夏休みの終わりに
夏もほぼ終わりとはいえ、山間にあるプラトーの町の朝は、夏気分の薄い寝巻きだと少し肌寒く感じてしまう。
少し身震いをして、シエルはむくりと宿のベッドから起き上がる。二日という長いようで短い時間ではあったが、この二人きりで過ごした二日で確実に二人の距離は縮まっただろう。
「……んぅぅ、おはよぉ……」
目をごしごしと擦って、ぐっと身体を伸ばして意識を覚醒させようとする。ふわふわと完全に覚醒していない意識で、周りをぼーっと見ていると、ふと思い出した事があった。思い出してしまったシエルの額からじわじわと冷や汗が出てくる。
「え、えーちゃん、起きて起きてっ」
ゆさゆさと隣で寝ているエリーを揺らして起こそうとするが、こういう時に限ってエリーは中々目を覚まさない。
「ど、どうしよ……お、起きてよー……」
シエルが珍しく──というわけでもないが、慌てている理由は、夏休み最終日に奴隷を所有している者は、奴隷達の身体検査をしなければならない、と学園の規定で定められているのだ。
身体検査、とは一口に言っても、ただ奴隷の身体に異常が無いかを検査するわけではない。主人である人間、またはそれに近しい者からの不当な暴力を与えられていないか、十分な食事が与えられているか等を調べるためでもあるのだ。クラニア帝国は奴隷の所有を認めてはいるものの、主人にはかなりの制約が課せられるのだ。それこそ、中世や古代などの人権など与えられていないような奴隷とは全くと言っていいほど違う。
境遇によっては奴隷に身を落としたほうがまともに衣食住が揃う、という人間すらもいる程だ。ただ、奴隷も与えられるだけの存在ではなく、きちんと労働力として働いている。基本的には男性ならば力仕事、女性ならば家事などの家の中での雑用などが主な仕事になるが、貴族や冒険者などが主人の場合などは奴隷同士の戦いや、戦闘時に前線に立つ場合などもある。
「えーちゃん、おーきーてー!」
安らかな寝息をしているエリーには申し訳なさを感じながら、シエルはベッドの掛け布団を魔法で宙に浮かせる。高山特有の肌寒さは夏気分のエリーには応えたのだろう。びくりと身体を震わせて憂鬱そうに瞳を開く。
「な、なに……? 今日はまだ休みのはずよ……?」
「そうだけどー! ルリの身体検査の日だよー!」
シエルの必死の声に、一息おいてエリーも思い出してやってしまった、という顔になる。二人は急いで服を着て宿を発つ。
身体検査はアルドラの中央にある時計塔の正午の鐘が鳴ってから開始される、と言われていた。正午の鐘までは残り二刻位だろう。
今から馬車に乗れば十分間に合う時間のはずだ。ばたばたと階段を駆け降り、宿で出される朝食も口につけず、昨日降りた馬車の乗り合い所まで走る。
「ま、待って、えーちゃん……わ、私そんなに体力ないからぁ……!」
シエルがエリーに手を引っ張られる形で必死に付いていってはいるが、エリー程の体力も身体能力も持っていない。それに、ある程度の障害物なんかはシエルの瞳でも見えるが、小さな小石のように躓いて転んでしまうような小さいもの等はシエルの瞳では見ることが出来ない。勿論、それが魔力を帯びているものなら見えるが、そんなものは街中には落ちていない。
「あっ!?」
シエルのそんな声が聞こえ、エリーが振り向くと、そこには小石か何かで躓いたまま引っ張られ、ふわりと宙に浮く。
「しぃっ!?」
次の瞬間、派手にシエルとエリーはもつれこんで躓いてしまう。エリーが咄嗟にシエルを庇う様に抱きかかえる。
「だ、大丈夫……?」
申し訳なさそうにエリーがシエルに聞くと、シエルは困り顔で頷く。
「わ、私は大丈夫だけど……えーちゃんは大丈夫……?」
「うん、だいじょう──っ」
大丈夫、と言おうとしたが鈍い痛みに言葉が詰まる。ちらりと足を見ると、擦れてしまったのか血が出ていた。
「あっ、無理しないで……?」
シエルが手に魔力を込めるとふわりと優しい光がシエルの手に宿り、エリーの両足を包み込む。すると、みるみるうちにエリーの足に出来た擦過傷が消えていった。
「これで大丈夫だよっ」
シエルがふぅ、と息をつきながらエリーの足を優しく撫でる。軽い傷だったのもあり、傷跡は完全に消え去っていた。軽い傷とはいえ、完璧に傷跡を消し去るのは相当な技術が必要だ。並の白魔道士であれば、多少は傷跡が残っていただろう。
とはいっても、余程深手でも無い限りはその傷跡も時間をかけて自分の身体が綺麗に消してくれる。だが、シエルの魔法にはその傷跡が残っていなかった。つまりは、それほどに白魔法の扱いに長けているのだ。
「ごめんね、無理に走らせちゃって……この傷、私の自業自得だったのに」
「それでも、だよ? えーちゃんは私の為に走ってくれたんだし……」
「そうだね……って、そんな事言ってる場合じゃないよ、馬車が出発しちゃう!」
エリーがふと我に返りシエルにそう言うと、シエルもそれに気付いたようで、ぴょこんと立ち上がる。
「──あ、そうだえーちゃん」
「何? どうかしたの、しぃ」
何か案を思いついたのか、シエルは突然エリーに話しかける。
「シルフィがダンジョンから出るときに使った転移魔法、あれって使えないかな?」
シエルが思いついた案は、転移魔法を使って一気に学園まで行くことだった。それならば、今の時間でも十分に間に合うはずだ、と考えたのだろう。だが、エリーはうーん……と、首を傾けはするが、首を縦には振らなかった。
「確かに、転移魔法なら一気にいけるかもしれないけど、あれには距離が遠くなるほど必要な魔力が多くなるの。しかも、一定の距離を越えると必要な魔力が馬鹿みたいに増えるから燃費が最悪、だから昔から存在はしているけれど、まともに使う魔道士はいないって言われてる魔法なの……ちなみに、ここから学園まで転移しようとするなら大体になるけど、あのときにダンジョンで見つけたゴーレムのコアがざっと三、四百個はいる……かな?」
シエルも流石にそこまでは考えを巡らせていなかったのか、えぇ……と困惑の声を漏らしていた。
「ん……? 一定の距離を越えたら、消費魔力量が増えるんだよね?」
「そうね、細かい距離のことは分かっていないけれど、急激に奪われる魔力が増えだしたっていう実験結果が出たのが、大体六、七百メートルを超えてからだったかな……?」
「なら、その間隔で連続転移したらすぐにつけるんじゃないかな?」
エリーはそう言われて、はっとする。だが、それが出来ない理由もきちんと存在した。
「残念だけど、魔法の連続詠唱は基本的には出来ないわ。特に転移魔法なんていう高度な魔法になればなるほど術式が難しくなるしね」
そうなのだ。基本的に魔法使いが使う『魔法』というものは『魔法式』というものが組み込まれており、それを詠唱して『魔法式』を作ることにより始めて『魔法』が使えるのだ。故に、適当に詠唱を省略したりした場合は、魔法が発動しないか、もしくは魔法が暴走してしまう危険性も存在するのだ。
過去には魔法式を一度の詠唱で複数回組み込む多重術式なるものがあったようだが、それを使う人間や高位妖精達がいなくなってしまった今、確かめる術は無い。
だが、シエルはまだ諦めた様子は無いようだった。
「なら、転移魔法の魔法式を教えて、何とかできるかもしれないから」
「い、いいけど……流石にしぃでもそれは無理だと思うよ……?」
そうは言いながらも、エリーはバッグの中に入っていた羊皮紙に、魔力を通した羽ペンで転移魔法の魔法式をつらつらと綴っていった。
小さな本ほどの大きさの羊皮紙一枚が七割ほど埋まる長大な魔法式をエリーは食い入るようにじっと見つめている。
そして、数分後いきなりエリーの腕を掴むと、
「えーちゃん、私の手、しっかり握っててね?」
「え……? しぃ……?」
その訳を聞く間も無く、シエルは詠唱を始めた。
「『光よりも迅く、虚空を駆けよ。幾重にも我が身に宿りて、我が力尽きるまで、我を導け』!」
刹那、手を握っていたエリーの視界がぶれる。眩暈にも似た間隔を覚えながら、一瞬閉じた目を開くと、二人は全く違った場所、否、正確には先ほどの地点から大体七百メートルほど離れた場所に立っていた。
シエルが転移魔法を唱えたのだろう、と理解した次の瞬間、再び視界が歪む。そして、また同じように大体七百メートル先の場所に二人は立っていた。視界が歪み転移するその間隔がどんどんと短くなっていき、十回を超えるとほぼ継ぎ目無く連続で転移を繰り返していた。
プラトーの町からアルドラは、距離としては大体三、四十キロといったところだが、これだけ連続かつ高速で転移を繰り返せば、馬車の数倍の速さでアルドラに到着することが出来るだろう。
そして、何よりも凄いとエリーが感じたのは、これだけ連続で転移魔法という魔力を消費するはずの魔法を使っておきながら、ほとんど魔力の消費をしていないことだった。確かに転移魔法もある程度の近距離であれば、魔力の消費量も少なめですむ。だが、それでもシエルの手を握っているエリーはシエルが魔法を使い減った魔力がどれくらいかある程度把握できるが、いくら消費を抑えた転移魔法といえども、流石に少なすぎる。
普段転移魔法を使えば、恐らく倍か、更にその倍は魔力が消費されるはずなのだが、それの絡繰はこの連続転移にあるのだろう。そう考えていると、もうアルドラの町の正門は目の前に見えていた。
「しぃ、門が見えたよ!」
エリーがそう言うと、シエルはこくりと頷いて、
「『解呪』!」
強化や、弱体魔法の解除に使用する魔法をシエルは自らの体に使った。すると、シエルの身体をぼんやりとした白く不透明な光に包みこまれたが、その光はすぐに消えて光の粒子となって空気に消えた。
「ほら、着いたよ。急ごうえーちゃんっ」
先ほどとは打って変わって、シエルの勢いに負けてエリーはその手を引っ張られ町の東門の目の前までやってきた。
「おっと、お嬢さん方、何か身分を証明するものはお持ちかな?」
門前で、警備をしている番兵にそう呼び止められる。二人は、通っている学園であるフィオーレ学院の校章を番兵に見せた。
「これで問題ないでしょう?」
「……ああ、問題ないよ。しかし驚いたな、君達があの学院の生徒だとは思わなかったよ。さあ、通ってくれ」
支給用の無骨な装備の鎧の中から聞こえてくる意外にも好青年そうな声を聞きながら、門をくぐる。エリーが空を見上げると、太陽はまだ頂点まで登りきっておらず、身体検査まで後一刻ほどはあるだろうと、ほっと一安心する。
「ふぅ……何とか間に合ったね」
シエルがえへへ、と得意げに笑いながらそうエリーに言う。エリーはそうね、と答えて優しく頭を撫でると顔を綻ばせてもっとして欲しい、と頭を差し出してくる。
「全く……しぃは私の考え付かないようなとんでもない事を思いつくんだから……」
「えへへ……♪ どうやったかえーちゃん、知りたい?」
言わずとも、エリーも気にはなっていたので学園へ向かいながらあの魔法の仕組みを聞くことにした。
「ええ、そうね。教えてくれる、しぃ?」
エリーの言葉に嬉しそうにシエルは頷いて話し始める。
「うんっ、えっとね……あの魔法は『転移魔法』としては使ってなくて、『魔力を消費してる間一定時間毎に自分の肉体を指定した場所に転移させる魔法を肉体に付与する魔法』って所になるのかな……? 私も出来るかな、で作った即興の魔法だったからここまで上手く成功するとは思わなかったけどね」
「あ、だから最後に解呪で解除したのね……だとしても、一定時間毎に魔法を再使用する魔法式なんてあったかしら……?」
「えっと、それはねー……白魔法の上位魔法に『クラルカテーナ』って魔法があるんだけど、その魔法は回復魔法を自分の魔力を消費し続けて、魔力を使っている間ずっと対象を癒す魔法なの。だから、それの魔法式を応用して、転移魔法を魔力を消費している間、ずっと連続で使えるかなって思ったの」
改めて理論を聞くと、一介の魔道士ならば卒倒しそうな高度な魔法を即興で作っていたシエルの才能と、それを可能にした魔力の多さに驚く。エリーは魔力こそ高位妖精という種族である以上、シエルの総量よりは多いのだが、悲しい事に魔法のセンスがそこまでないのだ。
初歩、中級程度の魔法であれば問題なく使えるのだが、応用魔法、上級魔法になると途端に魔法そのものの成功率が下がってしまう。それについては本人も自覚はしているが、どうにもならず苦労している。
そうこう話しているうちに、二人は学園の正門前まで辿りついていた。
「おや、お帰りなさい。君達は……ああ、そうか所持奴隷の身体検査の為に一日早く来たんだね」
「はい、他の人たちはもう集まってますか?」
シエルが守衛の人間にそう聞くと、少し考えた後にそうだね、と頷く。
「うん、今日は一年生だけだから、多分君達が最後じゃないかな、名簿は渡されてるから確認しているし」
「そうですか、ありがとうございますっ」
シエルはぺこりとお辞儀をしてから、エリーの手を引っ張って集合場所である校庭に向かう。
「あ、お嬢様~っ!」
不意に聞き覚えのある声が後ろから聞こえ、軽い足取りで走りよってくる。ぴょんっと飛び込むようにシエルに抱きついて、嬉しそうに犬耳をぴこぴこと揺らしていた。
「わわっ、どうしたのルリ?」
「お嬢様にやっと会えたと思ったらちょっと嬉しくなっちゃって……」
「やっとって……二日会えて無かっただけだよ?」
「その二日が長かったんですよぉ……」
若干泣きそうなルリの声を聞いて苦笑いしながら、すりすりと身体を寄せてくるルリの頭をシエルは優しく撫でる。
頭を撫でられて、嬉しそうな声をもらしているルリを数歩後ろから見ている、もう一人の見慣れた姿がそこにはいた。
「自分から言っておいて主が本当にいなくなったら数刻としないうちに飼い主を待つ子犬みたいになりおって……妾にだけ面倒な仕事を増やさないでほしいのじゃ……」
クオンが呆れた声で、ルリとシエルの様子を見ながらそうぼやいていた。エリーはそんなクオンを見て、
「貴女もお疲れ様、クオン。これが終わってから何か買ってあげようか?」
「ふん、まあ主がそう言うのならば買ってもらおうかの? 妾は甘いものが食べたいぞ」
「はいはい。それなら、しぃ達の用事が終わってから買いに行きましょうか」
殊勝な心がけじゃの、とエリーの後ろで言うクオンの表情は、周りから見ても上機嫌な事が分かるほど表情に出ていた。
そんなこんなでいつもの四人は揃って学園の校庭に着いた。この学園の校庭は広いなんてレベルでは無いほどに広大だ。その気になれば、国の騎士大隊が数個単位で収められるのではないかと言うほどの広さだ。
そんな校庭を見渡すと、校舎側に何人かの人影が見えた。恐らく、あの団体が身体検査を受けに来た奴隷と主人なのだろうと思い、シエル達はその集団に近づいていった。
「あ、シエルちゃん、こっちこっちー」
ある程度姿がはっきりと見えるくらいまで近づくと、セッカが手を振って場所を知らせてくれる。やはり間違っていなかったようで、列の後ろに四人も同じように着く。
「はい、これで全員かな……? えっと……」
ひぃふぅみ……とセッカが頭数を数える。全員を数え終えて数があっていたのか、よしっと言うと。
「うん、全員揃ってるね。それじゃあ、今から身体検査始めてくよー丁度十人で偶数だし、お互いに相手を決めてねー」
セッカのその声で、次々とペアを作っていく。シエルはどうしようかと迷っていると、
「どうやら余ってしまったようだし……僕と組んでもらえるかな、シエルさん?」
そう言ってきたのは金髪の雰囲気の良さそうな少年だった。後ろには大男が主人である少年を守るための剣を帯刀している状態で直立していた。
「私は全然構わないよ? よろしくね」
シエルが手を出すと、少年も同じように手を差し出して握手に応じる。貴族にしては珍しくシエルの事をうるさく言わないな、と後ろからエリーが内心で思っていると、
「僕も貴族とはいっても小貴族だからね、同じような立場の人達が増えると、僕も話しかけやすくて嬉しいんだよ」
「貴族の中にもやっぱり上下ってあるんだ……」
シエルのぼそっと呟いた一言に、少年は苦笑しながら首肯する。
「そうだよ。 特に君達は帝国領のかなり辺境の辺りから来たらしいから分からないかもしれないけどね、特にこの学園だと顕著みたいなんだ。……まあ、権力があるのは親のほうで君達には何の力も無いって言いたいんだけどね」
シエルにだけ聞こえるように、ぼそっとそう呟いた。シエルが、あはは……と乾いた笑いをあげていると、セッカがちゅうもーく! と、大声で叫ぶ。
「それじゃあ、ペアも組んだことなので、ペアを組んだ二人で軽く組み手を行ってもらいます。安心して、ここに集めた子達は皆、戦うことや主人を守ることの為に鍛えている人達なので手加減はしないこと、勝負開始は各自で決めてね!」
パチン、とセッカが指を鳴らすと、薄い膜のようなものが作られる。
「防御結界は張っておいたから、好きなように戦っていいわよー。ちなみに、この結界の中で戦ってくれるだけでデータは取れるから、武器を使うのだけ無しで戦ってねー」
セッカの自由な振る舞いに集められた生徒達はため息を付きつつも、言われたとおりに組み手を開始する。ルリと大男も、同じように相対し、距離を開ける。
「……まあ、理事長もああ言ってる様だし、始めようか」
「そうですね……まったくもう……ルリ、頑張ってね?」
「任せてくださいっ、セッカさんに色々教えてもらったことも試したいから頑張ります!」
ルリのその言葉に、もしかしたらそれを試す場として敢えてこんな事を言ったのではないだろうか、と考えてしまう。
「行きますっ!」
「……いつでも、来い」
ルリがすっと腰を落とし構える。それに答えるように大男も同じように腰を落とす。検査の意味合いを込めての組み手に剣は使ってはいけない為、帯刀していた剣は少年の手元にある。
ルリがさらに腰を落とした事が見えた刹那、ルリの姿が掻き消えた。
「っ!?」
大男がそれに気付いた時には、ルリは既に懐まで潜り込み一撃を与えるべく握り拳を作り上げていた。
(セッカさんが教えてくれた事……力を込める時は一瞬でいいって……だから、ここで!)
大男が咄嗟に防御の姿勢を取り、ルリの一撃を受け止めるべく待ち構える。
「黒羽流、時雨っ」
神速の拳が大男の腕に当たる瞬間、大男はそれがフェイントだと気付くのがコンマ数秒遅かった。ルリの放つ技、時雨は拳の一撃をフェイントにし、その一撃の速度を足撃に乗せ数段も強烈な蹴りを与える技だ。
拳を真下に振り下ろし、その速度を殺さず防御の真上から蹴りを放つ。超人的な反射神経で、片腕だけはルリの足を捕らえ、真上に振り上げた。だが、流石に速度を乗せたそれを片腕で防ぎきるのは不可能で、小さくだが、骨の軋む音が大男には聞こえた。
「……やるな、想像以上だ」
「私もびっくりです、まさか一撃で終わらせられないなんて」
「……俺も、本気を出そう」
間違いなく骨に皹が入っているであろう腕を振り上げ、ルリ目掛けて振り下ろされる。ルリはそれを極限まで引き付け、いなし、その一撃の威力を全身に乗せ、大男の延髄に向けて強烈な踵落としを放つ。
「黒羽流、響っ!」
その一撃にシエルは直感的に悪寒を覚え、無意識に口走っていた。
『ルリ、止まりなさい!』
それは主人でなければ使えない奴隷の強制従属魔法だった。魔法により、強制的に動きを止められルリの足の軌道がズレ、大男の首筋を掠めて地面を抉った。それほどの威力のものを生身の人間が受ければ、勿論ただではすまない。それどころか死に至る可能性だって存在した。
「僕達の負けだね」
「……そのようですね。今の俺ではあの少女には勝てない」
「ご、ごめんなさい、私の勝手で止めてしまって……」
シエルがルリにかけた魔法を解除し、ぺこりと二人に向かって頭を下げる。だが、少年も大男も全くそれを意に介さず、
「気にすることは無いさ。それに、もしも止めてくれなかったらとんでもない事になるかもしれなかったしね。感謝するよ」
「……お前の主人は、良い主人だ。大切にするんだな」
「はい、勿論ですっ。お手合わせありがとうございます、またする事があればよろしくお願いしますね」
ルリと大男はこの短い時間で何か得るものがあったのか、ぐっと握手を交わす。
「おー……ちょこっとアドバイスしただけなのにここまで物にするのはやっぱり才能なのかな……?」
「うわっ!? セッカさん!?」
いつから居たのか、シエルの背後からセッカがにょきっと生え、先ほどのルリの踵落としの跡を見ていた。
「あ、驚かせちゃった? ごめんごめん。あ、二人に関してはもう大丈夫だよ。お疲れ様、ルリちゃんはもうちょっと力の配分と加減を練習した方がいいかもね、トリオン君はアルマさんの腕、きちんと治療しておいてね」
矢継ぎ早に四人に対してそう言うと、他の組み手の様子を見に行ったのか、転移魔法でどこかへと飛んでいってしまった。
「……行っちゃった……」
「うーん……あの人はほんと掴みどころが無いというか、自由人と言うか……」
「なのに、ちゃんとする所はしてるから困っちゃう……」
あはは……それもそうだ、とトリオンと呼ばれた少年が苦笑いする。アルマは、いつの間にか剣を再び腰に帯刀していて、トリオンの後ろで初めて見た時のように直立していた。
「それじゃあ、短い時間だったけど、君達が他の貴族達とは一味も二味も違うって事は良く分かったよ。縁があったらまた会うと思うし、それじゃあ二学期、お互いに頑張るとしよう」
そう言って、トリオンは軽く別れを告げて、結界の外へと出て行った。
「……私達もいこっか?」
「そうですね、あ、そういえばシルフィードさん達も戻ってきてましたよ。今はお嬢様たちの部屋に居るそうです」
ルリのその言葉に、シエルはうん、と頷いて何か話し込んでいた二人にも部屋に戻ることを告げた。
「それじゃあ、戻ろっか、皆」
「そうね、明日からは私達は学年が上がるし、気を引き締めていきましょう」
おー!とルリとシエルが元気良く返事をして、四人は学園寮へと戻っていった。
「やっぱり、あの娘達は面白いね……今後が楽しみだよ。そうだろ、アルマ?」
「……ええ、俺も驚きました。まさか、あれほど出来るとは思っていませんでした」
二人は暗幕のかかった薄暗い部屋に戻り、そう話していた。よく見えないが、家具のほとんど存在しない殺風景な部屋に、二つだけ特徴的なものが壁にかかっていた。
それは、シエルとエリーが数日前に見た二つの仮面だった。
「これからは、もっと彼女達にはさらに厳しい現実が待っていると思うけれど……それは彼女達自身が何とかする事だからね」
トリオンはそう言うと、仮面を外し己とアルマに付け薄暗い部屋から音も無く消え去った。




