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その日、イザンバはいつもと変わらない朝を迎えていた。コージャイサンと出掛ける予定も、お茶会の予定もない。のんびりとした実にいい朝だ。
シャスティは洗顔の後片付けをし、ケイトは目覚めの一杯を丁寧に入れ、ヴィーシャがイザンバの髪を整えている奥でジオーネは服を選ぶ。
くるくると周りで朝支度をしてくれている彼女たちを横目に出掛ける予定のないダラダラとした一日に思いを馳せていると、ヴィーシャから声をかけてきた。
「お嬢様、本日のご予定はいかがでしょうか?」
「今日も元気に積読消化です!」
「そうですか。ほな、今日は防衛局に行きましょう」
「はい?」
ヴィーシャからの提案にイザンバはポカンとした。
普段の彼女らしからぬその提案。対象が篭っているほうが護衛としては楽だろうに突然どうしたと言うのか。
イザンバは浮かんだ疑問をそのまま口に出した。
「え? なんで防衛局?」
「本日は二月に一度の訓練公開日です。ご主人様に差し入れを持っていきましょう」
「お仕事中に行くのはちょっと……防衛局って広そうだし、変なとこに迷い込んでも嫌だし」
戸惑いを前面に出したイザンバから断られる提案。
もしもコージャイサンが休みで邸に居るのなら、じゃあ行こうかなとイザンバも言ったかもしれないが職場への訪問と言われて彼女は二の足を踏む。
そこへ洗顔の用意を片付けたシャスティが寄ってきた。
「訓練公開日はその名の通り一般公開もされてますので、行っても大丈夫な日ですよ。というか、お嬢様は婚約者様がお勤めになられてから今まで一度も行かれた事ありませんよね⁉︎」
「機密に触れるところには結界があるから入れないそうです。たとえお嬢様が方向音痴でも迷子になっても大丈夫ですからご安心を」
ジオーネは憂いを取るように大丈夫だと言い切った。
そう、訓練公開日と言っても全ての施設に入れるわけではない。
この公開日の目的は国民に防衛局とはどんなことをしているか、どんな人物が騎士として、魔術師として、研究員として、日々国を守ろうとしているか、それを知ってもらう為なのだ。
さて、人の出入りが増す日なのだから当然良からぬことを考える輩も入ってくる。
それを防ぐために防衛局では一部施設に結界を施し、一般人の中にそういった輩が混ざっていないか、発見した場合どのように対処するのか、常時感覚を研ぎ澄まして訓練する。
つまり、国民は防衛局の仕組みや人物を知れてラッキー、防衛局員は万が一を想定して実施訓練が出来てラッキーな日なのである。
それでもイザンバは『応』とは言わない。
「うーん、でもねー」
「なんでそんなに行きたくないんですかー?」
「お仕事の邪魔をしたくないし、コージー様だっていきなり職場に来られたら迷惑でしかないでしょ?」
ケイトの疑問にイザンバは困ったように眉を下げた。前もって約束していたのならばあるいは腹を括って行っただろうが、思いつきで行こうとすることにイザンバは抵抗があるようだ。
イザンバが言っていることは彼女たちとて理解できる。理解できるのだが、ここでシャスティが力強く発言した。
「迷惑なんてそんな事絶対ないですよ! だって想いが通じ合った婚約者なんですから!」
「あー! やめてー! 言わないでー!」
途端に耳を押さえて大声で張り合うイザンバ。改めて言われることに恥ずかしさが勝ったようだ。
だが、シャスティも負けていない。ここでドカンと爆弾発言だ。
「ヴィーシャさんから聞いた時は使用人全員で祝杯を上げましたよ!」
「全員⁉︎」
それはイザンバも初めて知った。
なにせあの日の彼女は疲れていた。コージャイサンとあんなことやこんなことがあり、情報処理が追いつかず、精神を磨耗し疲れていた。
そのせいかクタオ邸に帰ってきた途端まるで動力が切れた魔導具のようにパタリと動かなくなり、そのままぐっすりと眠っていたのだ。
その間に使用人たちは飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ。まさに宴会だ。思いが通じ合っただけでこれでは結婚式の日にどうなるのかと、彼らに事の顛末を説明したヴィーシャは遠い目をしていたとか。
イザンバの驚きをよそに、シャスティは感慨深くこれまでを振り返った。
「歴史書や小説の人物にはすぐ『好き』って言うのに、お嬢様ったら現実での恋愛に興味がなさすぎてどうなることかと皆心配してたんですよ」
そう、イザンバは本の中の人物にはすぐに好きを表現する。『推せる』『エモい』『一周回って好き』。それはもうあっさりと落ちる。
そのくせ学園で、社交界で、街中で、評判の良い男前には見向きもしないのだ。
何年経ってもそれが変わらないものだから「このままでは婚約者様に愛想を尽かされてしまうのでは⁉︎」と気を揉んでいた使用人は一人や二人ではない。
そこへケイトも便乗する。
「あれだけの美貌を間近でご覧になってるのに顔色一つ変えないんですからー。お嬢様の恋心は枯れてるどころか奥様のお腹に忘れてきたんじゃないかって話にもなっててー」
枯れるどころかそもそも種が存在していない。それなら恋心が育たないのも納得だ。
うちのお嬢様は人に興味を示さない変わり者だと半ば諦めの気持ちを抱いていた使用人たちだ。「婚約解消されずに結婚できたらもういいじゃん!」と思い直していたところに届いたのがこの知らせ。
「それが……ついに! 自覚をなさっただけではなく、まさかの相思相愛になるなんて……こんなの喜ばずにいられませんよ!」
「ねー。本当おめでとうございますー」
キャッキャッと喜ぶ二人にイザンバは居た堪れない。好き勝手言われているが、最近自覚したばかりのイザンバでさえも過去の自分が彼女たちをヤキモキさせていたことは十分に察せられる。
だからと言って今この瞬間の会話に耐えられるのかと言えば、まぁそれは別の話であって。
「自覚なさったお嬢様は、それはそれは可愛いらしかったですよ」
「ヴィーシャ!」
ここでいい笑顔のヴィーシャが追い詰めるように言うものだから、イザンバの顔はもう真っ赤だ。
だが、やはりシャスティとケイトは盛り上がった。
「きゃー! 見たかったー!」
可愛らしく茹で上がった姿をシャスティとケイトはまだ見たことがない。次にコージャイサンと共に過ごす時には彼女たちもその変化を知ることになるだろう。
その時には、また使用人の間で更なるどんちゃん騒ぎが開かれるのはもはや予定調和である。
楽しみを胸に、シャスティはイザンバの背を押す。
「だから行きましょう! 間を開けたら次に会うのも躊躇しますよ!」
あまりの勢いにイザンバは助けを求めるようにジオーネの方を見た。しかし、これが彼女に更なる決断を迫る事になる。
ジオーネはその手に二着のドレスを持っていた。因みに色はどちらも柔らかなグリーン系だ。
「フリルとリボン、どちらを着て行かれますか?」
「え?」
「どちらを着て行かれますか?」
ジオーネは真剣だ。イザンバの救援信号は華麗に流し、出掛ける前提の服をズイッと差し出してきた。
フリルは上品さを、リボンは可愛らしさを演出した昼のお出かけ向きで、白と柔らかなグリーンは見ているものに優しげな印象を与える事だろう。
曇りのない紅茶色の瞳で「どちらも似合うがどうする?」と可否を問う。
「……フリルで」
イザンバは負けた。ガックリと項垂れたイザンバに対してジオーネは満足そうに頷いているが、彼女はきっとどちらを選んでもその反応だったろう。
服を選んでしまったのだからもう出掛けることは決定だ。ケイトがニコニコと声援を送る。
「お嬢様、がんばってー」
「婚約者様にさらに惚れ込んでもらうため、張り切って御支度させていただきます!」
鼻息荒く新作メイク用品を取りに行くシャスティは気合十分だ。勢いに押されっぱなしのイザンバがちょっと引いている。
もう好きにして、と現実逃避よろしくお茶を飲んでいると、ジオーネが書類を差し出してきた。
「お嬢様、こちらを」
「なんですか、これ?」
イザンバが受け取ったそれには顔写真と名前の他にいくつかの会話文がかかれている。制服はバラバラだが、全員防衛局の人たちだ。
不思議に思いながらもパラパラと捲ってみるが、結構な人数分あるようだ。
「こちらの方々のお名前と以前の会話を覚えてください」
「以前の会話⁉︎」
ジオーネの説明にイザンバからは素っ頓狂な声が出た。彼女は今日初めて防衛局に行く。それなのに『以前の会話』とはどう言う事だ。
だが、イザンバの驚きにジオーネは首を傾げた。まるで何に驚いているのか分からないようで、そのまま説明を続けた。
「そうです。こちらの方々には変装したイルシーが会ってますので」
「ああ、なるほど。そう言う事ですか」
そう、イザンバは会っていない。しかしイザンバに変装したイルシーが捕縛の都合で防衛局の面々に会っているのだ。
理由を理解したところで、イルシーの名を聞いてシャスティの顔が強張った事が目についた。
——自分が仕える主人を見間違えるはずがない。
彼女はそう自信を持っていた。それなのにまんまと騙された自分への腹立たしさ、また嘲笑うようなイルシーを思い浮かべてしまったのだ。
顔が強張ったのはムカムカとした感情を抑え込もうとして失敗したからだ。
イザンバもそれに気付いたが今は触れない事にした。
——触らぬ神に祟りなし
時にはあえて触れないことも賢明なのである。
ため息を隠すように彼女は視線を書類に戻す。そこに書かれているのは当時のやり取りだ。
内容は当たり障りのない世間話程度だが、例えば今日会ってしまった場合を考えると、知らないよりも知っていた方が会話が繋がるだろう。
一見するとジオーネから告げられた理由に納得したようなイザンバだが、ここでふと思い至った。
「ん? じゃあ今更私が行かなくても良くないですか?」
「良くはないです。どうぞ、御支度の間に覚えていただければよろしいので」
ジオーネにあっさりと却下され、心底面倒臭そうにするイザンバは気乗りがしない、とその心の内をぼやく。
「人の顔と名前、覚えるの苦手なんですよねー」
「そないなこと言わんと。推しやと思たらいけますでしょ」
「三次元の時点で無理ですね」
自慢気に言い切るイザンバにヴィーシャは嘆息する。それでもイザンバは書類に目を向けるのだから大概律儀である。
しかし、文字を追うペースも遅く、二枚目、三枚目と進んだところで飽きてきた。
イザンバが一人奮闘していたところ、ここでケイトから伝えられる退室の意。
「お嬢様、差し入れご用意してきますねー」
「……あ、ケイト待って! シャスティ、ヴィーシャ、支度は後にしてもらっていいですか?」
イザンバは思いついたようにケイトを呼び止める。そして二人に視線を向けて。
突然待てと言われてシャスティは拍子抜けした。打倒イルシーを掲げて燃えていたのだから、そうもなるだろう。
「え、はい……」
対するヴィーシャは動じずた様子もなくイザンバへと訊ねた。
「うちらは構いませんけど、どうしはったんですか?」
出掛けるつもりにはなっていたはずなのに一体どうしたと言うのか。首を傾げる彼女たちにイザンバは笑みを見せる。
「えへへ、ちょっとね」
そう言ってイザンバはケイトの元へ行く。くるりと部屋に残る三人に向き直ると手際良く今後の指示を出した。
「ちょっと時間がかかるかもしれませんけど、戻ったら支度をお願いします。ああ、ヴィーシャもこっちへ。ジオーネは馬車の手配を。シャスティ、新作を使うんでしょう? 服に合うよう準備しておいてくださいね」
「はい! お任せください!」
シャスティの元気な返事を笑顔で受け取ると、ケイトとヴィーシャを連れてイザンバは部屋を出ていった。




