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書庫の中腹、イザンバは一人掛けのソファーに腰を落ち着けると本を顔に近づけ深く息を吸った。
「はぁぁぁ、紙とインクの匂い……我が癒し〜」
母から話を聞いた時、一気に沸騰した羞恥心をインクの匂いで落ち着かせようというのに、これまたうまくいかない。
その原因は分かっている。コージャイサン絡みでの噂の発生、これぞ二度あることは三度ある。
それもまさかの惚気話なのだから、羞恥心が逃走力に力を貸すというもの。
噂に慣れる事も便乗する事もまだイザンバには難しくて。
「あぁぁぁ……アイネ様達に会った時が怖い……!」
アイネたちも結婚式の招待客だ。根掘り葉掘り、一から十まで、恋バナ大好きなキラキラ女子たちのエネルギッシュな尋問を想像してソファーの上で身悶えてた。
しかし、一人の空間もここまで。ノック音の後、兄の声が彼女を呼ぶ。
「ザナー? いるー?」
「はーい。奥にいますよー」
テンション低めに返事をすれば、棚の向こうからひょっこりとアーリスが顔を出した。
「あれ? ここの本はあまり減ってないね」
「流石に全部は持っていけないし。あちらにも立派な図書室がありますから」
「それもそっか。ねぇ、忠臣の騎士はここにある?」
「お気に入りだから持って行くものに入れちゃいました。出してきましょうか?」
「じゃあいいよ。また今度貸してくれる?」
「はい。でも珍しいですね」
イザンバから勧められて読む事は多々あれど、指定してくるのは珍しい。
すると、アーリスは何かを思い出したように笑う。
「うん……ふ、ふふっ。ほら、カティンカ嬢が熱く語ってたから。レグルスの活躍シーンを読んでみたいなと思って」
「待って! それはすぐに読んで欲しいから出してきます! お兄様はここで待っててね! すぐに持ってくるから!」
「え、ちょ、ザナ⁉︎」
兄の静止も聞かず、イザンバは本日二度目の猛ダッシュをかました。嫁入り前なのになんと落ち着きのない事だろう。
その勢いにポカンとしたアーリスだが、仕方がないなと肩を竦めるとソファーに腰を下ろし、妹が広げていた本に視線を落とした。
ぱらぱらと手慰みに捲った後に見回した本棚。そこにあるのは積み上がった妹の痕跡。
——二人で肩を並べて読んだ幼児本
——気分転換にと勧められた本
——課題の助けとなった辞典や参考文献
静かな空間に窓から入り込む風がそっとアーリスの頬を撫でた。
しばらく感傷に浸っていると、廊下を賑わす足音が聞こえてきた。
「お待たせしました!」
「わぁ、早かったねー」
感心したアーリスの目の前には本を持って満面の笑みの妹。その後ろ、ジオーネとリアンの手にも本がある。いかにイザンバと言えどもシリーズ全巻を持って走れないため二人に手伝って貰ったのだ。
それらがアーリスの前にドドンと置かれる。
「はい! 忠臣の騎士シリーズ全十二巻です! 美麗画集はいりますか? ファン作品も読みますか?」
「ファン作品まであるんだ。んー……そっちはまだいいかな」
「分かりました。興味が湧いたらいつでも言ってくださいね!」
「うん」
「レグルスが出てくるのは三巻からなんですけど、実はいきなりシリウス様とバチバチにやり合っちゃって。その圧倒的な実力にシリウス様サイドからしたら『やだ負けないでー!』ってなるけど、レグルスサイドからしたら『フゥーッ! カッコいい!』ってなるから、是非視点を変えて楽しんで欲しいです!」
「分かった。しばらく借りるね」
そんな兄妹の間にチリンチリンと鈴の音が響く。アーリスが不思議そうに辺りを見回した。
「なんの音?」
「コージー様が改良した伝達魔法ですよ」
「こんなに小さい音になってるんだ!」
「ねー! 本当コージー様ってすごいですよね!」
イザンバはポケットから取り出した明滅する水晶を手のひらに乗せて魔力を通す。すると小さな水晶にカティンカの姿が映る。
「カティンカ様、ご機嫌よう」
『イザンバ様、ご機嫌よう。あの、今お時間大丈夫ですか?』
「はい。お兄様とお話ししてただけですし。見えますか?」
視線を向けられたアーリスがイザンバの隣へ移動してきた。兄の姿も映るように腕の高さを調節してみるが、果たしてうまく行っているのか。
『あー、やっぱり人数が増えるとさらに小さくなって……人がいるのは分かりますけど、ちょっと判別しづらいなーって感じですね』
「やっぱりここは改良ポイントですよねー」
通信相手がイザンバとアーリスだと分かっているからどちらがどちらか判断が出来るが、表情ましてや装飾品等の分別がつかないほどに小さい。これは小型化の弊害と言えるだろう。
後でメモしておこう、なんてイザンバが思っている横で兄が朗らかに挨拶をした。
「こんにちは、カティンカ嬢」
『アーリス様、ご機嫌よう。あー! 結局貴重なお時間にお邪魔してる! すみません!」
「ふふ、大丈夫ですよ。それよりどうしたんですか?」
『あの、実は……サリヴァン先生からのお題が分かんなくて……イザンバ様、助けてください〜〜〜!」
水晶の向こうからカティンカは盛大に泣きついた。しかし、兄妹は懐かしい名前に表情がパッと明るくなる。
「サリヴァン先生!」
「マダムにはザナもお世話になったもんね」
マダム・サリヴァン。かつてオンヘイ公爵家のご厚意でイザンバの教師を務めた眼鏡をかけた少し神経質そうな白髪混じりの金髪の女性である。
「はい。お話も分かりやすくてとても良い先生ですよね。厳しいですけれど叩いたりつねったりはされませんし」
『そんな事されたんですか⁉︎』
「サリヴァン先生じゃなくてその前の先生ですから心配しなくて大丈夫ですよ」
驚きの声を上げるカティンカに対して弁明していたイザンバの肩にポンと手が置かれた。アーリスの手だ。
「ねぇ、それは初めて聞いたよ」
なんだろう。微笑んでいるのに心なしか纏う雰囲気が黒い。
滅多にない兄からのにこやかな圧に、背筋に冷や汗を流しながらイザンバはしらばっくれるように視線を泳がせた。
「あー……そうでしたっけ? でも、ほら、もう昔の話だし。あの時お兄様たちが来てくれたお陰でご縁もなくなったんだから気にしないでください。ね?」
「そうかもしれないけど……もし、二人の子どもの前に現れたら……」
妹の言にアーリスはどこか納得しきれない雰囲気を滲ませる。
彼は知っている。今思い出しても腹立たしい元家庭教師の暴言の数々にイザンバがどれだけ傷付いたかを。
コージャイサンの助言に従い、オンヘイ公爵夫妻の力添えもあって罰する事が出来たが、自分の知らない余罪があった事に驚きと怒りと後悔が胸に巣食う。
まだ見ぬ甥姪を、再度傷付くかもしれない妹の心を案じ、眉間に深い皺を寄せるアーリスにジオーネが口を開いた。
「兄君。そちらについてはもう処分が済んでおります。その者がお嬢様の前に姿を現す事は二度とないのでご安心を」
その末路を見届けたジオーネだからこそ、揺るがぬ事実を力強く言い切った。
真っ直ぐな視線を伴ったその言葉にアーリスの眉間の皺が解ける——コージャイサンに対する信用を対価として。
処分の内容が気にならないわけではないが、イザンバとカティンカが聞いている前で追求する事ではないと飲み込んだ。
「そうなんだ。ザナ、結婚してからもしんどい事があると思うし、一人で抱え込まないでちゃんとコージーに言うんだよ。僕でもいいし」
『私も! いつでも愚痴ってください!』
「はい。ありがとうございます」
思いやりを向けてくれる二人にイザンバはふんわりと微笑んだ。
「お嬢様が仰る前にご主人様はお気付きになるでしょうが」
「それもそうだね」
ジオーネの言い分にアーリスも全面同意である。
コージャイサンがイザンバの変化に目敏いのは、もう二度とあのような事は繰り返さないと幼い頃の失敗を教訓としているからだ。
言葉巧みに誘導して吐き出させたり、時には思考を読んだ折に確認したり。
その上、従者たちも逐一報告するのだからイザンバとしても隠しようがないだろう。
『ねぇ、イザンバ様。今の声って爆乳メイドさんですよね? もしかしてあの人もオンヘイ公爵令息様から遣わされた護衛だったりします?』
カティンカの質問に対して、イザンバはゆっくりと小首を傾げた。
「どうしてそう思ったんですか?」
『えっと、ご主人様って言ってたし……あと、その……なんか、従者さんと美女メイドさんと同じ、安心できない、ご安心をが聞こえたから……』
モゴモゴと言いにくそうにしながらも彼女は感じた事を素直に口にする。
それを聞きイザンバは吹き出した。
「ぷっ、あはははは! 二人ともそんな事言ってたんですね!」
その様子を容易く想像できたのは今まで見てきた姿があるから。きっといい笑顔だったんだろうな、なんてクスクスと肩が揺れる。
イザンバは水晶をジオーネに向けた。
「彼女はジオーネ。お察しの通りコージー様から派遣されている護衛です。綺麗でナイスバディなだけじゃなくてすごく強くて頼りになるんですよ!」
『やっぱり! 美貌と強さを兼ね備えた麗しい護衛たちが守るのは敬愛する主人の最愛! くぅーっ! 主従の絆とオンヘイ公爵令息様のイザンバ様への愛の深さが……エモすぎるぅぅぅ! あ、でも護衛が減って大丈夫なんですか?』
今ヴィーシャはジンシード子爵家にいる。
——妖艶な笑みで飴を授け
——冷たい笑みで鞭を唸らせ
美女の手練手管にジンシード子爵家はされるがままだ。特に姉弟が厳しめに特訓を受けているが、乗り切った後のご褒美でうまく釣られているのはご愛嬌。
オンヘイ公爵令息がやれと言うのだからやるしかないが、しかしヴィーシャが護衛を外れてイザンバの守りは大丈夫なのかとカティンカはふと不安を覚えた。
「外に出る予定はないし大丈夫ですよ。それに今はもう一人、可愛くて頼りになる子が居ますから。ほら」
そう言ってイザンバが突然リアンを映すものだから、映された本人は澄まし顔でやり過ごす。
『おお、流石……って、ちょっと待って! 水晶が小さくて見にくいけどかなりの美少女では⁉︎』
「そうなんです! もう本当可愛くて! 私はこの子の方が天使って呼ばれるべきだと思ってます!」
『火の天使様から認められる天使な美少女! これは期待値アガるー! 実物プリーズ!』
カティンカは水晶に目一杯近づいたのだろう。かなりのドアップになっている彼女にイザンバはある事を言いたくて、でも今はまだ言えない葛藤に顔をムズムズとさせている。
そんな妹の表情が見えているから、アーリスは話題を変えるようにカティンカに声をかけた。
「カティンカ嬢、お題はいいんですか?」
『今は現実逃避したい気分なんです』
「それもいいけど、ザナの意見が聞きたくて連絡されたんですよね?」
初っ端から話が大きく逸れた為にまだ本題を話してもいない。現実逃避は時にいい息抜きになるが、今彼女に残された時間を思うと悠長にはしていられないだろう、とアーリスは思う。
それに重要な事はもう一つ。
「今を逃すとしばらく聞けないですよ。先にやっちゃいましょう」
『ですよねー!』
そして、それはカティンカも分かっている。
コージャイサンに仕事を任されたとはいえ新婚夫婦のところにこちらから連絡を入れて、万が一にも二人の時間のお邪魔をしてしまっては……それはもう気まずい事この上ない。ブリザード待ったなしである。
そのため、イザンバとの伝達魔法の使用はカティンカは基本待ちの姿勢のつもりでいたのだが、彼女としては今は背に腹はかえられぬ状況なのだ。
こうして初めて伝達魔法を使うに至ったのだが、二人との会話が楽しくてついつい脱線したままでいたのは内緒である。




