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昼になる前に目覚めたイザンバはいつものようにシャスティとケイト、ヴィーシャとジオーネに身の回りの世話をされながら自身の異変に気付いた。
「んん?」
「どうかされましたか? もしかして痛かったですか?」
髪を梳かしながらシャスティが尋ねる。その表情は不安げでイザンバはそうではない、と明るく否定した。
「あ、それは大丈夫です。ただ……寝たのに魔力の回復が遅いって言うか、なんか退魔の呪文を使った時みたいにごっそり減ってるなぁって思って」
掌を見つめながらなんでだろう、とイザンバは首を傾げる。同じく首を傾げたシャスティがハッとしたように声を上げた。
「まさか、お嬢様……寝ながら退魔をされていたんですか?」
「えー。そんな夢遊病みたいなことしてないですけど……それに昨夜は来る数もだいぶ減ってたし、深夜は過ぎていたけれどいつもより早く休んだし」
「それならよろしいですが、本っ当に迷惑な話ですよね! 振られた腹いせにお嬢様に向かって呪いを放つなんて!」
だがシャスティの立腹の理由はそれだけではない。
「それにせっかく整えたお肌のコンディションが呪いなんかのせいで乱されるなんて! 許すまじ!」
そう言うと思った、とイザンバは苦笑する。ここ暫くは呪いがやってくるお陰ですっかり昼夜逆転してしまっているのだから。
だが、その呪いも初日ほどの数は来なくなった。
——呪いを返されて、諦めて終わりだったらいいけど。
気になることがあってもコージャイサンは忙しいのか連絡がない。
ヴィーシャたちに聞けることも当たり障りのないものでイザンバに出来る事すらも限られている。
やって来る呪いを祓い、ただただ彼の、周囲の人々の無事を祈る日々。
ぼんやりと鏡を見ているとケイトがひょっこりと鏡越しに視界に入ってきた。
「私たちにまでお守り作ってくださってありがとうございますー。今もちゃんと持ってますよー」
「みんなに被害がいってないなら良かったです。私じゃ全員を守り切るのは難しいから」
「だからって無理はダメですよー。お嬢様が倒れたら私たちも悲しいですー。ねぇ、ジオーネさん」
ケイトが揺らして見せたのはイザンバ特製のイニシャルを刺繍したお守り。
それは古からある手法。持ち主の無事を願い、ひと針ひと針に聖なる炎を含んだ魔力を込めて作ったもの。
まぁ、あの人の分、この人の分と布と糸の色を変えて作っては気絶を繰り返したのだからケイトの心配ももっともで。
話を振られたジオーネは頷きを返す。
「そうだな。お嬢様の気遣いは大変有り難いものですがどうか御身への気遣いもしてください。魔力回復薬を飲まれますか?」
「ありがとう。減っているって言っても半分くらいだし、今はいいです」
「分かりました。いつでもお申し付けください」
そう言って谷間にしまった。その様子に「そこにしまうんだ」とイザンバとシャスティは揃って感心してしまう。
そこへヴィーシャから告げられる本日の重要事項。
「お嬢様、早朝にリアンが連絡にきました。本日の午後、ご主人様がお見えになります」
婚約者訪問の連絡に部屋に走る激震。イザンバは現在時刻を確認するとヴィーシャへと向き直る。
「え!? 午後ってもう時間がありませんけど!?」
「最近のお嬢様のリズムは伝えてありますから大丈夫です。女の支度には時間がかかるもんやとも言うときましたし、あと三時間はあります。シャスティ、頼むで」
急ではあるがイザンバが準備する時間は確保しているとの事。やはり出来る女である。
しかし、部屋の中はにわかに騒がしくなった。やれお洋服の選び直しだ、やれお飾りの選び直しだと動きが変わる。
おめかしのご指名を受けたシャスティは張り切った。
「はい! お嬢様、婚約者様の為に可愛くしましょうね!」
「……いえ、そこはいつも通りで」
「分かりました! いつも通り可愛くします!」
「あー、はい。お任せしまーす」
諦めたようなイザンバの声は果たしてシャスティに届いているのか。もはや彼女はまな板の鯉である。
そこへジオーネが選び直した服を持ってきた。
「お嬢様、お召し物はこちらでどうでしょう?」
「その服なら髪は編み込みのハーフアップで毛先を軽く巻きましょう!」
「仰せのままにー」
ジオーネの手には露出を感じさせないがデコルテも美しく見せるスリットブイネックの深みのあるグリーンのワンピース。
特にこだわりがないイザンバはシャスティの提案にも勧められるがままに頷いた。決して投げやりなわけではない。決して。
「お嬢様、お迎えの際にウチは少し外します。シャスティも連れて行ってよろしいですか?」
ところがここでヴィーシャからの珍しい申し出。もちろんイザンバは快諾する。
「シャスティも? いいですよ」
「ありがとうございます。ケイト、悪いけど今回はお茶だけ用意して外してくれる?」
「分かりましたー」
「おおきに」
ヴィーシャはケイトに礼を言うと賑やかな準備の輪に混ざった。
そして、三時間後。サロンでジオーネと他愛無い話をしていると、イルシーとファウストを連れたコージャイサンがやって来た。
「いらっしゃいませ、コージー様。今日はどうされ……」
淑女の礼をしながら紡いだ出迎えの言葉は最後まで言えなかった。
長い足で一気に距離を詰めたコージャイサンがイザンバを抱きしめたから。
「え?」
ギュッと強く、まるでその存在を確かめるように。
「コージー様……?」
ギュッと強く、まるで甘え縋るように。
首筋に顔を埋め、いつにない力強さで抱きしめる彼にイザンバは戸惑った。
「……——ザナ……ッ」
だが、問いかけに返されたのは絞り出したような声。たった一言にどれだけの想いが込められたのか。
痛いくらいの抱擁に……
——何かあったの? と尋ねるよりも
——どうしちゃったの? と軽口を叩くよりも
イザンバはその背中に腕を回した。
「コージー様」
彼女の声が穏やかに告げる。ここにいるよ、と。
心臓の音に合わせるように彼の背中をポンポンと優しくたたいた。それはあやすように、落ち着かせるように。
「たくさん頑張ったんですね。えらいえらい」
そして、かけられる労りの言葉。
この六日間、イザンバの所に押し寄せた呪いよりも厄介なものが来ていたのだろう、と詳しい事はまだ分からなくても滅多にない彼の姿に察する事はできる。
一定のリズムが耳に届く。ポン、ポン、ポン、と。
だが、緩むことのない腕の力に震えを感じて——イザンバも堪らずにギュッと抱きしめ返した。
その行動にコージャイサンの胸に巣食っていたモノが解けて、溶けて、融けて。
声が聞こえるだけでは物足りない。
——香りに、心音に、安心感を得る
姿が見えるだけでは満たされない。
——密着感が確かに存在を伝える
炎ではあの温もりにはなり得ない
——渇望した温もりがここにある
愛しい人がそばにいるその幸福感たるや比べようがない。
目覚めたばかりで我を通した彼の姿に、どんな状態でも受け止める彼女の姿に、壁際で控えていた従者たちはやれやれと安心したようにそっと目を逸らした。
暫くそうして抱き合っていたが、流石に出会い頭からのこれは恥ずかしい、と冷静になり始めたイザンバは思う。
従者達もいる事を思い出した彼女は少しだけ、本当に少しだけ腕の中の居心地が悪くなったようだ。
もぞもぞと動き出した彼女の首筋を頬で一撫でしてからコージャイサンがその密着を解いた。
とは言ってもコージャイサンの手は彼女の背中から腰に移動し体を離す様子はない。少しだけ離れてお互いの顔が見えるようになっただけだ。
イザンバが見上げると向けられるのは蕩けた翡翠。頬を熱くしながらヘーゼルの瞳が揺れた。
「コージー様、おかえりなさい」
それはいつも通りの迎えの言葉。
その言葉にコージャイサンが顔を近づけた。コツン、とくっついたのは二人の額。
「ああ……ただいま」
二人は額を合わせたまま、どこかくすぐったそうに微笑みを交わす。
コージャイサンが至近距離で見たヘーゼルアイはまるで翡翠の色を移したようで。それはイザンバさえもまだ知らない彼だけが見られる秘密の色。
その色をいつまでも眺めていたかったが、先に羞恥の限界が来たのかイザンバが瞳を隠すように伏せた。
「あの、立ちっぱなしなのもなんですし、とりあえず座りませんか?」
「ん」
返事はしたが彼の動きは鈍い。仕方なしにイザンバがその手を引いて上座のソファーへと誘導した。
ところが、対面に移動しようと背を向けると不意にイザンバの腰がグイっと後ろへと引っ張られた。踏ん張る事ができずにそのままストンと腰を下ろせば間近にある麗しい顔。
「え?」
「うわぁ……」
「むむ」
さて、異様ともいえるこの光景。従者たちの口からも驚きの声が漏れるほどだ。もちろんイザンバからも。
「ん?」
首を傾げ、自分の座っている位置を確認した。本来ならば対面の柔らかいソファーに腰掛けているはずなのだ。だが、今腰掛けているのはコージャイサンの膝の上。
「いやいやいやいや! 私自分で座れますけど!?」
遅れて情報処理が追いついたイザンバから上がる抗議の声。
しかし、何と言う事でしょう。立ちあがろうとする腰をコージャイサンの手が易々と押さえつけて離れる事が叶わない。
足掻くイザンバの腰に右手を添えたまま、頬へと向かって左手を滑らせるとコージャイサンは軽く眉間に皺を寄せた。
「ザナ、魔力が足りてないようだが」
「そんな事まで分かっちゃうの!? その前に離してー!」
「回復薬が足りなかったか? それに少し痩せたな」
「それは十分すぎるほどに足りてますけど! 痩せたって言うならコージー様の方でしょう!?」
少し厳しい目を向けられてコージャイサンは目を見張った。彼の肩に手を置いて覗き込むヘーゼルがその変化を探す。
「痩せたっていうよりも窶れましたね。隈は出来てないから徹夜はしてなさそうだけど、ちゃんとご飯食べてますか? 会いに来てくださったのは嬉しいです。けど無理はダメですよ。具合が悪いならお医者様に診ていただきましょう?」
咎めるような表情、心配そうな声音なのに、どうしてかコージャイサンの頬は緩んでしょうがない。
「大丈夫だ。ここに来る前に医者には診てもらった。なんの異常もない」
「本当に?」
それはもう従者たちが納得するまでみっっっちりと診察を受けたのだから。
幸いにも心身に異常はなく、無事だったことが何よりも重畳。オンヘイ公爵夫妻も息子の帰還を喜んだ。まぁ父子はすぐに仕事の話になったのでセレスティアが呆れていたが。
「ああ。仕事に追われて食べる暇がなかっただけだ」
「それなら小腹を満たすものを用意してもらいましょうか」
「心配しなくてもここに来る前にちゃんと食べた」
「そうですか……大変なお仕事だったんですね。お疲れ様です」
そう言って今度はよしよし、と頭を撫でる。
イザンバは指通りのいい髪の感触に、コージャイサンは撫でられる心地よさに、目を細めた。
そんな二人のやり取りを見ていた従者たち。
「ほら見ろ。やっぱ気付かれた」
それ見た事か、と鼻を鳴らすイルシー。
「主の変化は傍目には分かり難いというのに……流石です、イザンバ様」
見抜き労わる姿に感服するファウスト。
「それを言うならご主人様もだぞ。今のお嬢様は魔力が半減している状態だからな」
さらに分かり難いものを見抜いた主を持ち上げるジオーネ。
その言葉にイルシーは口元で呆れを作る。
「あ? また護符だのなんだの作ってたのかぁ?」
「違う。気付かれたのは起きてすぐだ。眠っていたのに退魔の呪文を使った後のように魔力がごっそりとなくなっていたそうだ」
「それは……イルシー、もしや……」
ジオーネの言葉にファウストも考え込んだ。
水を向けられたイルシーの脳裏に過るのはコージャイサンが目覚めた直後の光景。
「そうだろなぁ。……ったく、どっちも無茶するぜぇ」
「なんだ、心当たりがあるのか?」
「ああ……まぁなぁ」
ジオーネの問いに答えはしないが、呆れたような羨むようなイルシーの声音にファウストも同じく肩をすくめた。
さて、つい頭を撫でてほっこりとしていたイザンバだが、従者たちの声に今どこに座っているのかを思い出した。手で顔を覆ってコージャイサンに懇願する。
「ねぇ、みんなが見てるから…… ほんと降ろして。恥ずか死ぬ」
「まだザナが足りないから無理」
「私は栄養素じゃありません!」
「俺にとっては欠かせないものだ」
「おぐっふ……」
あまりにも淡々と、けれどもとろりとした甘い笑みを添えて言うものだから、これはもう避けようがない。
イザンバの隠しきれない耳の赤さに、満足そうに顔を綻ばせるとコージャイサンがその首筋に顔を埋めた。




