しょうもな比呂ちゃん①
◇
比呂の心中で嵐が吹き荒れていた。
ここで歳三との関係を進めるのだという強い思いが風を巻き起こしている。
歳三の言葉に対する安心感と、そこに依存しすぎてしまっている事への危機感、etc……
しかしそんな迷いに満ちた心の中でも、一つだけ確かなことがあった。
自分は歳三を失いたくない、彼のそばにいたいという強烈な願望だ。
そのためにはもう一歩踏み出して目の前に横たわる崖を飛び越えるしかない。
立ち止まっている事も出来ない。
これ以上そこに留まっていれば、吹き付ける風に薙ぎ斃され、二度と立ち上がる事ができないだろう。
しかし向こう側の崖がどれくらいの距離にあるかは分からない。
先に足場がある事だけは分かっている。
飛んでみれば案外すんなり着地出来るかもしれない。
あるいは、深い崖の底にただただ落ちていくだけかもしれない──つまり、一か八か。
危うい賭けかもしれないが、待っているだけでは何も変わらない。
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「僕の家に来てください」と誘いをかけた時、比呂はもう二度と引き返せない一線を越えた感覚があった。
《あらゆる意味で》一線を越えるのだという覚悟が完了した。
もし失敗──つまり、歳三に拒否されたとしても、何も行動しないよりはずっと良い。
何もせずに後悔するよりは行動して失敗する方が納得できる。
──モンスターと戦う方が全然気楽だなぁ
比呂はそんな事を思いながら歳三と駅に向かう。
「ギャハハ! 今度アキバのダンジョンいこうぜ! オナホダンジョン!」
知能指数か偏差値のどちらか、あるいは双方が20程度に見える若い男が、鞘に収まったままの長刀を振り回しながら歩いている。
驚くべきことに女連れだ。
「えー、としくんえっち! ……って、私の事殺す気!? 私全然等級足りないよ!」
道を行くバカップルの会話がやけに気に障るどころか、殺意さえも抱いてしまう。
──人の気も知らないで……
比呂は歳三との年齢差に不安があった。
歳三は言うまでもなく比呂よりも年上だ。
比呂自身は構わない、しかし歳三が年下を好きではないかもしれないし、そもそも既に恋人がいるのではないかという不安が胸を締め付ける。
──そもそも、僕は歳三さんのプライベートをほとんど知らない……
この不明は比呂をさらに不安定にさせた。
年齢差は恋愛においてそれほど大きな障害にはならないと言われることもあるが、比呂にとってそれは現実的な問題だった。
自分はまだ若く、経験もない。
歳三のような大人の男性に対して、何か特別な魅力を感じさせられる自信がない。
──歳三さんには僕がどう映っているんだろう。歳三さんの周りにはもっと大人な人がいるんだろうし……
さらに歳三には既に恋人がいるかもしれないという恐れもあった。
──ティアラさんとか怪しいとおもう!
ティアラの肉感的なフォルムをうらやましいと思う気持ちはない。
しかし、探索者が良い武器を羨むような気持ちで、その大きい胸やくびれた腰、肉感的な尻があればと思う気持ちはある。
なぜならそれを以て歳三を陥落せしめる事が出来るかもしれないからだ。
やる! やる! やる!
かつてないヤる気が比呂の中で燃え上っている。
◇
電車はいくつか乗り換え、その間比呂と歳三は愚にもつかない雑談を交わしたが、比呂は内容を殆ど覚えていない。
まあ歳三も他人との会話能力はゴミカスみたいなものなので、ハリボテのコミュニケーションは辛うじて成立してはいたが。
小市民感溢れる素朴な世田谷駅を降りて暫く歩き、閑静な住宅街を抜けると比呂の家が見えてくる。
白い外壁が目立つ方形の、なんというかデザイナーズハウスのような風情の洒落た建物だった。
それを見た歳三は、家というよりは基地を連想する。
歳三はそんな家の前で一瞬立ち止まり、馬鹿みたいに口を少しあけて家を見上げていた。
「どうでしょう? 夜は静かだし、ダンジョンや駅へのアクセスも良いから結構住みやすいですよ」
「そう、だな……住みやすそう……」
歳三の口ぶりはおぼつかない。
これが "家" だとするなら、これまで住んでいたマンションは一体なんだったのかという思いで一杯だった。
比呂が言い、外門を開ける。
家の内部は外観の豪華さに負けず劣らず美しく整えられていた。
広々とした玄関ホールには高級そうな家具が並び、壁には絵画がいくつか飾られている。
歳三の前住居の玄関ときたら、煙草の吸殻さえも落ちているゴミ溜めだ。
玄関を抜けて通路を少し進めば次はリビング。
「ぬっ」
この広さにも歳三は度肝を抜かれ、思わず呻いてしまった。
リビングルーム一つで、歳三の部屋が4つは収まるだろう。
中心には重厚感のあるダークブラウンのローテーブルが堂々と置かれ、その周りには柔らかそうなアイボリーの革張りのソファがゆったりと配置されている。
「おお……」
歳三はオオだのアアだの声をあげるばかりで、他に語彙が見当たらない。
比呂は照れくさそうに笑って言った。
「慣れちゃうと広さなんて気にならないんですけどね。あ、座ってゆっくりしてください」
比呂が促すと、歳三はそっとソファに腰を下ろす。
柔らかく身体を包み込むような座り心地は歳三がこれまで経験したことのないものだった。
比呂はキッチンへと向かい、棚からグラスを取り出した。
奥に見えるキッチンもまた、リビングと同様に広々としており、真っ白な大理石のカウンターが一際目を引く。
「何か飲みますか? ええと……」
巨大な冷蔵庫を覗き込みながら、比呂はドリンクの種類を挙げていく。
ドリンクはボトルに収められているのだが、これは一般人向けのものとは違って、完全密封と素材由来の保存効果で最大1年は品質を維持できる。
ボトル一本8万円程するが、比呂の稼ぎからすればどうという事はない。
「え~と……ミネラルウォーター、スポーツドリンク、オレンジジュース、コーヒー、紅茶、ノンアルコールビール、クラフトビール……かな? もし何か別のものが飲みたければデリバリーを頼みますけど」
「あ、ああ……。いや、俺はなんでも……んっ、んん。そうだな、ええとコーヒーがいいかな」
何でもいいという返答は不味い──歳三は咄嗟に以前読んだコミュ本に書かれていたことを思い出した。
ややあって比呂は歳三の目にも上等だと分かるグラスにコーヒーを注いで持ってきて──ほんの一瞬真顔を浮かべたかと思うと、まるで一世一代の決心をするような風情で歳三の隣に腰を下ろす。
◇
「歳三さんに逢いたかったんです」
比呂はのっけから爆発物──手りゅう弾を放り投げた。
「あ、ああ。そうかい、それはまあ、そうか……」
歳三の辞書にこの言に対する正答は書かれていない。
というか、何もかもが良く分からなかった。
なぜ比呂が向かいのソファが空いているというのに隣に座ったのか、なぜ逢いたかったと言い出したのか、自分に何と答えてほしいのか。
この妙な緊張感は一体何なのか。
歳三はふと、初めて緊急地震速報のアラームを聴いた時の事を思い出した。
ビイビイと、不安を掻き立てる様な高い音は、それが何を意味する音なのか理解していなかった歳三にでさえも "これは良くない音だ、危険な音だ" といった感を覚えさせた。
雰囲気で、調子で、物事の本質を掴むという事は往々にしてある。
「何を、考えているンですかい?」
歳三は恐る恐る尋ねてみた。
何事もホウレンソウだ。
分からなければ聞く──今回はソウ談である。
比呂はふぅと吐息を一つ漏らし、歳三を見つめて答えた。
「何を、考えているか当ててみてください」
そうして、比呂の上半身が段々と歳三の方へ──




