1
追憶
いよいよ月が昇るのも遅くなったある夜。
イザンバは白い静寂の中にいた。そこは心細さを感じないほどに温かく、明るい日差しが差し込むような空間で、白いワンピースに身を包んだ彼女はただ静かに、ただ穏やかに揺蕩う。
唐突に、目の前に景色が広がった。
見慣れたその景色は、八年の間に何度も足を踏み入れた婚約者の邸の庭園だ。
——これは夢だ。
イザンバがそう理解できたのは、目に入った婚約者の姿が今よりもずっと幼い姿だから。
懐かしい姿に頬を緩め、彼女は傍観の姿勢をとった。ふわりふわりと漂うように、そっと風景に溶け込むように。
その日はコージャイサンの婚約者を選定するためにオンヘイ公爵邸でお茶会が開かれていた。
十歳と言えどコージャイサンが母から受け継いだ美貌は確かなもので。一通り招待客への挨拶が終わるや否や主催者側の美少年はガッツ溢れる多くの令嬢に囲まれていた。
けれども媚び諂う大人と擦り寄ろうとする令嬢を眺める瞳がどうにも冷めていると言うことに一体何人が気付いているのだろうか。
オンヘイ公爵夫妻は当然それに気付いており、さて息子の眼鏡にかなう人物はいるのか、とあえての放置で人々の間を回る。
——うわー、公爵家の子って大変だなぁ。頑張れー。
つまらなさそうな表情を覗かせる公爵令息に対して招待客の一人であるイザンバは完全に他人事でそう思うと、心の中でだけエールを送りその場を離れた。
早々に戦線離脱したイザンバが足を進めれば美しく整えられた広い庭。丁寧に世話をされているであろう草木に顔を綻ばせ、庭師らしき老人に出会い、その腕に感嘆すれば小さな即席ブーケを作ってくれた。
その手際の良さに、その可愛らしさに、また感動して感謝を伝えて歩を進めると木々に囲まれた小さな泉に辿り着いた。
深さはないが透き通った水に、清涼な空気。小鳥の囀りに耳を傾けて癒されていたが、その場合は足を止めるべきであったとイザンバはのちに後悔することとなる。
「わっ……!」
自然と一体化したつもりになって歩いていたものだから足元への注意が疎かになっていた。小石に蹴つまずき、手を離れたブーケは弧を描くと——ポチャン、と耳に届くは非情な水音。
「えぇぇ、せっかく貰ったのに……どうしよう」
手を伸ばしても届かない位置で着水したブーケ。長めの木の棒でも落ちてないかと探すが、ここも庭師が整えた場。引き寄せる手段も見つけられずにいると束ねているリボンが水を含み見る見る間にブーケが沈んでいく。
それに比例してイザンバの表情も沈んでいく。
「大丈夫ですか?」
どうすることもできずがっかりと項垂れていると声を掛けられた。
振り向けば少し離れた位置に立つ翡翠の瞳の美少年。
「あまり覗き込むと危ないですよ。気分が優れないのなら侍女を呼びましょう。私はコージャイサン・オンヘイ。この家の者です。ご令嬢、お名前を伺っても?」
丁寧な、けれど踏み込まないように距離を取ったまま投げかけられた気遣いの言葉。
わざわざ名乗ってくれたが、招待されている身なのだから彼が誰なのか当然知っている。イザンバは今一度家で何度も練習をした淑女の礼を披露することとなった。
「お気遣いありがとうございます。オルディ・クタオ伯爵が娘、イザンバと申します。お庭がとても綺麗でしたので少し散歩をしてたのですが……もしかして、こちらには来てはいけませんでしたか?」
「そんなことはありません。気に入っていただけたのなら庭師も喜びます」
その言葉にイザンバがホッと息をついた。
令嬢たちの熱気の中心にいた彼がここに来た理由への憶測を立て、憩いの場に居合わせて申し訳ないと思いながらもまたチラリと泉へ視線を戻す。
「泉に何か?」
「えっと、先ほど庭師の方からいただいたブーケを落としてしまって……」
つられて見れば水底に沈む一つのブーケ。
イザンバの視線は変わらずブーケに向けられており、下がった眉が己の不注意さを悔いているようで。
コージャイサンは少しだけ考える素振りを見せた後、またブーケに目を向けた。
すると、突然水中に流れが生まれるではないか。
「あっ!」
驚いたイザンバがコージャイサンの方を見れば、彼が展開した術式によって生まれた水流に乗ってブーケはゆらゆらと水面に向かってきたのである。
「これで取れますか?」
「ありがとうございます!」
「いえ、大した事ではないので」
思わず尊敬の目をコージャイサンに向けたが、彼はどこか一線を引いたような態度のまま。
——主催者側だから仕方なくって感じかな。お疲れ様でーす。
特段関わりを深めたいわけではないイザンバはそれ以上言葉を重ねず、水面に届いたブーケに自ら手を伸ばした。
嬉しそうにブーケを拾い上げると、ふと一部の花が揺れた。なんだろう、と覗いてみるとそこからひょっこりと顔を出した小さな緑色の生き物。
「あ、蛙」
蛙はイザンバの方を見るとケロケロと喉を鳴らす。その様子にイザンバは悲鳴をあげるどころか、可愛らしいと表情がほっこり緩んだ。
突然目の前に現れた、けれども敵意の無い相手に蛙は興味をなくしたようだ。ところが、もう一つの気配へ体を向けると、イケメンミッケ! とばかりに大ジャンプをかますではないか。
そして見事、顔面に着地!
ひんやりと冷たくなったのは蛙が着地した彼の鼻先か、それとも蛙が潜んでいたブーケを持った彼女の背筋か。
先に動いたのは——イザンバだ。
「嘘でしょ⁉︎ ちょっと失礼します!」
ブーケを素早く足元に置くとグッと手を伸ばし、蛙を引っ剥がすように手の中に収めると呆然とする彼に慌てた様子で詰め寄った。
「大丈夫ですか⁉︎ 目! 目は無事ですか⁉︎」
「え、はい」
「すぐに顔を洗ってください! このこは小さい種類ですが蛙の分泌液には毒性があります! 目に入っていたら最悪の場合失明してしまいます!」
「落ち着いてください」
ところがイザンバが一人焦るばかりでコージャイサンは平然としたままだ。むしろ彼がイザンバの方を宥めているのだから解せぬ。
「なんでそんなに落ち着いてるんですか⁉︎ 失明するかもって言ってるじゃないですか! 分かってますか⁉︎」
「大丈夫です。それが着地したのは鼻先ですし。ほら、顔も洗います」
そう言ってコージャイサンは術式でサッと顔を清めてしまうではないか。
同じ『水を出す』でもバケツに溜めるように出すのと、分散しないように空中で球体状を保つのでは難易度が違う。
その水球がさらに変形して綺麗な流れを生み出し彼の顔を清めていく——まるで神話の一幕に出てくる小さな龍のように。
イザンバに出来ない事をあまりにもなんなくやってしまうものだから今度は彼女の方が驚き固まる番となった。
「え、すご…………失礼しました。慌ててしまいとんだご無礼を」
けれどもいつまでも固まっていられない。イザンバは蛙を持ったまま二歩、三歩と後退しコージャイサンと距離を取ると無礼を詫びた。
蛙に関しては不可抗力だが、イザンバの胸中は大荒れだ。
——お父様、お母様、お兄様。ごめんなさい。
婚約者に選ばれたいとは微塵も思っていなかったが爪弾き確定事項も望んでいなかった。
しがない伯爵家の娘が公爵家のご子息に不愉快な思いをさせてしまったのだからどんな罰が下るのかと、早くも胃が痛い。
暫く頭を下げていると、平坦な声が耳に届いた。
「お気になさらず。それ、毒があると言うなら離した方がいいのでは?」
「いえ、実はさっきからそちらに行こうとまだピョンピョンしてるのでもう少し捕まえておきます。それに毒と言っても目に入らなければいいだけで、手は洗えば大丈夫ですから」
「そうですか」
なんと! 蛙はまだ彼を諦めていないというのだからとんだ執念だ。そんな状態ではイザンバとしても離すに離せないのだが、どういうわけかコージャイサンも立ち去る気配がない。
落ちる沈黙に耐えきれず、イザンバが口を開いた。
「えーっと……あの! 蛙は縁起の良いものとされている地域もありまして! 様々な幸運の象徴だったり、幼体から成体への変貌が大きいことから変化の象徴とも言われているんです!」
「はぁ」
「例えば福がカエルで金運とか、災いがカエルや無事にカエルで無病息災とか、ジャンプ力がすごいので出世運とか。あと、卵をたくさん産むので豊穣や子宝だとかもあります!」
「つまり?」
「つまり……オンヘイ公爵令息様は蛙にもモテモテなので将来安泰です!」
言い切って再び落ちる沈黙。気まずいからとりあえずなんか喋らないと、と力説した結果がこれとは……。
「だからと言って顔に飛びつかれるのは嬉しくありません」
「ですよねー……ごめんなさい」
コージャイサンの冷静な返しにイザンバはしょんぼりと肩を落とす。やらかした自覚があるだけに次はなんと声をかけていいか分からなくなったのだ。
そのまま下を向いてしまった彼女は気付かなかった——彼が小さく微笑んだことに。
「いえ、あなたのせいではありません。さっきの言葉で私を気遣ってくれたのも伝わりましたから、頭を上げてください」
「ありがとうございます」
どこまでも落ち着いた彼にイザンバは本当に同じ年かと感心してしまう。そもそも蛙が顔に着地しても動じなかったのだからメンタルが最高硬度なのかもしれない。
許可を得たところで頭を上げたが、さて彼はいつまでここにいるのかと疑問が浮かぶ。
コージャイサンはイザンバの手に視線を向けるとこう言った。
「それ、持っているのも辛いでしょう。結界の中に閉じ込めたらどうですか?」
「結界、ですか」
なんとも軽い調子で言われてイザンバは困惑する。言われていることは理解できる。イメージも出来る。けれども実現するだけの力量がイザンバにはないのだ。
彼女の困惑を察して、コージャイサンが結界の術式を組み立てた。彼の手のひらの浮かび上がる術式は発動一歩手前で止められているようだ。
「手を開いてください。このように……」
言われた通り手を開けば途端に蛙がジャンピング! しかし、あっという間に球状の結界に閉じ込められてしまった。
「わぁ、すごい! 結界って初めて見ました! カッコいいですねー! あ、待って待ってそんなに全力でジャンプしたら頭打っ……あはははは! あーあ、ひっくり返っちゃった。この子、水辺に返してもいいですか?」
「お好きにどうぞ」
「ありがとうございます」
蛙は再度コージャイサン目掛けジャンプしたところ、しっかりと結界に阻まれ脳震盪を起こしたようだ。
特に蛙を捕まえておきたいわけではないのでイザンバの申し出に応じるコージャイサン。結界に包んだままの蛙を泉に浮かべると、二人から離れた位置で蛙を解放した。
スイスイと泳ぎ始めた蛙にイザンバはクスクスと笑う。
「ふふ。じゃあね、面食い蛙さん」
「あなたは変……不思議な方ですね」
今『変』と言ったな。まぁそう言いたくなる気持ちもわかる、とイザンバ自身も思うわけだが。
ここが人気のない場所で良かった。蛙を素手で捕まえる令嬢なんてこの先どんな噂やあだ名がつくか分からない。
イザンバはコージャイサンに問うことはせずニッコリと笑って礼をする。
「私も手を洗いたいのでこれで。それではオンヘイ公爵令息様、失礼します」
「はい。クタオ伯爵令嬢、またの機会に」
相手が怒っていないのなら早々に辞してしまおう、とイザンバは手洗いを済ませるとそのまま帰路についたのだった。
——そうそう、こんな感じだった。
クスクスと笑いながらも、よくこれで婚約が整ったものだと我ながら感心する。
思い出に浸っていると、くるり、と視界が反転した。




