として、目の前で違う問題に答えろと言われたらどうするのです?」

「それは……ボスが酷い人になるだけじゃ……ああ、元々酷い人間だった。と、思います」


 そのセリフにモネータは呆れた顔をしたが、それを見もせず、カリダは持っていた紙をテーブルに戻す。


「早く終わらせたい、ので。教えてください」


 椅子に座りなおし、苦々しげに言葉を発するカリダに、モネータは苦笑しながらうなずいた。


  *


 太陽がいくらか天空を進んだ頃、カリダは緊張した面持ちで、事務所の扉の前にいた。

 大きく息を吸って、吐く。

 意を決して、力強く扉を叩けば、入れと返ってくる。


「……えっと、失礼します」


 扉を開け、モネータに教わった通りに言うと、革のソファに腰掛けた先客が面白そうに眼を細めて振り返ってきた。

 知らない顔だった。

 教わった通りの言葉をかけたはずだ。何も笑われる言われはない。


「終わりましたか?」


 動けないでいたカリダに、アネッロが声をかけると、少女は小さくうなずいた。


「あの……」

「ああ、俺様はガト=オッキオだ。よろしくな! 新人!」

「カリダ、です。ええと、誰、ですか?」


 名乗ったにもかかわらず、眉をひそめたカリダに、ガトは楽しげに笑った。


「元、同僚ってとこかな」

「どうりょう……?」

「ジュダス商会の元働き手。アネッロ=ジュダスの手先。知らねえか? お前と同じ、この男に拾われた孤児の話」

「……知って、ます。今は、領主の手先になったとか」


 そんな言い草にも、ガトはまた笑う。

 元同僚と言った男に、カリダは少し考えてから、言葉を口にした。


「……一つ、聞いてもいいですか?」

「何でも言ってみろよ」


 背もたれに両腕を乗せ、ガトが身を乗り出してくる。

 カリダは、アネッロを窺う。だが、彼は書類に眼を落とし、二人の方を見ていなかった。

 話を続けても、問題はないだろう。と、ガトに眼を戻す。


「ずっと、その話し方だったんですか?」

「そうだ。何か問題でもあるのか?」


 もう一度、アネッロに眼を向けたが、変わりない。

 止められる事もないので、カリダは話を続ける事にする。


「お客様の所でも、ですか?」


 意図はなんとなく読めたのだろうが、ガトは正直に答えた。


「場所にもよるがな。貴族連中なんかは、それっぽい態度や話し方じゃないと門前払いが多い。まあ、町の奴らなら、かしこまった話し方よりもくだけてた方が馴染みやすいか」


 カリダが眼を輝かせながら、持っていた紙を握りしめた。


「じゃあ、普段はちゃんとしてなかったんですか?」

「ちゃんとしてないって……」


 苦笑した男を見て、カリダはすぐに言い直す。


「普段は、ずっとその話し方だったんですか?」

「見事に疑問ばっかりだな。……まあ、そうだな」


 ガトがそう答えた途端、カリダが短い髪を振り乱しながら、勢い良くアネッロへと顔を向けた。

 二人の掛け合いを聞いていたアネッロが、にこやかに顔を上げた。


「基礎も出来ていない人間に、反論の自由など与えると思いますか」


 その表情に、カリダは一歩、後ずさった。

 ガトを見れば、振り返ってアネッロを見ていた彼も、カリダの視線に気付き苦笑する。


「まあ、頑張れ」

「……どうしたら、いいですか?」


 カリダが最後の疑問を投げかける。

 途方に暮れた少女の顔を見て、ガトは自分も通って来た道だと思い出した。

 多少だが不憫に思え、紫の瞳を柔らかく細める。


「いいか。言葉なんてもんは、ただそれだけだ。恥を捨てろ。全部、ゲームだと思え。楽しんだ者勝ちって事だな」


 カリダは肩を落とし、しわになった紙に眼を落とす。

 結局は、続けざるを得ないだけだ。


「練習に付き合ってくれて、ありがとうございました」

「……れん、しゅう?」

「はい。人に、何かを聞く練習です」


 あんぐりと口を開けたガトの横を通り、アネッロに紙を提出する。

 それに眼を通した彼は、片方の眉を上げた。

 余白の部分には、炭を使ったのだろうぎこちない文字で埋め尽くされていた。

 アネッロは口の端を持ち上げ、うなずく。


「下がって良し」


 小さく頭を下げ、カリダはそそくさと事務所から消えた。

 嬉しそうにリズムを刻みながら階段を降りていく足音を聞きながら、ガトは弱々しく頭を振った。


「真剣に答えた俺様の立場って、なんだ」

「どうでもいいという事ですね」


 眉をつり上げて振り返るが、その静かなる抗議がアネッロに届く事はなかった。



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