秋:さよならサンライト
鳥のさえずる声で目を覚ました。窓の外はかすかに白んできているが、まだ朝日は昇っていないみたいだ。何もない空を見上げて、私は小さくため息をついた。
「……秋? 起きたの?」
隣で眠っていた鈴が私を呼ぶ。二人とも、シーツの下は何も身に纏っていない。昨日は体を重ね合わせて、そのまま眠ってしまったのだ。
「……おはよ、鈴」
彼女の長くて綺麗な髪を手にとって、そっと口づけをする。私は癖毛で伸ばせないから、彼女のこの髪を羨んで昔は触ってばかりいたっけ。
……どうして今、そんなことを思い出すのだろう。まるで、もう通り過ぎてしまった過去を、懐かしむような。胸がちくりと痛んで、私は目を閉じた。
「ねえ、秋」
また鈴が呼びかけてくる。目を開けると、彼女はじっと私をのぞき込んでいた。その瞳を見てわかった。
ああ、彼女もきっと、私と同じことを感じている。
「……散歩、しようか」
私は頷いて、気だるい体を無理矢理起こした。
外はしんと静まり返っていて、時折冷たい風が頬を撫でた。秋の風だ。夏はもう、過ぎて行こうとしている。
私たちは家の近くにある公園にやってきた。ここには少しだけ広い池があるのだ。
ここにもよく来たな、と手すりに頬杖をついて、朝靄のかかった池を見つめる。どこからかやってきたカモの親子に、二人で食パンをあげたこともあった。
……やっぱりどうしても、今までのことを思い出してしまう。夜明け前に漂うアンニュイな空気にでもやられたのだろうか。
いや、私はとっくにわかっているはずだ。わからないふりをするのは、考えたくないから。
「……秋」
鈴が口を開いた。彼女はじっと霞んだ池の中心を見つめている。私を、極力見ないようにしているみたいだった。
「私たち、別れるしかないみたい」
きっぱりと、だけれど迷いのある声で彼女は言った。
ああ、やっぱりそうか。私はぎゅっと深く目を閉じた。
わかっていた。私の中でも、答えは出ていたのだ。
だけれど、この答えを認めてしまったら、私たちは一体どうなるのだろう。
私はただ、怖かった。
「……二人で乗り越えられないの?」
私は目をそらしたまま尋ねた。
「そうすれば別に別れる必要なんか……」
「秋」
鈴が私を遮る。そんなこと聞きたくない、という苛立ちが感じられた。
「わかってるでしょ?」
ずばり言い当てられて、私は思わず身じろぎした。
……わかってる。今私たちが直面している問題は、二人では乗り越えられないのだ。
「……私たちさ。最近、喧嘩ばっかりだよね」
鈴が言う。その通りだ。昔だったら何のことはなかった相手の一挙一動に苛立つようになって、近頃は言い争いばかりしている気がする。
二人きりでいても、まるで腫れ物に触るみたいに空気を探り合って、それにまた苛立って喧嘩して、のループ。
いつからこんな風になってしまったのだろう。一緒にいるだけで幸せだったはずなのに、今はもう、徒労感しか感じていなかった。あの輝かしい二人の日々は、一体。
どこへ行ってしまったんだろう。
「私さ、もう嫌なんだよ。自分の神経すり減らすのも、あんたのそういう姿を見るのもさ」
もうこんなこと、終わりにしよう。腕をせわしなく組み替えながら、彼女は言った。
私だって、苦しそうな鈴を見ているのはつらい。これ以上二人でいたって、どうにもならないことも知っている。
だけど私はまだ、彼女が好きなんだ。
頭の中ではたくさんの言葉が渦巻いているのに、それを口に出すことができず、私はただ震えていた。何か言わなくては、と思う。でも何も言えない。この体が自分のものではないような、不安定な感覚に陥る。
すると鈴が私の腕を引いて、そのまま抱きしめてくれた。
ああ、と彼女の体温を全身で感じながら思う。この子はいつも、私が辛いときはこうやって抱きしめてくれるのだった。その温もりに、その優しさに。私は目を閉じて全てを委ねたくなる。
ふと見ると、彼女の腕もかすかに震えていた。彼女だって、辛いのだ。
こんなにもお互いを思って、離れがたいけれど。二人では、傷つけ合ってしまうから。
考えて考えて考えて、二人のこれからのために下した答え。
それならば、私が甘えていてはいけない。
「……ありがと。もう、大丈夫だから」
私は彼女の腕の中からそっと離れた。名残惜しそうだった彼女も、やや無理矢理笑顔を作ってみせる。
「……うん。わかった」
そのまま私たちは顔を寄せあい、唇を合わせた。胸を冷たい刃で抉られるような、深い悲しみに満ちたキスだった。
「ねえ、お願いがあるんだけど……」
「なに?」
「私を……思い出なんかにしないでね」
これからあなたが出会う人に、私のことを語らないで。かつて好きだった人になんて、しないで。
そう言うと、彼女は私の頬を優しく撫でてくれた。
「思い出なんかにならないよ。秋は、いつでも私の隣にいるからね」
その瞬間、瞳の奥から涙が押し寄せてきそうになったけれど、私は懸命にこらえた。
泣くもんか。私はもう、鈴に甘えないと決めたのだ。
「じゃあ、秋。私もう、行くね」
「うん。鈴、じゃあね」
彼女は後ろを向き、やがて向こう側へと歩き始める。またね、とは言わなかった。もうお互いの人生が交わることなどないと、私たちは知っていたから。
その時、池の向こうから朝日が顔を出した。日の出だ。
「……綺麗」
思わず呟いてしまう。それほどにそれは見事で、溢れてしまいそうな涙も乾いてしまった。
鈴の背中はもうすっかり小さくなっていて、そしてゆっくりと朝の日差しの中へと溶けていった。それを見届けた後、私も反対側へとゆっくり歩き出す。
きっとこれから、一人になった部屋で、空っぽになるまで泣くのだろう。それがいい。強くない私は、そうやってまた一歩、前へと進めるのだから。
さよなら、鈴。大好きだったよ。
最後まで口にしなかった愛の言葉を、私は朝の光に向かって囁いた。




