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『えっと、実はですね……』
カティンカの話はこうだ。
昨日、帰ってすぐに始まった淑女の仮面の仕立て直し。ヴィーシャは手を替え品を替えカティンカの脊髄反射を誘う癖に容赦なく鞭を振るう。
それなのに、あまりのダメ出しの数にカティンカが挫けそうになると、うまい事ご褒美をチラつかせる。
分かっていてもあっさり釣られてしまう己の業の深さに、しかしカティンカはいっそ開き直った。
——アダム様のコスプレ写真がゲット出来るなら、今の苦労は実質ゼロ! むしろ価値あり!
きっとそんな内心も筒抜けなのだろう。そして常時気を張り続けた結果おやすみ三秒で爆睡した。
さて、困った事になったのは翌日。サリヴァンが眼鏡をキラリと光らせながら言った。
「今日は一日微笑みを崩さずに過ごすザマス」
——一日⁉︎
「あら、叫ぶの耐えられましたね。お顔は残念ですけど良い傾向ですわ。ではこのまま始めましょう」
しかし、これが上手くいかない。
誘惑に耐えるとどうしても顔が強張る。
笑顔を意識すると反射を飲み込む事が疎かになる。
——笑顔。笑顔。笑顔。
内心で呪文のように唱えてみるも、その表情についてサリヴァンの眼鏡が度々光る。
「やり直し。口を大きく開ける必要はないザマス」
「やり直し。それでは睨んでいるようザマス」
「やり直し。締まりのない顔をしないザマス」
「やり直し。頬が引き攣っているザマス」
とうとうカティンカは音を上げた。
「また⁉︎ 笑顔を作るだけなのに厳しすぎやしませんか⁉︎」
「豊かな感受性はあなたの美点ザマス。ですが淑女の微笑みは武器であり鎧。それ一つで相手への印象を変えるものザマス。そもそも笑顔と言っても笑うと微笑むは全く違うものザマス」
「カテゴリー的には同じだしどっちも一緒だと思うんですけど……」
「では一時間の休憩としますから少し考えてみるザマス」
そう言ってサリヴァンが席を外した途端にカティンカは思いっきり脱力した。
頭を捻るも出てくるのは意味のない唸り声ばかり。行き詰まる彼女にヴィーシャがこう言った。
「今やったらお嬢様の体も空いてますし、聞いてみたらどうですか?」
「そうですよね、お邪魔しないタイミングは今しかない……よし! 連絡します!」
そして、今に至る。
『反射でものを言わない為に笑って誤魔化すんですよね⁉︎ 一体何が違うんですか⁉︎』
「そうですねー……」
絶叫とも言える声にイザンバは顎先を指でトントンとする。そして、ぐるりと周りを見渡した。
「カティンカ様、ちょっと見にくいと思うけど、頑張ってこちらを見てもらっていいですか?」
『はい! 目ん玉かっぴらいて見ます!』
「乾いちゃうから程々でいいですよ」
またもや水晶にドアップで映りこんでくる友人にイザンバはクスクスと笑う。
「ジオーネ、水晶持ってください。それと今から呼ぶ人の顔を映してほしいんです」
「かしこまりました」
水晶をジオーネに託し動きやすくなったイザンバは早速ある人物へと向き直った。
「まず笑うと微笑むの違いですが……お兄様」
「なーに?」
「先に謝っておきます。ごめんなさい」
「え?」
「いざ、お覚悟ー!」
しっかりと頭を下げて謝罪したあと、兄の脇腹を全力でくすぐった。それはもうキラッキラの笑顔を添えて全力で。
「ちょ、あっはははははは! ザナ、あはは、やめて、あはははははっ!」
「良いではないか。良いではないか〜」
「言い方、あはははははっ、も、もう、降参……あはははははは!」
予期せぬ刺激、それも弱い脇腹をくすぐられてアーリスは身を捩って笑う。
予兆なしに始まった兄妹の戯れに水晶に映るカティンカがポカンとしているが、ひとしきりくすぐるとイザンバはその手を止めて何事もなかったかのように語りを再開する。
「このように『笑う』は表情全体を崩したり、大声を立てたり、嬉しい、楽しい、愉快などその人の感情が前面に出ます。ただし一度その勢いを失えば取り繕うことが難しいです」
『成る程。……アーリス様、大丈夫ですか?』
「はい……なんとか……」
突然のくすぐり攻撃を受けたアーリスは息も絶え絶えだ。しゃがみ込み息を整える兄の傍らで、イザンバは別の人物へと声をかける。
「リナ」
「はい」
この流れにリアンは少し警戒心を抱いた。
アーリスほど弱くはないが、彼のようにくすぐられる行為が主の地雷を踏み抜きはしないかと。
返事が緊張感を匂わせる硬い声になってしまったが、彼女はそこに触れる事なく至極明るい調子で口を開いた。
「今日もすっごく可愛いですね! あのね、今度ケモ耳付けてみませんか? 小型犬の犬耳がついたリナ、もう似合う気配しかしない!」
「……小型犬」
「小柄な体にくりくりした目、愛らしい見た目、まさに可愛いの権化でしょう⁉︎ あ、ショーパンで可愛い膝も出して尻尾も付けましょう! 小型犬の愛らしさとリナの可愛さの合体……ああ、小さくて可愛いとか本当最強ー!」
楽しそうだ。それはもう楽しそうなイザンバに対して、リアンはニッコリと綺麗に微笑んだ。
「お断り申し上げます」
「えー、残念」
ちっとも残念そうじゃない声色で彼女は言う。それもそうだろう。リアンは彼女の思惑は見事に達したのだから。
『わぁー、なんか断固拒否の雰囲気ですね』
「可愛いって言われるの、嫌いな子ですからねー」
「しかもお嬢様は小さいまで言いましたから。でもリナもよく我慢したな。えらいぞ」
可愛いものを連想するような小さいや弱いは思春期のリアンにとって禁句だ。
しかし、それを分かった上でイザンバは言った。可愛いに対して過剰反応しなくなったリアンに対して少し踏み込んだのだ。
言われてイラっとしただろうに、見事微笑みの下に収めた彼に向けられたジオーネの褒め言葉が妙にくすぐったい。
「それくらい出来るし」
プイッと拗ねるように、照れるようにそっぽを向く美少女の姿に皆の頬が緩む。
つい空気がほっこりとしてしまったが、切り替えるようにイザンバがこほんと咳払いを一つ。
「つまり『微笑む』は目と口の表情を変えるだけの声を上げない静かなもので、必ずしも感情と一致しません」
もちろん嬉しくて微笑む事もある。けれども、時に微笑みはその心情を隠すために使われる。
——怒りを抱いても
——悲しみを抱いても
誰かに足を掬われないように。
「さて問題です。これらを踏まえて、淑女が何かを隠す時に適しているのは笑う事と微笑む事のどちらでしょうか?」
『微笑む事です』
カティンカの真剣な声音が返された。腑に落ちた、と。笑って誤魔化せ! と意気込んだカティンカの笑顔が不向きなものを選んでいたのだ。
そこにまだイザンバは言葉を続ける。
「あのね、微笑みにも種類があるんですけど、困ったような感じだったり、気の抜けた笑みだと社交界では皆様、特に同性は容赦なくツッコんでくるんですよ。逆にね、強気の方がツッコまれにくいんです」
「有無を言わさない微笑みってやつだね」
『オンヘイ公爵令息様みたいなやつ! 全然出来る気がしません!』
いっそ清々しいほどにカティンカは言い切った。
同じく聞いていたアーリスが「それなら」とカティンカに提案する。
「この前のレグルスの時のようにしてみたらどうですか? ほら、ザナに悪戯を仕掛けた時みたいな」
「私もそれがいいと思います! あれ本っっっ当に素敵でした!」
『いや、でも、あれを意識してやった時、顔が攣るかと思ったんですけど』
レグルスは逆境の最中でも決してそのニヒルな笑みを崩さない。
——困難に見舞われようとも
——敵陣に一人でも
どんな時でも信念を守り続けるからこそ彼は笑う。
もちろんカティンカもその時はそれを意識したが、素の自分がして果たしていいものかと二の足を踏む。だってレグルスとカティンカは全く性格が違うから。
「コスプレしていなくても、レグルスならこうする、レグルスならこんな風に言うって感じで、心でなぞってみるのもいいと思います。憧れの人物の振る舞いを真似する事はよくある事です。そして、それは同性である必要はないでしょう?」
『憧れの人物を真似る」
「そう。レグルスはカティンカ様が尊敬と憧れを抱く大好きな推しです。その振る舞いはカティンカ様が一番よく知ってると思うんですけど、どうですか?」
『レグルス様のように……——はい』
少しずつ——道標が示される。
言われるがままだったカティンカの行動指針が定まり始めた。
「あ、僕からも一ついいかな?」
小さく手を挙げたアーリスは水晶越しにカティンカと視線を合わせた。
「すみません、ちょっと呼び方が気になっちゃって。コージーが名前で呼んでいいと言っていたでしょう? 初対面で馴れ馴れしくするのは御法度ですけれど、本人がいいと言っているのにいつまでも敬称では逆に失礼になります。コージーとは距離を置いておきたかったんだろうなって感じるんですけど、どうですか?」
『あ、その、えっと………………はい。恐れ多さが勝っちゃって……』
「本人が許しているんだからそこはあまり重く捉えなくて大丈夫ですよ」
『はい。次からは気を付けます』
「あと……身体的特徴で表すのもどうかなって思います。気にしない人もいるでしょうけど、これも人によっては不快に感じられますし」
そう言いながら彼の視線はジオーネに向けられた。途端に合わなくなった視線が誰を指しているか、カティンカにも伝わって。
『あ……ごめんなさい! あの、おっぱい大きくて羨ましいなーとか一度くらい挟まれてみたいなーとかは思ってるけど、いや、変態っぽいですよね! でも素敵だなって意味の爆乳美女でして! すみません! 変態ですみません!』
「お気持ちは分かります。確かに挟まれた心地は世の男性が夢見る楽園でした」
『そこ詳しく!』
反省を促したのに、誰だ話の腰を盛大に折ってきたのは。カティンカがしっかりと食いついてしまったではないか。
アーリスは妹に向かって口に人差し指をあてて「しー」と伝える。
「ザナは少し静かにしてようね。カティンカ嬢も今はコージーに言われた事を履修しているんですよね? 反応しちゃダメですよ」
「ごめんなさい」
『ごめんなさい』
嗜められた二人は声を揃えて頭を下げた。
さて、つい反応してしまったカティンカだが、アーリスの言いたい事は十分に伝わっている。
『悪気がなくてもそういう言い方をするべきじゃないですよね。めちゃくちゃキャラを語るノリで言っちゃって……だから、えっと、あの、ジオーネさん、ごめんなさい!』
自分の名を呼ばれジオーネは水晶の向きを変えて覗き込む。
申し訳なさと不安に揺れる瞳に対してジオーネは不敵な笑みを浮かべた。
「お気持ちは受け取りました。ですがあまり気に病まないでください。あたしは体で仕事をしてきましたから」
その身で欲を惹きつけ、悪戯に相手を炙る爆炎の獣は揺るぎない自信を見せつける。これを矜持というのだろう。
どこか推しと通じる彼女にカティンカは魅入られた。
『フゥーッ! カッコ良っ!! ありがとうございます!』
「そうですね! 本当うちの子たちカッコいいー!」
オタク女子二人は大興奮だ。頬がすっかりと紅潮しているイザンバに、アーリスはふと悪戯っ子のように目を細めていった。
「新しい扉が開きそうならコージーに連絡するけど」
「うぐっ……!」
すると今度は違う意味でイザンバの頬が赤くなった。
なにせつい昨日のことだ。あまりにも生々しく思い返せるそれに羞恥心が刺激されて、しかも兄にそれを推奨されると大変居た堪れない。
『おっと、まさかのアーリス様のスパイ感。優しいお兄様なのに油断ならないですねー』
「大丈夫です。もう閉めました」
『イザンバ様、澄ましてるけど必死なの可愛いー!』
「もう! カティンカ様!」
「ぷっ、あははは!」
アーリスの笑い声に二人も釣られて笑う。和やかな空気が流れる中、ふとヘーゼルが水晶に向けられた。少しだけ眉が困ったように下がっている。
「カティンカ嬢、偉そうに言ってすみません。こういうところ、ノリが悪いって言われるんですけど」
「は? 誰ですかそんな事言ったの? お兄様もコージー様もすごくノリがいいの間違いでしょ?」
ところがこれにイザンバが反応した。むっつりとした表情に大層不満を持っている事が伺える。
なんと今度はアーリスが視線を逸らしてしらばっくれる事になった。
「あー……ザナが知らない人?」
「他人をいじって笑いをとる人の方がおかしいんですから、そんなノリの人は構わなくていいですよ!」
『そうですよ! そんな人はぐちゃぐちゃってしてポイッ! です!』
「それがいいです! 脳内でぐちゃぐちゃーって小さく丸めちゃいましょう!」
『そうそう! 元婚約者なんか何回丸めてゴミ箱に捨てたか……まぁそれでも耐えられなかったけど』
「元々ご縁がなかったんですよ。聞いた感じだとカティンカ様と合わなさそうだし」
『あの人、私を下に見て気持ち良くなってましたから。アレは無理ですよ』
オタク女子二人は声を大にしていう。
二次元にはあらゆる夢が詰まっている。だからこそ身体的特徴であっても素敵だと声を上げることがままあるだろう。
だがやはり、二次元に対して言うのと、三次元に対して言うのでは違うのだ。
現実には人から羨まれるところでも、それをコンプレックスに思っている人がいるのだから。
「ぐちゃぐちゃってしてポイッ…………ふふ、あはははははは!」
ところがアーリスは笑いだす。どうやら言われた通り想像したようでツボにハマったらしい。
「うん、そうだね。二人ともありがとう」
自分の事ではなく、他人をいじる事で承認欲求を満たそうとする者の言葉を間に受けないで、と彼女たちは言う。
注意をした事に緊張感を持っていたアーリスだが、なんだかすっかり気が抜けた。
『……あ、すみません。もうそろそろ時間みたいです』
「そうですか。カティンカ様、ありがとうございます」
けれども当の本人はキョトンと首を傾げた。
『お礼を言うのは私の方ですよ? イザンバ様、アーリス様、ご助言ありがとうございました!』
「訓練、頑張ってください」
『はい! イザンバ様、結婚式って言うかウエディングドレス姿、楽しみにしてますね!』
アーリスに笑顔で答えた後、心底楽しみにしていると分かる声音で告げられてイザンバは恥ずかしげにはにかんだ。
「——はい、お待ちしてます」
『あー、照れてるー! 可愛いー! てか、長く話せると切るタイミング難しいですね。イザンバ様から切ってもらっていいですか?』
「ふふ、確かに難しいですね。今度はゆっくりお話ししましょうね! お兄様、こっち来てください」
素直に兄が隣に来るとイザンバは兄の手を持ち上げ水晶に向かって手を振った。
「それじゃあ、またね」
あまりにも気安い別れの挨拶に二人とも驚いているが、イザンバは構わずに手を振り続ける。
すると、水晶の向こう側でカティンカがおずおずと同じ動作を返してきた。
『……はい、またね』
こうして初めての友人同士の伝達魔法は終了した。
向こう側が透けて見える水晶に向けられる穏やかな視線。アーリスはイザンバの方に向き直ると明るく言った。
「本当に三分以上話せちゃったね」
「ねー。気をつけないとずっとお喋りしちゃいそうです」
「そうだねー。ねぇ、喉が乾いたしお茶にしない?」
「賛成! あ、お兄様! 本忘れないでね! 読んだ感想は私にもカティンカ様にも教えてくださいね!」
「分かってるよ」
急がなくていい、でもいつか果たして欲しい。そんな未来の約束をして、兄妹は書庫を後にした。




