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コージャイサンはイザンバを抱え、一番人気のない工房前のパラソルベンチへとやってきた。
二人掛けのベンチへとイザンバを下ろすと頭からタオルを被せてやる。たとえ通行人がいようとも、これで彼女の顔は周りからは見えない。
その横、イザンバ側のサイドテーブルにジオーネがバスケットを置いている時に小声で確認を取った。
「受付での話は事実か?」
「はい。名前と顔を覚えておりますので報復は後ほど」
「いや、いい。今日ならその必要はない」
その言葉を聞き、ジオーネは静かに頭を下げると滑らかな動きでパラソルベンチから離れた。そして張られる防音魔法。彼女は結界の外側でメイドらしく控えながら辺りの気配を探り、見つけた忌々しい気配に口角を上げた。
そんなジオーネの様子を横目に、結界の内側ではコージャイサンが震える背中を撫でさする。
「ザナ、もういいぞ。でも、タオルは取るなよ」
その言葉に従いイザンバはタオルの両端をそれぞれ握りこんだ。力の入った拳とは反対に蓋を開けた箱から飛び出すように抑圧されていた感情が姿を見せた。
「ふふ、ふふふ、あはは……あっははははははははは! マゼラン、様と、ふははははははははは! クロウ様、ふっふふふふ、あははははははははははは! 息ぴったりですね、ふふ、あははははは! 何アレ漫才? あーっははははははははははははは!」
「いつもあんな感じだ」
イザンバにそう言いながら、コージャイサンはバスケットを開けた。彼女があまりにも高らかに笑うから、喉が乾くだろうと気をまわしたのだ。
相変わらずの局地的世話焼きっぷりだが、蓋を開けて動きを止めた。
だが、イザンバは彼の行動に気づいていない。
「いつもなんですか⁉︎ ふはっ、やば、あははははははっははははは! 首席様も、ふっはははははは、テンション高めでしたし、ふふふふ、それは賑やかな職場で楽しそ……ふ、くくく、無理、お腹、くふふふふふふ、ぜったいもたない、ふふふふふふふふふ」
「ああ、別名『漫才研究部』と言われている」
うっかりバスケットの中身を見てしまったコージャイサンだが、何事もないように会話を続けるとひとまず水筒とカップを取り出した。
反対に頭を抱えたのはジオーネだ。
主人の言葉に気配を探ることに気が行き過ぎていた。水だけでも出しておけば良かった、と己の未熟さを悔いる。
出来るメイドになる道は険しい、と反省を見せる彼女にもイザンバは気付かない。
「ぷっ、うははははははははははは! それほんとですか⁉︎ 研究対象変わっちゃった!」
「嘘だ」
「ちょ、コージー様、はっはははははは! しっかり染まってるじゃないですか! あっははははははははははははは!」
先ほどのマゼランのように返すコージャイサンにイザンバは文字通り腹を抱えて笑った。
ああ、彼女が気づいていないと言えばもう一つ。
実は防音魔法を察知して魔術師が数名やって来ていたのだ。
しかし、そこで傍目から見たら具合が悪いようにしか見えない令嬢に寄り添うコージャイサンの姿に、彼らが送ったのは警告ではなく生温い視線。
彼らも演習場にいた魔術師。つまりはコージャイサンの思いの丈を直に聞いていたのだ。
令嬢と一緒にいる、これだけで相手がイザンバであると悟ったのである。
彼らはコージャイサンと視線を交わすと、サムズアップして去って行った。
そんなやり取りはつゆ知らず、イザンバは笑いすぎて出た涙を拭うと顔を上げた。
「ふふふ。そう言えばマゼラン様は大丈夫でしょうか?」
「もう氷も溶けた頃だから大丈夫だ」
「それなら良かった」
イザンバはコージャイサンからカップを手渡され、礼を述べるとゆっくりと喉を潤した。だがまだクスクスと笑いが溢れている。
「どうした?」
「いえ、ちょっと安心しちゃって。マゼラン様もクロウ様も、コージー様のことをちゃんと見てくれているから」
先ほどのやり取りでもマゼランは「遠征の時と違う」と言った。
言葉にも態度にも身分に対する遠慮がなく、だからこそ同じく魔導研究部の一員として扱っていることが分かる。それはクロウですらも。
左隣に座ったコージャイサンにイザンバは微笑みを向けた。
「素敵な先輩たちですね」
「癖がありすぎるけどな。まぁ悪い人たちではないが、変人だからあまり近付くなよ。実験台にされるぞ」
「あらら。了解です」
コージャイサンに対して「お礼は体で!」と言っていたマゼランだ。彼の知的好奇心を満たすため、あれやこれやと付き合わされているのだろう。
至極軽い調子の返事を寄越したイザンバをコージャイサンが胡乱な目で見る。
「なんですか?」
「いや、別に。ザナからの差し入れが楽しみだなと思って」
「あー……」
だが、どうにも歯切れが悪い。イザンバは閃いたと言うように手を合わせると、ニッコリと笑顔で提案する。
「また後で公爵家に届けるって事にしませんか?」
「しない」
即答! ガックリと肩を落とすイザンバに、コージャイサンは頬杖をつきながら呆れを見せる。それはまるで彼女の思考を見透かすように。
「先輩が言ったこと、気にしてるのか?」
「……もうちょっと配慮するべきだったなって思っただけです」
ここで誤魔化しても仕方がない、とイザンバは少し重たそうに口を開く。
コージャイサンが差し入れを受け取ると答えた時に、驚きを、哀しみを、抱いた幾人もの女性たち。
彼と会えたことにホッとしていたイザンバだが、その姿に気付き冷や水を浴びせられたような思いになった。
今までと違い他人事のように見ていられなくなったのは彼女自身の変化が大きいのだろう。
——差し入れを断られる女性たち
——恋叶わず涙する女性たち
彼女たちに対してイザンバが出来ることはない。分かっていても目の前に居たらその存在が引っかかる。
だからここで渡すのは、と今更ながらに思い直したのだ。当然のように却下されたが。
「誰のものを受け取るかは俺が決める。ザナが気を使うことじゃない」
そう、これはコージャイサンの意志。過去も含めて女性たちとのやり取りをどうするか、決めるのは彼だ。
「そんな事に悩むくらいなら、次に来る時に何を持ってくるか考えてくれる方が俺としては嬉しいんだが?」
コージャイサンは臆面もなくそんな事を言ってのける。真意を探るようにイザンバがじっと見つめた彼の瞳に憂いも迷いも見えない。
さぁ、選んで。
——恋に苛まれる女性の言葉か、意志を貫く婚約者の言葉か
さぁ、選んで。
——見ず知らずの涙する女性か、次を望んでくれる婚約者か
全ての人が幸せに——そんな答えはありはしないのだから。
配慮するべき相手を心に決めた彼女はゆっくりと、確かな強さを持って「はい」と返した。
そんなイザンバへ彼からの言葉が続く。
「こんな煩わしさも今日限りだから気にするだけ無駄だけどな」
「え? なんでですか?」
首を傾げるイザンバにコージャイサンは笑みを深めるだけ。
「それで? 今日はどっちを貰えるんだ?」
と、話をすり替えるようにその唇から愉悦を混ぜた声がイザンバに届けられる。
「どっち? ……え? え⁉︎」
イザンバは手に待っているカップに気付いた。見覚えのあるそれはクタオ家のもの。
「これ……開けました?」
バスケットを指差す彼女に、ゆるく口角を上げて見せる答えは『応』。
イザンバにサプライズのつもりはなかったが、見られてしまっているとなると別の気恥ずかしさが込み上げる。
楽しげに揺れる翡翠に急かされるように彼女がバスケットから取り出したのは——複数の青いリボンに対してただ一つの黄色いリボンの白い箱。
緊張と、照れ臭さと、不安。多くの女性たちと同じ感情を抱いてイザンバはコージャイサンへと向き直る。
「その、これは私が作ったので、お口に合わなかったら申し訳ないんですけど……」
「これは? 青の方は?」
「アレはうちの料理長が作ったやつですよ。お口直し用にお渡ししますね! っていうか、これも別に食べなくていいと言うか! 差し入れ用意するって聞いて、じゃあ、私もー! なんてちょっと浮かれて作りに行っちゃって……って違う違う! コージー様、人の手作りにいい思いしないのに、うっかり持ってきちゃった私は配慮に欠けているのでやっぱり後で公爵家にちゃんとしたものをお届けに参ろうかと思う次第でして!」
気まずいのか早口で捲し立てるイザンバの手からコージャイサンがひょいと箱を取り上げた。
「他はいらない。これだけで十分だ」
声に含まれる温度、そこに現れる彼の思い——この一つが欲しい、と。
コージャイサンは丁寧にリボンを解き、箱に納められていた焼き菓子を一枚取り出した。
そのまま一口、二口と食べ進める姿にイザンバはなんでもないフリをしながらも、内側で緊張を持て余す。
「甘さも焼き加減も丁度よくて美味しい。ザナ、ありがとう」
「……そう言ってもらえて嬉しいです」
渡された微笑みに緊張が解け、ふにゃりとイザンバから力が抜ける。イザンバからも受け取ってくれたことへの礼を伝えると、満ちる和やかな空気。
ほっこりしたのも束の間。パクパク、とコージャイサンの口が止まらない。あっという間に焼き菓子が胃袋へと消えていく。
あまりにもいい食べっぷりにイザンバから飛び出たのは案ずる気持ち。
「コージー様、もしかして疲れてますか?」
「ん?」
「いつもより食べるペースが早いです。まるで思いっきり魔力を使ったあとみたい。訓練、そんなにしんどいものなんですか?」
そんな風に言われてコージャイサンは目を見張った。
それは本当に些細な変化。他に変わった様子がないか、目を凝らすヘーゼルの瞳が少しこそばゆい。
「いや。ちょっと熱が入っただけだ」
コージャイサンは安心させるような声色でそう言って、また一枚食べ切った。
しんどいと言うよりも楽しかったとでも言うような、そんな様子にイザンバもひとまず納得の息を吐く。
「髪が濡れてるのもそのせいですか?」
「これは砂埃を払うのに水を被ったんだ。まだ濡れてたか」
前髪をくいっと引っ張っるその仕草をイザンバの目が追う。ぽとりと一つ、雫が落ちた。
「ちゃんと乾かさないと……って、タオル私が借りちゃったんですね」
「ん」
タオルを返そうとするイザンバになんとコージャイサンは頭を差し出すではないか。何を求められているのか、すぐに察したイザンバだが、これには呆れたような声が漏れる。
「自分で拭いたらいいのに……」
「今日くらいはいいだろ?」
そう言って彼は動かない。
仕方がないな、とイザンバは彼の頭にタオルを被せるとゆっくりと丁寧に水滴を拭っていく。
「研究して、訓練もして、大変ですね」
「真横での爆発に比べたらそうでもない」
「そうだった。魔導研究部はデンジャラスだった」
——耳を打つ楽しそうな笑い声
——触れる指先から伝わる労り
——体が放つ芳香に得る安らぎ
無防備に頭を預けられるほどに、コージャイサンにとって彼女の側は心地良い。そのまま肩の力を抜き、目を閉じてイザンバに委ねた。
「もういいかな? あとは術式で温風を……コージー様?」
あまりにも静かな彼にイザンバはどうかしたのか、と様子を窺った。ゆっくりと瞼を上げる姿に「大丈夫?」と問いかける無垢なヘーゼル。
揺らめくそれにどうしようもなく鎌首をもたげた想いが翡翠の甘さを呼び起こす。
彼女の頬をするりと掠めた手が後頭部を捉え。そのままグッと近づく吐息、見える世界が相手で埋まる……そんな唇までの進撃を寸でのところでイザンバが掌で止めた。
「待って! 何するんですか⁉︎」
「ああ、つい」
「つい⁉︎ ついって何⁉︎」
「うっかり。思わず。無意識に」
「単語の意味を聞いてるんじゃないです! 突然何するのって聞いてるんです!」
「それはあれだ。衝動に駆られた的な?」
「駆られないでください! 紳士の嗜みカムバック!」
悪びれもしないコージャイサンに対してイザンバは必死だ。だと言うのに、サラリと腰に彼の腕が回っていて、これでは立ち上がって逃げることも叶わない。
コージャイサンが少し顔を離した瞬間、手を肩に移動させると一生懸命に押し返して訴える。
「この前から急にスイッチ入りすぎじゃないですか⁉︎ 私レベル1って言いましたよね⁉︎」
「悪かった。ザナが来てくれて浮かれすぎた」
「浮か……っ!」
眉を下げながら返されてイザンバは言葉に詰まった。閉ざされた口の代わりに物言うは赤に染まった頬。
力が抜け、大人しくなった彼女の頬を撫でる手つきは優しい。
恥ずかし気に逃げる瞳を絡めとると、コージャイサンは頬に手を添えたままそれはそれはいい笑顔を向けてこう言った。
「レベル1のザナに人前でキスは早かったな」
「ひとまえ」
コージャイサンの言葉を繰り返し、その意味を理解した途端——彼女の顔色が一気に青褪めた。
そう、防音魔法は見えなくなるわけではない。周囲に音が漏れない、そして周囲の音が聞こえないだけである。
それでも、この場所の人影はまばらであったはず。
錆び付いた魔導具のようにぎこちなく、恐る恐るイザンバは周りを見た。
するとどうだろう。いつの間にか人集りができているではないか。
その中にクロウと復活したマゼランを見つけた。二人ともニヤニヤしている。なんなら、騎士も魔術師も研究員も貴族も平民も、全ての人がニヤニヤしている。
イザンバはまるで湯気が出そうなほどの羞恥に襲われた。ちょっと頭を拭くのに集中している間にどうしてこうなった、と。
コージャイサンの影に隠れるように身を小さくし、さらに顔を手で覆い隠した。
「…………無理。恥ずか死ぬ。おうち帰りたい」
「それなら一緒に帰ろうか。その方が慣れてレベルも上げられるしな」
これまたコージャイサンがいい笑顔でそんな事を言うものだから、イザンバは耐えかねた。
「……意地悪」
拗ねたような声音、指の隙間から覗く艶の足された瞳、濃くなった頬紅。そっと息を落ち着かせた誰かに彼女は気付いているのだろうか。
コージャイサンは彼女の前髪を避けると————ビシィッ! といい音のデコピンを炸裂させた。
「痛っ!」
「やっぱりザナは始末が悪い」
「悪いの私ですか⁉︎」
コージャイサンがため息を吐きながらこぼした言葉にイザンバが覚える反発心。
おでこを押さえながら不貞腐れてみせる彼女だが、その耳に、頬に、羞恥が残る。それを見つけてコージャイサンがクツクツと喉を鳴らした。




