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ふわふわ、ゆらゆら。あまりにも目の前で揺れるから、ついにアーリスがその物体を指でつついた。
「それにしても……こんな服うちにあったっけ?」
モコモコのうさ耳に全くと言っていいほど見覚えがない。その疑問に答えたのはコージャイサンだ。
「これはうちの母が用意した」
「公爵夫人が」
それだけでイザンバの幼児化は父が言わずともすでに決まっていたのでは、との考えがアーリスの頭によぎった。
遠い目をする兄をイザンバが呼び戻す。
「あのね、おにいさま。これうしろもかわいいんですよ」
「後ろ?」
兄の膝からぴょんと飛び降りると彼女はその後ろ姿を見せた。
「みてー。ふくのすそにうさぎのしっぽがついてるんです」
お尻と共にふりふりと振られるパーカーの裾に縫い付けられた尻尾。その仕草にアーリスも女性陣も胸を撃ち抜かれた。
「可愛い〜〜〜!!!」
しかしながら、若干一名方向性が違ったようで。
「ジンシード子爵令嬢様、お尻のお触りはあきませんよ」
「イエス、マム!」
怪しげに動く手の動きを見咎める冷たいアメジストに射抜かれてカティンカは姿勢を正した。
なんという事だろう。もう少しのところで弟が危惧した事が現実となるところであったとは……。幼児の魅力恐るべし、とカティンカは一人額を拭った。
「お嬢様、今更ですが足が出てるのは平気なんですか?」
なにせ彼女の服装はショートパンツにハイソックス。コニーのコスプレをした際も同じ感じであったが、あの時は大層恥ずかしがって中々姿を見せなかったのだ。それなのに今は堂々と。
その心境の変化をジオーネが尋ねれば、イザンバは胸を張って答えた。
「だってようじだもん!」
えへんと胸を張ってもただ可愛い。皆が頬を緩める中、紅茶色の瞳がキラリと光る。
「では、今度こそ生足で撮りましょう」
「……ジオーネ、あしふぇちなんですか?」
幼女の声でなんて事を言うんだ。
見上げる瞳すらも純粋さを纏っているように見えるのに、中身の残念さは変わらないようでアーリスが顔を手で覆っている。
だが、彼が知らないだけでジオーネは前回のコスプレ時にも生足撮影を推していたのだ。イザンバが不思議に思うのも仕方がないだろう。
「フェチかどうかは分かりませんが、あたしは尻もデカいのでヴィーシャのすらっとした足やお嬢様の健康的な御御足を素敵だと思います」
「あらあら、上手言うて。褒め方勉強してきたんやな」
褒められてヴィーシャはご機嫌だ。それを見たジオーネも彼女の手が飛んでこない事に若干のドヤ顔で。やればできる子はそのまま荒いパスをイザンバに投げる。
「あとは婚約者様がお喜びになられるかと」
「うーん、さすがにいまは……ねぇ?」
「幼児の肌を見ても何とも思わない」
だがイザンバが困ったようにコージャイサンを見上げたのは、彼が喜ばない事をすでに知っているから。残念ながら今回も生足撮影が叶う事はなさそうだ。
しょんぼりと肩を落とすジオーネにシャスティがぽつりと溢す。
「私はジオーネさんの女性らしいスタイルが心底羨ましいけど……」
「アンタ今のイザンバ様と大して変わわねーもんなぁ」
「ちょっと! どこ見てるんですか!」
「どこって……あ、悪ぃ。背中だったかぁ?」
「何ですってぇぇぇっ!」
耳聡く聞きつけたかと思えば嘲笑うイルシーにシャスティも怒髪天を突かれた。激しく飛び散る火花と共にカーン! とゴングの音が鳴ったような。
そんな一気触発の二人とは反対に、ケイトはのほほんと言う。
「でもジオーネさんの気持ち分かるー。キャットスーツ着たヴィーシャさんのシルエットライン、すごく綺麗でしたしー」
「キャットスーツ!!?? それってもしかして女怪盗イヴ⁉︎ それをこの美女メイドさんがしたの⁉︎」
キャットスーツの一言から連想されるものにカティンカはしっかり食い付いた。大きく見開かれた瞳は話題の人をガン見である。
不躾な視線にも動じずヴィーシャは彼女の反応を面白がるように頷いた。
「ええ」
「エロ可愛かったですよー」
おっとりと続けるケイトに愕然とした表情を見せた後、ふるふると体を震わせたカティンカから上がった慟哭。
「そんな……私も呼んで欲しかった!!!」
「んー、でもカティンカさまとおともだちになるまえのことですし」
それでどう呼べと言うのか。もちろんカティンカにも言ったところでどうしようもない事は分かっている。分かってはいるが、理解と感情はまた別なのだ。
悔しさにハンカチを噛みながら、しかし彼女はここではたと気付いた。
そう、今日ここに来てから驚かされたあの存在を。
「写真……写真は……? イザンバ様の事だから絶対に撮ってるんじゃないですか? もしかして……アダム様も……⁉︎」
「それはもちろん! ばっちりです!」
「見せてくださいお願いします! この通りです!」
「二人とも、いい?」
希望を見出し必死に頼む友人に、イザンバは本人たちの意思を問う。
見上げてくる幼い彼女に、イルシーより先に反応したのはヴィーシャだ。彼女は悩ましげなそぶりで吐息を吐いた。
「そうですねぇ……ジンシード子爵令嬢様」
「はい!」
元気な返事と共に期待と不安を抱いた瞳が向けられた。二人の視線が交わった時、ヴィーシャは見たものを骨抜きにするように艶然と微笑んだ。
美女の妖艶な笑みと一気に上がった期待値にカティンカの頬も紅潮する。そして、さらに見せ付けられるは嫋やかな親指と人差し指で作られた丸。
「いくら出します?」
「おい、パクんな」
うっとりするほどの甘い声で、まさかのがめつい発言。本家本元のツッコミは右から左にスルーである。
さて、肝心のカティンカはと言えば張り切って、なんなら起立して挙手までして答えた。
「それはもちろん全財産ー!!」
「ちょっと待ってー!」
だというのに対面から勢いよく水を差された。慌てた様子で声を張ったのはアーリスだ。きょとんとした青空を向けられ、彼はこほんと咳払いを一つ。そして宥めるように、諭すように、穏やかな声音で言った。
「カティンカ嬢落ち着いて。全財産はダメです」
「推しのためのお金、いつ使うの! 今でしょ!」
「いいカモすぎてびっくりします。破産しちゃいますよ」
「え、大胆不敵なアダム様が見られるんですよ? エロ可愛いイヴが見れるんですよ? 本望です! アーリス様も男性ならキャットスーツの美女、見たいですよね?」
「…………いや、僕はもうザナに見せてもらったので」
「だからそんな余裕を⁉︎ 羨ましい!」
全力で羨ましがられた。推しを語る時にキラキラとしていた瞳もいまやすっかりとギラついて圧が強い。
——確かに男なら見たいと思うけど……あれ? カティンカ嬢は男だった? いや、令嬢だよね?
一瞬、彼女の性別に対して疑問を持ったアーリスだが、男装している時ならいざ知らず、今はちゃんと女性に見える。
しかしながら、「推しに性別は関係ない」と力説していた事を思い出せば、彼女の必死さもなんとなくではあるが理解は出来るわけで。
「分かりました。とりあえずカティンカ嬢は座っててください。ザナの友達が目の前で破産するのは嫌だし、僕が代わりに交渉しますね」
「アーリス様、ケチっちゃダメなんです。写真の価値はご存知でしょう? ここはしっかりと積んでいかないと!」
「そうですね。公正な取引を心掛けますね」
カティンカの意思を聞きつつ、いい感じに修正していくアーリス。
彼らのやり取りにコージャイサンはクツクツと喉を鳴らして笑っていると、イザンバが側に戻ってきた。小さな体を抱き上げて膝に乗せたが、彼女は視線を兄たちに向けたまま嬉しそうに言う。
「おお……! なんかいつのまにかなかよし? それにおにいさま、こうしょうじょうずです」
「アルは問題なく領地を治めてるんだから当然だろう。でも、ザナも気を付けろよ」
いきなり自身への注意に代わって首を傾げるイザンバに、コージャイサンも無意識なのだろう。その声はまるで幼子に言い聞かせるように優しい。
「立場が変わるんだ。もう言い値で交渉に乗るなって事だ」
「あー、ね。そんなこともありましたね。はい、きをつけます。でも……」
「ん?」
「たぶんカティンカさまみたいになっちゃうから、そのときはまたとめてくださいね」
例えば興奮していたとしても、あなたの声なら届くから——。
そう言われたようでコージャイサンの眼差しは一等柔らかくなる。
「分かった」
今の見た目はどうしたって婚約者には見えないのに、それでも微笑ましいと二人の語らいを周りは優しく見守っていた。
さて、そんな周囲の視線に気付いたイザンバは気恥ずかしさからフードを引っ張り顔を隠す。それでも見えている赤い頬をつつきながら、コージャイサンが場を取り仕切った。
「そっちの話はついたか?」
「うん、一応ね」
「そうか」
アーリスの返事にコージャイサンも分かっていたように簡単に返す。
ヴィーシャも本気でふっかけたわけではない。見るだけならタダで、欲しいというならこの値段でと実に良心的な値段で話は収まった。文句を言うイルシーはスルーである。
「あいにくと伯爵は不在のようだが時間は有限だ。さっきも言ったがこれは伯爵の要望でもある。さぁ——ザナの撮影を始めようか」
「はい、喜んでー!」
開始の音頭が告げられれば、メイドたちによって続々と運び込まれる大量の子ども服。クタオ伯爵家に保存されたものプラスアルファに今度はイザンバがすんとなる番だった。
コージャイサン総監督の元で始まった撮影会。
——懐かしのお出掛け着にはツインテールで
——小さな軍服は膝丈のフレアスカートを揺らして
——シルバーグレイのツナギには工具を持って
服は次々と変わり、シャッター音に比例して積まれていく写真。そして、開きっぱなしの扉からは「こっち見て」「手を振って」とリクエストが書かれた紙を広げている使用人たち。いつの間にか大集合だ。
「ああ、どれも可愛い! お嬢様、次はこの服を!」
「そのままちょっと首傾げてみて……イイ! イイです! 幼女なお嬢様最高です!」
お客様の前だというのにシャスティとケイトも大興奮だ。初見のアーリスは申し訳なさそうに眉を下げてコージャイサンに詫びた。
「ごめんね。普段はもっとちゃんとしてる人たちなんだけど」
「慣れたから気にするな」
「あ、そうなんだ。それで——……」
彼の反応は有り難いような、申し訳ないような。これ以上言葉を重ねる方が失礼に当たると判断したヘーゼルが別の人物を追った。
「カティンカ嬢はそこで何を?」
「はっ! すみません! あまりにも楽しそうでつい!」
なんとカティンカは使用人たちの中に違和感なく混ざっている。ちなみに持っている紙は「投げキッスして」。もちろんイザンバはしっかり応えているので、カティンカと使用人たちの歓声が止まない。
そんな彼らの様子を仕方がないなと見守るアーリスにコージャイサンが疑問を投げかける。
「いつの間に呼び方を変えたんだ?」
「さっき、君たちがいない間だよ」
「ふーん………………これなら問題ないか」
だが相槌を打った後の小声はアーリスには届かず。
「え? なーに?」
「こっちの話だ。じゃあ俺も同じように呼ぼう」
「ぬぁっ!!??」
この発言に誰よりも驚いたのはカティンカだ。席に戻ってお茶を飲もうとしていたところ、驚きすぎてまたおかしな声が出た。
大変栄誉な事ではあるが、なにぶん相手は公爵令息。すでに散々な姿を見られているとは言え、彼相手に親しさを出したいのかと聞かれればカティンカは大声でノーと言いたい。
彼にとっては婚約者の友人の一人。
彼女にとっては友人の婚約者。
だからこそ『オンヘイ公爵令息様』と呼んでいるのに、アーリスに続き名前呼びの許可がおりるとはこれ如何に。
「カティンカ嬢、どうぞ俺のこともコージャイサンと。あなたはザナと大変気の合う友人ですから」
「キョ、恐縮至極ニゴザイマス」
だがしかし、悲しいかな身分制度。カティンカは本当に恐縮して粛々と頭を下げた。
——自分はあくまでもイザンバと大変気の合う友人である
そして、このスタンスを大事にしていこうとカティンカは心に決めた。
友人が並々ならぬ決意を抱いたその脇で、撮影中のイザンバが息を吐く。
「ふぅ……いつもよりつかれました」
「休憩しようか。ザナ、おいで」
「はい」
彼の手招きに従って近づくとまた当たり前のようにコージャイサンの膝に座らされた。
——あれ? さっきから自分で座ってない気がする……。
兄の膝から婚約者の膝へ。とうとう気付いてしまった事実にイザンバが対面への着地を目論んでいると、目の前に差し出されたティーカップ。溢したらいけないし、と両手でしっかりと持って大人しく飲むが、そのカップが回収されたところで、いざ……とはいかず。
口元に差し出されたのはフォークに刺さったチェリーパイ。
「はい、あーん」
「……じぶんでたべられます」
そう言ってフォークに向かって手を伸ばすもそのフォークが皿ごとひょいと逃げる。言わずもがなコージャイサンが遠ざけたのだが、リーチの違いを存分に見せつけられた気分だ。
「ザナ」
目の前には楽しげな色を滲ませた翡翠と美味しそうなチェリーパイ。
体力も幼児なイザンバは撮影で疲れた今、甘いものが食べたい。
口を開ければいい状態で用意されても人前であーんは恥ずかしくてしたくない。
しかし、フォークも皿もコージャイサンの手にあり、幼児では届かない。
食欲と羞恥心が天秤の上でころころと比重を変える。悔しげに悩む彼女をグーッと小さく鳴く腹の虫が背を押したこの瞬間——天秤は一気に食欲に傾いた。
「………………あーん」
「ん。ゆっくりでいいからな」
「……あい」
満足そうな翡翠に見守られ、イザンバはもぐもぐと咀嚼する。本来の彼女ならもっと粘っていただろうが、今は幼児化を言い訳に腹の虫と共に素直に甘えよう。
「尊おおおいっ!!!」
「くぅっ……! 婚約者様、どうかそのまま撮影を……! 何卒、何卒お願いいたします!」
「好きにするといい」
荒ぶる周囲を意識的にシャットアウトしているイザンバ、コージャイサンはそんな彼女らに一瞥すらくれず許可を出す。そうなれば当然歓喜の声が沸くわけで。
撮影機が二人に向けられた為、アーリスはカティンカの隣へと席を移した。




