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さて、イザンバの鼻血が落ち着いたのを確認してサロンに戻った御一行。
「せっかくだからお兄様も」と誘われたアーリス、着替えを済ませたコージャイサンも加わり席順は先程と変わり、男性、女性に分かれた。
外で活動して、と言うよりも興奮から渇いた喉をお茶で潤すと、従者たちによってテーブルの上に積まれていく紙の山、山、山。それを見て、帰ってくるまでの出来事を知らないアーリスは驚きよりも感心が勝った。
「……すごい量だね」
「今日は二倍だから。ねぇ、お兄様。これお父様たちに見せていいですか?」
「え? これも撮ってたの? うわっ……なんだか恥ずかしいね」
「カッコいいですよ」
ニコニコとしたイザンバにパフォーマンスの写真を見せられてアーリスは気恥ずかしそうに頬を掻く。両親に見せたら間違いなく画廊に追加されるであろう。
そして、イザンバの手は別の一枚へ。
「カティンカ様も見てください。ほら! すごく素敵なレグルスですよ!」
「なにこれいつの間に⁉︎」
そこには確かにレグルスの姿が収められていて、撮られていた意識がないだけにカティンカは驚きを禁じ得ない。
けれども、イザンバから手渡された一枚は彼女の意識をしっかりと掴んでいて。
——熱に浮かされた瞳が
——紅潮した頬が
続く言葉がなくても彼女がその虜になっていることを告げ、イザンバとケイトは互いに目配せをして親指を立てた。
再現された美しさに目も心も奪われて。カティンカの中に渦巻く驚嘆と歓喜と感動は、声量に現れて飛び出した。
「っ…………あぁ、レグルス様だ……! レグルス様だ! え、私の要素なくない?」
「ほら、これとか。マジ顔っぽくて最高に最高すぎてヤバくないですか?」
実際は真剣にステッキを回しているだけだが、手元を写していないからその表情にのみ注目が行く。
「推しをこんな形で何度も拝めるなんてどういう事ですか! 写真すごい! すごすぎて意味わかんないです!」
「ふふ、喜んでもらえて嬉しいです。まだまだありますよー!」
「供給過多ー!」
ずらりと並べられた写真にカティンカがこぼすのは嬉しい悲鳴。イザンバはブレたものなどを避け、写りの良いレグルスのみを選別してさらに友人の前に並べていく。
「ねぇ待って無理尊い。うわぁ〜〜〜ん、推しが存在する奇跡! 最高すぎてニヤける!」
「分かります! これも……はうっ! シリウス様の棒術! リゲルの好戦的な笑みも良きー! 待ってどれも美しすぎて困るんですけど!」
「あぁぁぁ! これとか本当ヤバい! この角度カッコよすぎ! イザンバ様見てー!」
「え、どの角度ですか? ちょっと実物で再現を……あ、カティンカ様、表情抑えて……」
「どうですか?」
「ダメです。喋らないで」
写真と同じ角度になるように移動したイザンバだが、ヘーゼルに灯るのは真剣さそのもの。真面目な声音でぴしゃりとお喋り禁止を言い渡されてカティンカは口を噤む。心なしか背筋が伸びた。
「もうちょっと恐れ知らずっぽく……違う、ニヤけてます。余裕を醸し出すように口角を意識して上げて……そう、頑張って……もうちょっと……ここ! この角度です! カッコいいー!」
細かい指示のあとカッと目を見開いたイザンバが上げた歓喜の声とは反対に、カティンカはそっと自身の頬の筋肉を撫でさすった。
写真を見ながら声量増し増しで盛り上がるオタク女子二人の対面。特に気にする素ぶりもなくお茶を飲むコージャイサンの隣で、ポカンと口を開けて見ていたアーリスから納得したような声がこぼれた。
「……ああ、なんか理解できた。確かにザナと気が合いそうな方だね」
「そうだな。まぁアルの心配も分かるが、彼女は大丈夫だ」
流れで席を共にしたアーリスだが、子爵令嬢という存在につい穿った見方をしてしまった。
コージャイサンと同じくコスプレをしていたけれども、イザンバと同じ趣味を騙るだけで、それがもし彼に近づく為のものだったら……。
しかし、それは杞憂に終わった。
サロンに戻ってきてからも子爵令嬢は妹と盛り上がるばかりで美貌の公爵令息をチラリとも見ない。むしろコスプレ写真に全神経が注がれていて、男性陣においては全くと言っていいほど眼中にないのだから。
「コージーがそういうなら間違いないんだろうね。……ごめん、気を遣わせたよね」
肩の力が抜けたアーリスの視線はコージャイサンの背後、イルシーへと向いた。
未だリゲルのコスプレをしたままの彼があの場に残った理由を察していたから。
「気にするな。俺が勝手にしている事だ」
「……——ありがとう」
友を思って少し気を回しただけ。何でもないように言う彼の心配りにアーリスは感謝の念を滲ませた。
そんな美しき男の友情の一幕をとんと見逃して。
「ああ……男装からしか摂取できない栄養が全細胞に染み渡っていく! 今日も元気に生かされています! カティンカ様、ありがとうございます!」
「私の方こそ貴重な体験をさせていただいてありがとうございます!」
うっとりと写真を眺めていたイザンバだが、カティンカも負けじと声を張る。その手には今もしっかりと写真が握られており、見るたびに表情筋が緩んで全くレグルスらしくないが。
「あ、気に入った写真があれば持って帰ってくださいね」
「いいんですか⁉︎ こんなお宝なのに⁉︎」
「お宝だからこそですよ」
「ありがとうございます! え、どうしよう……どれか一枚…………」
自身の前に並べた写真の中から選ぼうとしたカティンカだが……どの写真も良すぎてとてもではないが選べない。その苦悩の深さたるや。
「くぅっ……! 無理だ! 私には選べない!」
「そんな! 一枚と言わず何枚でも!」
イザンバの言葉にくわっと見開いたカティンカの眼力と言ったら。男装中ということもあり、かなり強い。あまりの強さに驚きイザンバの肩がびくりと震えた。
「写真の価値分かってますか⁉︎ 画廊を見た貴族たちの目がどれだけギラついていたかご存知ない⁉︎」
「えーっと……。コージー様、そうなんですか?」
しかしパーティー当日は画廊どころではなかったイザンバは当然貴族たちの反応まで感知していない。助けを求めるようにコージャイサンに視線を向けた。
「さぁ。俺も写真を見た先輩たちから羨ましいと言われただけだから」
「あ。その言い方はチック様たちですね。それって写真が珍しくて羨ましいって事ですか?」
「いや。ザナとイチャついている写真が多くて羨ましいって叫んでたな」
「ごほっ!」
しまった。まさかのブーメランが飛来した。あちらにもそんな風に言われていたなんて、とイザンバは顔が熱い。
頭を振って熱を追い出し、何食わぬ顔をしてカティンカに告げた。羞恥心の後回し? 今は全力で見えないフリをしたい。
「レグルスはカティンカ様の為に撮ったんですから。遠慮なさらずにどうぞ」
「太っ腹すぎてマジで神ー!」
にこやかな笑顔のイザンバに対してカティンカが感激のあまり流すのは滂沱の涙。その雫を止めてじっくりと吟味し始めた彼女だが、一枚の写真が目に留まった。
絶妙な角度でイザンバの顔は見えないが、赤紫の髪の向こうにのぞくコージャイサンの口元が無駄に色っぽいその一枚。
——これ……。
「ねぇ、イザンバ様。私もちょっとやってみたいんですけどいいですか?」
「はい、なんですか?」
カティンカは徐に立ち上がると片足だけをソファーに乗せた。イザンバを囲うように左手を背もたれについて、右手で彼女の髪を一房持ち上げると真っ直ぐに向けられた視線。口元はもちろん、先程の再現を意識して。
「『力がないと何も守れない。なぁ、そうだろ? お姫さん。大人しく俺の手を取れ』」
「ブフォッ!」
男性っぽく聞こえるように低めの声で紡がれたセリフは油断していたイザンバに大層打撃を与えた。
その反応に気をよくしたのか、ニカッと笑うその表情は素のカティンカのもの。そう分かっていてもイザンバは頬が熱くなるのを止められない。
「くっ、うぅ…………こんなの……こんなの……新しい扉、開いちゃう!」
「こら」
しかし、だらしなく表情が崩れるイザンバの視界を背後に回ったコージャイサンが掌で遮った。
彼の素早い動きに驚いたカティンカは友人から離れたが、その際に魔王にでも会ったかのように体を強張らせてしまい、その場で直立不動である。
「そうやってすぐに新しい扉を開こうとして……油断も隙もない」
「違うのコージー様。開いてたんです。おいでおいでーって大歓迎されてました」
「気のせいだ。今すぐ閉めろ」
「えー」
これにはイザンバご不満である。しかしコージャイサンも不満なのだから、さてどうしてくれようか。コージャイサンは一つため息を吐くと、彼らに告げた。
「二人とも悪いが少し席を外す。あなたもその間に着替えてくるといい」
「僕はいいけど……ぷっ、あははははは! ジンシード子爵令嬢——……ふふ、やっちゃいましたね」
——翡翠の冷ややかさに
——ヘーゼルの揶揄いに
カティンカは顔色をなくした。
「調子に乗って誠に申し訳ありませんでしたっ! 少しと言わずどうぞごゆっくり!」
彼女は詫びる。それはもう全力で。コージャイサンの真似してみただけなのに、なんて言い訳は口にしない。冷や汗を流しながら直角に腰を折り全身全霊で詫びた。
けれども、これにイザンバが待ったをかけた。
「やだ待って! どうぞしないでください!」
「では、お言葉に甘えてそうしよう」
「すでにオーラが不穏! お兄様助けて!」
コージャイサンは言うが否やイザンバを立ち上がらせた。その手はしっかりと絡め取られていて。こうなったらもう彼女は逃げられない。
それでもイザンバは兄に向かって懸命に空いている手を伸ばした。すると彼の方も手を動かす。
「いってらっしゃーい」
「なっ……薄情者ー!」
手を振るアーリスのイイ笑顔に見送られ。
従者たち? もちろん主人の意向が最優先なのだから助けは見込めない。
イザンバは売られていく仔牛の気分を味わった。
クタオ邸の廊下に響く二つの足音。スタスタと、歩を進める彼に引っ張られているイザンバが懸命に声を上げた。
「コージー様! ここは冷静に話し合いましょう!」
「そうだな。じっくりと——話し合おう」
「違う! 冷静に!」
懇願虚しくコージャイサンは迷う事なく足を進め、辿り着いたのはイザンバの部屋だ。随分と物が少ないように見えるのはオンヘイ公爵邸への荷造りのためだろう。本棚の隙間が目立つ。
コージャイサンはイザンバを中へ入れると、後ろ手に扉を閉めた。そのまま離れようとする彼女を腕の中に抱き込む。きつく、きつく。腕を突っ張る事もできないほどに。
コージャイサンが顔を寄せれば、潤んだヘーゼルに混ざる緑。再現の時と同じように顎を持ち上げたが今度は——止まる事なく食んだ。
ここに着いてから会話はなく、ただ唇の触れ合う音だけが耳に届く。
深く、浅く、ただ彼女の意識が己だけに向くように。
どれくらいそうしていたのか。
重なる唇から漏れる苦しげな吐息。その様子を盗み見たコージャイサンは腕の力を緩め、唇を離す。それでも離れる事を惜しむようにゆっくりと。
「っ……も、くるし……」
「まだだ。新しい扉はちゃんと壊しておかないとな。それとも——……俺と今から別の扉を開いてみるか?」
「み゛ゃッ……」
するりと腰を撫でて返ってきた彼女の反応に喉で笑いながら、そっと首筋に唇を寄せる。
「なっ、待って! ダメです!」
「分かってる。跡はつけてない。ああ、でも……ウエディングドレスで見えないところならいいか?」
「何言ってるんですか⁉︎ ダメです!」
結婚式目前、メイドたちが毎日のように肌を磨いているのだ。どこにつけたって見られるというのに。
恥ずかしさから語気が強くなる彼女にコージャイサンは微笑んだ。いつにも増して色香を含んだ翡翠に上から覗き込むように見られたが、今度は周りを遮る髪はない。
「なんで? ちょうどベッドもあるし、夫人は既成事実バッチリかと聞いてくるんだし。ついていた方が夫人は安心するんじゃないか?」
扉を背にした彼の視線がちらりと向いた先。そこに何があるか見なくても分かるから、イザンバの体温はひたすらに上昇して。
「そんなわけないでしょ! が、我慢するって言ったり、せま、迫ってきたり……コージー様のばか! お色気オバケー!」
「オバケ、ね。じゃあ——……襲われてみるか?」
悪戯な笑みを浮かべたあと、低く艶やかな声が耳を掠める。
ぶわりと、さらにイザンバの顔に赤みが増した。慌てて鼻を抑えた彼女は怒っているような、困っているような、羞恥心に火を灯す彼の言動に振り回されて。腕を突っ張り、身を捩り、なんとか抜け出そうともがき始めた。
ところがコージャイサンはそんな様子にクツクツと喉を鳴らす。
「揶揄いすぎたな。あと三日我慢するから……許して」
「……返答に困るので黙秘で!」
「やだ」
「やだって……」
「ザナ」
囁く声が甘え乞う。鼻先が触れ合いそうな距離で。
「許すって言って」
真っ直ぐに見つめた先のヘーゼルは戸惑う心を表すように揺らいだ。けれども、翡翠は甘さを滲ませながらもどこか確信めいた強さを持っていて。至近距離で見つめ続けられ、とうとう降参した彼女は弱々しい声で言った。
「………………許します」
「よし、言質は取った」
「どういう事ですか⁉︎」
「んー?」
驚きの声を上げるイザンバに、けれどもコージャイサンはわざとらしく首を傾げる。なんとあざとい事か。
——あと三日我慢するから『その時には跡をつける事を』許して。
けれども彼は決して口を割らず、色香を含んだ笑みを浮かべている。それが余計に彼女を焦らせて。
「ねぇ! 絶対何かよろしくない言葉が隠れてるでしょ⁉︎」
「さぁ、どうだろうな。そんな事より、次はザナの番だ」
待ちわびるように翡翠が楽しげに揺れた。
活動報告にサロンに残ったメンバーの会話劇、アップ予定です。




