夏:I wanna be…(後編)
駅の中から、蟻の軍団のように人々が溢れ出てくる。一気に体感温度が上昇したような気がした。みんなお祭りが目当てなのだろうか。どことなくどの人の顔にも、楽しそうな雰囲気があった。
隣町に来たのは初めてだった。だからだろうか、知らない町並みの中で知らない人たちを眺めていると、自分がひどく場違いな存在に感じられる。
どうして私はここにいるのだろう。汗の粒が首筋を伝って背中に落ちる。
人の流れが途切れ途切れになってきた時に、ようやくあずささんが現れた。私はほっとして、彼女に手を振りながら近づいていく。
「あずささん!」
「夏芽ちゃん。ごめんね、お待たせしちゃって」
彼女は私を見て、少し驚いたような顔をした。
「今日は浴衣なんだね」
「そう言うあずささんは、いつも通りの服だね」
「この年でさすがに浴衣は無理だよ。でも、夏芽ちゃん」
すごく似合ってる。突然そんなことを言われて、また自分の体が熱くなるのを感じた。
「……ありがと」
浴衣を買ってよかった、と心から思った。
お祭り会場は、たくさんの人でごった返していた。見渡す限りの人、人、人で、出店の方が覆い隠れてしまいそうなくらいだった。
追い風のように押し寄せてくる熱気に、息が詰まりそうになる。……暑い。
思わず私は、隣にいるあずささんの手を掴んでいた。彼女が私を見る。
「……はぐれないように。ダメ?」
彼女はやっぱり困ったように眉尻を下げて頷いた。手のひらがわずかに汗ばんでいて、それが私を安心させた。
「お祭りなんて、本当に久しぶりだなぁ」
並んでいる屋台を懐かしそうなまなざしで見つめながら、彼女が言う。さりげなく私は尋ねてみた。
「お祭りは、いつ以来なの?」
「そうだなぁ……高校以来かも」
高校以来。夫――あの男とも、きっと一緒に来ていないのだ。私は自分がにやけているのに気づいた。肌にまとわりつくような暑さも、歩くのを阻む人の群れも、全部どうでもよくなるくらい気分がよかった。
「あずささん、クレープ食べよう? 私のおごりだから」
「えっ、悪いよ」
「いいの。遠慮しないで」
奢られるのに慣れていないのか、あずささんは子供のようにたじたじになっていった。それを見て、私は更に上機嫌になる。
色々な出店を食べ歩き中、不意にドォン! と大きな音が鳴り響いた。空を見上げると、次々と花火が上がっていくのが見えた。
「ねえ、あれ見に行こうよ!」
「えっ、う、うん……」
あずささんの手を引いて、私は駆け出す。人混みをかき分け、前へ前へ。花火の音が、私の背中を押してくれているようだった。
やがて、河川敷の近くの開けた場所に出た。遮る物がなにもなく、舞い上がる花火がよく見える所だ。
「夏芽ちゃん……早いよ」
「ごめんね。つい」
「でも、夏芽ちゃんが楽しそうだね。そんな笑顔、初めて見た」
……笑顔? 知らないうちに、どうやら私を笑っていたようだ。意識せずに笑うことなんて、いつ以来だろうか。
きっと、「あの子」がいなくなって以来だ。
「……あのね、夏芽ちゃん」
ふとあずささんが、浴衣の袖を引っ張ってきた。彼女が口を開くと同時に大きな花火が上がり、何も聞き取れなかった。
「えっ? あずささん、何?」
「……ううん、何でもない」
彼女は花火に視線を移して誤魔化してしまう。別段大したことでもないのだろうと、私も聞き返せなかった。
また花火の破裂する大きな音が、鼓膜を揺らした。
「それで、お祭りには誰と行ったの?」
休日に、私は瑞香とショッピングモールに来ていた。彼女の服を見るのに付き合わされる形である。そんな中で、いきなり彼女はそんなことを聞いてきた。
「やっぱり彼氏?」
「だから、違うよ。そんなのいないってば」
ぼんやりとハンガーに掛かっている服を手に取りながら、私は適当に返事をする。
「でも夏芽、最近すごく明るくなった気がするんだよねぇ」
「そ、そうかな」
ぎくりとした。瑞香は意外と鋭い観察眼を持っているのだ。
「ほれほれ、そろそろ白状した方が身のためだよぉ?」
「だから……」
ふと向かい側のお店に目をやって、私はその場で固まってしまった。
あずささんがいた。彼女は隣にいる男の人と、楽しそうに何かを話していた。間違いない。宮原雄介。彼は、あずささんの夫だ。
あずささんは何かを手に取り、それを愛おしそうに眺めていた。全身の毛が逆立つような感覚が走る。彼女の手にあるものは、赤ちゃん用の服だったのだ。
「夏芽? どうしたの?」
瑞香の声も、もう耳に入らなかった。
あずささん、もしかして……?
笑い合っている二人を見て、目の前が真っ暗になっていくのを感じた。
私が小学生の時、お母さんが家を出ていった。何の前触れもなく、彼女は手紙一枚を残してどこかへ消えた。
「母親であることに疲れました」。手紙にはそれだけ書かれていた。幼いながらも、私は自分の状況を瞬時に理解した。
ああ、私、お母さんに捨てられたんだ。
お母さんの行き先をお父さんには尋ねなかった。お母さんがいなくなってから、彼は一度も彼女のことを口にしなかったし、第一、どこにいるのか知っているのかも怪しい。彼は他人に無関心だから。私のことだって、重荷以外の何者にも感じていないだろう。
それから私は、誰かと関わることが出来なくなってしまった。学校の教室でも、一人机の上に突っ伏していた。
本当は、みんなの輪の中に混じりたかった。他愛のないことでも、何でもいい。話がしたかった。私の手を握って、「辛いよね。もう大丈夫だよ」って慰めてほしかった。
でも、怖かったのだ。また、捨てられてしまうのが。
そして中学二年の時、「あの子」に出会った。
「あなたが、夏芽ちゃん? 変わった名前だから、どんな子かなぁって思ってたんだ」
そんな風に、彼女は私の元へとやってきた。最初は戸惑ったものの、段々と私は彼女に打ち解けていった。
彼女の周りには、友人がたくさんいた。瑞香も確か、その一員だった気がする。好奇心旺盛で、分け隔てなく誰とでも接する人だったからだ。事実、彼女の近くにいるのは心地よかった。いつまでも、一緒にいたいと思えるほど。
次第に私は、彼女に惹かれていった。その感情はもう、友人という枠を超えてしまう程のものだった。彼女を、独り占めしたい。他の人にはしないことを、私にしてほしい。そんな思考が、私を焦がれさせていく。
わかっている。これは私の、初恋だったのだ。
同じ高校に入ることが出来たら、彼女に告白しよう。そう決めた。
だから合格発表を見た次の日、彼女を呼びだした。
「夏芽、どうしたの?」
雪が降る広場に、彼女はほんのりと頬を赤くして現れた。私は自分の中からありったけの言葉を引っ張りだして、彼女に想いを伝えた。
答えは、やけにあっさりとしたものだった。
「いいよ。それじゃあ、付き合おうか」
そう言うと、彼女ははにかんで笑った。
「高校入学記念ってことで。女の子同士って、面白そうだしね」
その言葉に、少しでも違和感を覚えればよかったのに、当時の私は受け入れられた興奮で頭が真っ白だったのだ。
そんな流れで、私たちは恋人同士の関係になった。学校では、瑞香を含めて仲のいい友達を続けていた。時々瑞香に、「二人仲いいよねぇ」などと言われると、私は気を良くしたものだ。
二人でいろんな場所へ行った。普通のカップルが行くような、ショッピング、映画、ゲームセンター。全て、彼女の案内だ。
土日は用事があるからと、デートは平日であまり時間はなかったが、楽しかった。彼女と一緒にいると、自分でも驚くくらい私は笑っているのだ。
キスも、そしてセックスも、彼女から教わった。
彼女は慣れた様子で私に口づけして舌を入れ、体に触った。好きな人に触れられるということは、こんなに気持ちがいいことなのかと驚いた。
「誰かと経験あるの?」
そう尋ねると、彼女は大抵にこりとして
「何で?」
と誤魔化してしまう。誰にでも秘密にしたいことはあるだろうと、私も気にしないようにした。
きっと私は、それなりに幸せだったのだろう。何も知らずに、能天気な私はずっとそんな風に思っていた。
彼女が消えたのは、今年の五月のことだった。
突然連絡が取れなくなって、学校にも来なくなった。瑞香に聞いてみても、わからないと首を振る。
どうしたのだろうと心配していると、すぐに噂が学校中に流れ始めた。それは、彼女に関することだった。
「あいつ、誰かの子供出来て学校辞めたらしいよ」
信じられなかった。所詮噂だと切り捨てることも出来たが、事実、彼女は学校に来ていないのだ。彼女の家を訪ねたが、売りに出されていて驚愕した。
何のことはない。私と会わない土日に、彼女は男と会っていたのだ。どこの誰ともしれないその男に、彼女は私にしたことと同じことをしたに違いない。デートをした場所も、キスも、セックスも、全部男から教わっただけ。
私はまた、捨てられた。いや、始めから彼女には男がいたのだ。
『女の子同士って、面白そうだしね』
彼女はただ好奇心で、私と遊んでいただけなのだろう。真実はわからないが、きっとそういうことなのだ。
一気に奈落につき落とされた私は、抜け殻になってしまった。瑞香が元気づけようとしてくれたが、それに応じる気力も失っていた。
結局私は、お母さんに捨てられた時の私に戻ってしまったのだ。
そんな私に無関心なお父さんと同じ空間にいるのも苦痛で、夜はよく外へふらふら出掛けた。どこまで歩いても、私はどこへも行けなかった。「あの子」のにっこりとした笑顔が、ずっと頭の中で繰り返し再生されていたから。
そんな折りに、私はあずささんと出会ったのだ。
あずささんからは、私と同じ孤独を感じられた。ああ、この人もひとりぼっちなんだと思った。
身近にいる夫と疎遠になっていく苦しみ。彼女は私と同じだと、そう思っていたのに。
どいつもこいつも。全身の血が煮えくり返るくらいの、怒りが込み上がってくる。
そうやって簡単に、私を裏切るんだ。
むかつく。むかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくっ!!
「夏芽、大丈夫?」
瑞香が隣にいた。帰りのホームルームが終わったらしい。
「顔色、すごく悪いよ。昨日だって、様子がおかしかったし」
「平気。何でもないから」
それじゃ、私帰る。鞄を掴んで、教室を出た。瑞香の視線が背中に張り付いていたが、無視する。
私の足は、ただあずささんの家に向かって進んでいた。
インターホンを鳴らす。私はじっとそこに付いたカメラのレンズを睨んでいた。少ししてから鍵が開く音がして、扉の中からあずささんが現れる。
「……夏芽ちゃん」
彼女は相変わらず困ったような表情で、私を出迎えた。
「何か飲む? お茶かサイダーくらいしかないけれど」
居間に通され、彼女は冷蔵庫の中を探りながらそう聞いてきた。何一つ変わらない、今までと同じ時間。……昨日までは。
私は一つ深呼吸をして、口を開いた。
「……子供が出来たの?」
彼女の背中が、びくっと反応した。それはほとんど肯定と言ってもいいくらいだった。
「な、夏芽ちゃん。私たち、もう会うの、やめよう……?」
こちらを振り返らないまま、彼女は言った。
「その……ごめんね? 夏芽ちゃんには言わなくちゃいけないと思ってたんだけど、でも……」
「聞きたくないっ!」
私の大きな声に、彼女が身を竦ませる。構わずに続けた。
「何それ。子供が出来て男と仲直りしたら、私はもう邪魔者なわけ? 都合悪くなったらそうやって投げ出すんだ?」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「うるさいっ!」
私は激情のまま彼女に詰めより、床に押し倒した。そのまま四つん這いになって、彼女に覆い被さる。
「ねえ、あずささん。私はあなたにとって、何なの?」
その場しのぎの嘘でも、何でもいい。その問いに答えが欲しかった。それだけで、それだけでよかったのに。
「それは……」
だけどあずささんは答えられなかった。それが答えだ。
私はあずささんにとって、何でもないどうでもいい存在。
私は震える手でキッチンから包丁を取り、彼女に向けた。自分でもどうしていいかわからなくて、とにかく夢中だった。
自分に向けられた刃先を見て、あずささんの顔色が変わった。
「な、夏芽ちゃん……お願い、やめて」
戸惑いと恐怖に満ちた瞳が、私を見上げている。私の体は壊れかけた機械のようにぶるぶると震えていた。それでも、包丁は離さない。
「お願い夏芽ちゃん。あの人の子供を産みたいの」
彼女はお腹を両手で庇った。まるでこれから生まれてくる自分の子供を、必死に守ろうとするみたいに。全身を、雷に打たれたような気がした。
彼女はもう、母親なんだ。力が抜けて、指の間から包丁が滑り落ちた。間の抜けた音を立てて、床の上を転がっていく。
やっぱりあなたは、と思う。私だけの存在には、なってくれないんだね。
立ち上がって、玄関に向かう。さっきまで私を衝き動かしていた炎は消沈して、後にはくすぶった想いしか残っていなかった。もう、どうでもいい。どうにでもなれ。
「夏芽ちゃん……」
あずささんが私を呼んだが、振り返らなかった。靴を履いて、扉に手をかける。
「……その子は、捨てないでね」
そう言って、私は家を出た。いつも通っていたこのマンションも、今はどこかの見知らぬ異国のようだ。
もう二度と、ここに来ることもないだろう。
不思議と、何も感じなかった。
また、振り出しだ。既に暗くなった住宅街を、私は力なく歩いていた。
何がいけなかったのだろう。どうすれば私は、ずっと彼女といられたのだろうか。
いや、最初からそんな可能性はなかった。彼女には男がいる。それを最初からわかっていたくせに、彼女に惹かれてしまった自分がいけないのだ。自分の愚かさが可笑しくて、卑屈な笑みが浮かんだ。
「……夏芽」
不意に声をかけられて顔を上げると、正面に瑞香が立っていた。
「ひどい顔、してるね」
私の頬を包み込んで、彼女は控えめに笑いかけてきた。
その笑顔が、頬に触れた手のひらが、あまりにも温かすぎて。
気が付けば、私は泣いていた。大粒の涙を流し、大きな声を赤ん坊のように張り上げて。
「……落ち着いた?」
児童公園のベンチに、私たちは並んで腰掛けている。私が泣いている間、瑞香はずっと私の肩を抱いていてくれた。
「……うん、もう平気。ありがと」
私は彼女が買ってくれた缶ジュースをすすりながら答えた。果汁の甘みが、体中に染み渡ってくる。
瑞香は私をちらりと見て、それから曇って星のない夜空を見上げて言った。
「ごめん。今日、夏芽の様子がおかしかったから、後を付けてたの。そうしたら知らない女の人の家に入っていくから、びっくりしちゃった」
「……そっか」
「あの人と夏芽は、どういう関係なの?」
私は何と答えればいいか迷った。彼女のことをどうやって説明すればいいかよくわからなかったからだ。すると瑞香が再び口を開いた。
「実は私ね、薄々気づいてた。夏芽、『あの子』と付き合ってたでしょう」
驚いた。瑞香は、気づいていたのだ。
「わかるよ。『あの子』がいなくなった時のあんた、普通じゃないくらい落ち込んでたからさ。最近、ようやく元気になってきたから、また誰かと付き合いだしたのかと思ってたけど……」
少しだけ言いにくそうに、彼女は続ける。
「……あの女の人と、そういう関係だったの?」
ちょっと考えてから、私は頷いた。今更、隠しても仕方ない。
「でもあの人、既婚者なんでしょう? 表札が二つあったの見たし、片方は男の人の名前だった」
「……いいの。もうおそらく会うことはないだろうから」
「別れたの?」
「おおまかに言えば……そうかな」
「……そっか」
しばらく沈黙が続いた。じっと足下を睨んでいる瑞香は、何か悩んでいるようだったが、やがて顔を上げて私をまっすぐ見た。
「……私じゃ、駄目かな。夏芽」
「えっ?」
「私、ずっと夏芽のこと……好きだったの」
一瞬、何を言われているかわからなかった。それくらい意外だったのだ。
瑞香が、私のことを好きだった?
気づかなかった。長い間、ずっと彼女の近くにいたのに。
ぽろりと、枯れたはずの涙が。私の頬を伝って、地面を濡らした。
「夏芽……?」
そうか、そうだったんだ。これまでずっと手に入らなかったものは、求めていたものは、こんなにも近いところにあったんだ。灯台もと暗しも、いいところだ。
「ごめんね。……嬉しくて」
涙を拭って、私は彼女の手を取った。
「私の傍に、いてくれる?」
そう尋ねると、彼女の表情はほんのりと明るくなり、私の手を握り返してくれた。
「うん」
その時の彼女の満面の笑みは、誰よりも愛らしくて。
私も思わず、笑い返してしまった。




