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結婚式3日前
イザンバがウキウキと準備を進めた三日後。カティンカはクタオ伯爵邸へとやって来た。きっちりとした執事の先導に従って足を動かしているが、思考はここに至るまでを振り返る。
イザンバから遊びに来て欲しいと手紙が届いた時、子爵邸は上へ下への大騒ぎとなった。そして開かれた緊急家族会議。
「どうしてあのクタオ伯爵令嬢からご招待が⁉︎ すぐに新しい服を買いに行かないと!」
「何故あなたが新調するんですか! これはカティへのご招待よ!」
「え! カティ、どういう事だ! いつの間にご無礼を働いたんだ⁉︎」
「そういえば先日使いの者が来たわ……はっ、あなたまさかオンヘイ公爵令息に何か——……は、ないわね」
服を新調せねばと慌てる父に、他の令嬢たちと同じく横恋慕したのかと考えたが瞬時に思い直した母は真顔である。弟はすぐさま母に同意した。
「この嗜好の腐ったオタクが公爵令息に手を出すとか絶対にないって言い切れるけど……姉さん! 何をしたのか知らないけどすぐに謝ってこい!」
「ひどくない⁉︎ 私オンヘイ公爵令息様とは挨拶もした事ないし、イザンバ様は偶然からだけど友達になったんだから!」
「嘘付くなよ! やっぱ頭沸いてんだろ!」
「嘘じゃないし! 生のイザンバ様はね、年下とは思えないくらい素敵で可愛い人でn……」
「あの方は救国の火の天使様なんだからそれはそうだろう」
弟と言い合っていたカティンカの言葉を父が遮ったのだが、その言い様は崇拝に近い。
確かにあの浄化の炎は彼らの友を、心を救った。だがどうにも両親は紫銀の火の天使とイザンバを同一視しているきらいがある。
けれどもカティンカは知っている。火の天使と呼ばれる彼女は生身の人間で、自分たちと同じように笑ったり落ち込んだり、婚約者を想って頬を染める可愛らしい人だという事を。
二次元と三次元の分別がついているからこそカティンカは父の物言いが気に食わない。しかし、その事を言い返すより先に続いた弟の声のなんと冷たい事だろう。
「腐ったオタクと友達になるわけないだろ」
「はぁ⁉︎ あのね、イザンバ様だってシリ……っと。何でもない」
「なんだよ。ま、まさか……クタオ伯爵令嬢の尻を触ったのか⁉︎ この変態が!」
「違うわよ!」
カティンカは頬を膨らませた。本人の了承なしにオタバレをかますところであると気付き思い止まっただけなのだが、まさかの変態扱い。解せぬ。
険悪な姉弟とは反対に両親はがっくりと項垂れた。オンヘイ公爵家、クタオ伯爵家の両家と直接関わることはなくても邪魔にはならないよう、これまで通り粛々と貴族としての義務を果たしていくつもりであっただけにショックが大きい。
「そんな……火の天使様の尻を触るなんて……だからオタクをやめろと言ったんだ! すぐにお詫び行かねば我が家は終わりだ!」
「これは断罪だ……絶対に姉さんのキモさに気分を害されたんだ……本当最悪の趣味だよ……」
「ならカティを行かせてはダメよ! さらに気分を害されてしまうわ!」
「それもそうだ!」
母の言葉に頭を抱えていた男二人が顔を見合わせて、三人は新たに対策を考え始める。もちろんカティンカは蚊帳の外。彼女は怒りからぷるぷるとその体を震わせた。
「みんな好き勝手言って……少しは人の話を聞きなさーい!」
イザンバの名誉の為、彼女がオタクである事を隠しつつ友人になったと説明したが、中々納得しない家族にあれは大変だったと後のカティンカは語る。
——イザンバ様と友人になっただけでこの言われよう。オンヘイ公爵令息様の婚約者なんて周りからもっと言われたんだろうな……そんな中でオタクを隠し通すなんて本当すごい人だわ。
さて、そんな振り返りも執事の足が止まった事で終わりを告げた。
扉の向こうからイザンバのハイテンションボイスが漏れ聞こえてくる。カティンカが不思議そうな顔をしているとカジオンは彼女に向かって申し訳なさそうに眉を下げたあと、扉をノックした。
「お嬢様、お客様をお連れいたしました」
開かれたサロンの扉の向こう、満面の笑みのイザンバによる出迎えなのだが、その奥を見てカティンカは固まった。高い位置で結われた赤紫の髪、切れ長の紫眼でとても整った顔立ちをしている黒の軍服の男性が居たから。
「カティンカ様、ようこそおいでくださいました」
「すみません間違えました失礼します」
そうかと思えば彼女はすぐにその場を辞した。淑女の礼も忘れてダッシュである。
「カティンカ様⁉︎」
遠ざかる足音に慌てたのはイザンバだ。こちらも猛ダッシュで追いかけた。
「カティンカ様、待ってください!」
声を張り上げても彼女は止まらない。イザンバはグッと足に力を入れて距離を縮めると、ついに彼女の手首を掴んだ。逃がさないように、引き止めるように、決して強すぎない力で。
足を止め荒い呼吸音を繰り返す友人にイザンバから出た謝罪と懇願。
「驚かせてごめんなさい。でも話を聞いてください」
「すみません来る場所を間違えました! なんなら次元を間違えました!」
「合ってます! 本当に一つも間違えてないです!」
「間違えてます! だってそうじゃないとおかしいじゃないですか! シリウスがいたんですよ⁉︎ 私ってばいつの間に次元の壁を突破したんでしょう! 記憶がない!」
「ああ、それは」
「どうせ突破するならレグルス様のところが良かった!!!」
「ですよね!」
頑なに間違えていると言い張るカティンカだが、これは魂の叫びと言ってもいいだろう。
次元の壁の突破は嬉しい。それはもうとんでもなく嬉しい。
しかし、目の前に現れたのは推しは推しでもイザンバの推し。なんだこの残念感は。キラリと目尻を濡らす程に溢れた悔しさを処理しきれずにカティンカは全身全霊で嘆いた。
「そのお気持ちは大変よく分かりますがちょっと落ち着きましょう! 残念ながら次元の壁は突破してないんです! 悲しいくらいに健在です!」
「マジで!!??」
「マジです! ほら、私がいるって事はカティンカ様が知る世界、同じ次元でしょう?」
自身が仕掛けたサプライズで混乱を極めている友人に申し訳なさを募らせながらも、イザンバは努めて穏やかに話しかける。
その声にカティンカはイザンバの顔をじっと見て。確かにそうだと、暴走する思考を落ち着かせるために、ゆっくりと、ゆっくりと深呼吸をした。
「……そうですね。じゃあアレは白昼夢?」
「いえいえ、現実ですよ。とりあえず説明しますからサロンに戻りましょう?」
差し出された淑やかな手に誘われて、カティンカは再びサロンへと向かった。しかし、先ほどの光景が夢か現実か分からずに、あと一歩というところで歩みが止まる。
「ほら、大丈夫です。怖くないですよ〜」
イザンバに手を引かれながら宥められ、意を決して恐る恐るサロンを覗き込んだ。
彷徨った青空が捉えた彼はソファーに座っていた。頬杖をつきながら向けられる冴え冴えとした紫眼。その後ろに控えるのは同じく黒の軍服を着た水色の髪にアイスブルーの瞳の幼い顔立ちの男性の姿も。
カティンカは叫んだ。
「やっぱりシリウスがいるー! っていうかリゲルまで!」
「ねー! 本当二人とも完成度エグすぎて何回見ても感動しちゃう!」
信じられない、と驚嘆を露わにする自身とは反対に、隣から瞳をキラキラと輝かせて発せられた言葉。カティンカはギョッと目を剥いた。
「何回見ても⁉︎ え、シリウスってそんな頻繁にクタオ伯爵家に来てるんですか⁉︎」
「シリウス様の姿は二回目ですけど、あの人自身は何回も来てますよ」
「ちょっと理解が追いつかない! どういう事でございましょうか⁉︎」
「だってあのシリウス様はコージー様ですし」
何でもない事のように、むしろそれが世界の常識かのように、イザンバはけろりとそう宣った。
「え?」
聞かされたカティンカの脳内を疑問符が占める。彼女の視線はソファーにいる彼とイザンバを行ったり来たりしたが、さりとて理解出来たのかと言えばそうではない。
「ごめんなさい、イザンバ様。私の耳、おかしくなったのかもしれないです」
疑うは己が自身。可愛い友人の婚約者で、巷でも超絶人気の公爵令息の愛称なんて聞こえていない。聞こえるはずがない、と耳を押さえた。
けれども、彼女の耳はいつも通り音を拾う。揶揄うようなイザンバの声音もしっかりと。
「あら大変。治癒魔法かけてもらいますか?」
「……誰にですか?」
「あそこでシリウス様のコスプレしてるコージー様に」
二度目だ。イザンバはニコニコとしているが、それでも他者を婚約者と騙ることはしないだろう。
そう結論づけると同時に、とうとうカティンカは現実を受け止めた。
「どどどどどどど、シリ、こ……えぇぇぇえ!!??」
「んー……『どうしてシリウスの姿でここにいるんですか?』で合ってます?」
現実に驚きすぎて言葉が喉に詰まる彼女はイザンバに向かって何度も首を縦に振った。
聞く姿勢となった友人にホッと息を吐くとイザンバは二人の間に立ち、柔らかな笑みを向ける。
「まずはご紹介しますね。コージー様、私の友人のカティンカ・ジンシード子爵令嬢様です。カティンカ様、いつもと姿が違いますがこちらは私の婚約者のコージャイサン・オンヘイ公爵令息様です」
カティンカは少しばかり固い淑女の礼で高位貴族からの言葉を待った。緊張感からジワリと手に汗が滲む。
コージャイサンは立ち上がると紳士の礼を。
「初めまして。コージャイサン・オンヘイです。随分と驚かせたようで申し訳ない。あなたの事はイザンバから聞いています。とても気の合う友人が出来たと喜んでいましたが、どうやらその通りのようですね」
なにせ二人のやり取りは興奮と声量も相まって筒抜けであったのだから。
「きょ、恐縮です。ジンシード子爵がむしゅめ……娘、カティンカと申します。名高きオンヘイ公爵令息様にお会いできて光栄でしゅ……です」
噛んだ。もうすでに色々とやらかした感はあるものの、改めての挨拶で噛むとなると恥ずかしさは倍増だ。カティンカとしては羞恥から熱くなった顔をこのままあげたくない。
「走って喉も渇かれたでしょう。どうぞそちらに」
「……はい。失礼いたします」
だがしかし、悲しいかな身分制度。まるで我が家のように席を勧めているが、彼はこの中で最上位。下位貴族であるカティンカは粛々と従い、示されたソファーに腰を下ろした。
「ザナはこっち」
「はい」
差し出された手を取ったイザンバは彼の隣へ。二人のやり取りに羞恥心も忘れてニマニマと頬が緩んでいたカティンカだが、コージャイサンから視線を向けられて慌てて表情を引き締めた。
お茶を出したケイトが壁際に戻り、友人も喉を潤したところを確認してからイザンバは遅れてもう一人を紹介した。
「あ、そうそう。後ろのリゲルはコージー様の部下です」
「つまり……リアル主従萌え⁉︎」
「そうなんです!」
「いや、そこかよ」
アイスブルーの瞳に違わず冷めた視線をいただいたが女性二人は気にする様子もなく。
イルシーはカティンカに騎士の礼をするとそれ以上は口を噤み、ただ静かにコージャイサンの背後に控えた。
「コージー様がここにいるのは、私が友達出来たヤッフー!って言ったからですね」
それともう一つ、今日帰ってくる兄の為。ちょっとした保険であるが、彼がいれば見知らぬ令嬢がいても心強いのではないかと考えたのだ。
しかし、今回の誘いはイザンバの思いつき。防衛局に勤めるコージャイサンが来られるかどうかは返事をもらうまで彼女自身にも分からなかった。まぁ、コスプレに興奮しているせいでその辺りはだいぶ霞んでいるが、これはカティンカに言う必要はないだろう。
「それでね、カティンカ様。二人のこの格好はコスプレと言います」
「コスプレ」
「はい。物語の登場人物に扮装して愛でたり愛でられたり。キャラの感情や表情、仕草などを模倣し 二次元の世界を三次元へ投影する。つまり、キャラへの尊敬と愛をもってして演じる素晴らしき2.5次元です! 断じて設定だけパクって俳優の顔のままでしている三次元の舞台とは訳が、いえ、格が違います!」
グッと拳を握り込んでのイザンバの力説。その意味を咀嚼してカティンカはやっと理解が追い付いた。しかし、ここで浮上した新たな疑問。
「えっと、その理論でいくとオンヘイ公爵令息様はシリウス推しって事ですか?」
「いえ、シリウス様推しは私です。コージー様が扮してくださっているので大変ありがたく拝み倒し愛でさせていただいてます」
「つまりはイザンバ様の為にあの姿に……? そんなのって…………ヤバっ!」
「ねー! 太陽並みに輝きまとってるし、この光で光合成して生きてける……ああ、やっぱり推ししか勝たーん!」
「婚約者を前にしてそれはダメでしょ! ってかパーティーでお見かけした時よりもうっとりしてませんか⁉︎ この熱量差は見せたらダメなやつでは⁉︎」
しかし焦るはカティンカばかりなり。
コージャイサンはイザンバの熱の籠った視線にふわりと微笑みを返す。間近で推しの微笑みを浴びた彼女はこれだけでノックアウトである。
ふらりと傾いだイザンバの体を支えると、そっと頬を指の背で撫でた。そして紫眼をイザンバに向けたまま言う。
「ご心配なく。それ以上の可愛い顔を見ていますから」
「ナニソレ惚気ですね。当たり前に言い切るとか最高です。本当全力でありがとうございます」
勢いよく頭を下げ、心底の礼を述べるカティンカ。壁際ではメイドたちが同意を示すようにうんうんと頷いている。
現実に戻ってきたイザンバが気づいた時には周囲の視線が大変生温いものになっていた。そんな空気を変えるように彼女は懐から取り出した数枚の紙をテーブルの真ん中に置く。
「カティンカ様、これ見てください!」
「ぬぁっ!!??」
様々なポーズを決めたシリウスのコスプレ写真をみせられたのだから、変な声が出たのも仕方がない。
「さっきまで撮らせていただいてたんですけど、めちゃくちゃカッコよくないですか!」
「うわ、カッコいい! ガチのシリウスじゃないですか! これってあれですよね? オンヘイ公爵家の画廊に飾られていた写真っていう新技術」
ところがイザンバからの返事がなく首を傾げたカティンカだが、当の本人は手で顔を覆っている。
「あれ? 違いましたか?」
「…… 画廊、ご覧になったんですか?」
「そりゃ解放されてましたし見ますよね。二人とも素敵でしたよ! イチャイチャ写真、もっと増やしたらいいと思います!」
イザンバから出たのはなんとか絞り出したかのような小さな声だったが、いい笑顔で親指を立てる友人にますます羞恥心が煽られた。
「恥ずか死ねる!」
「大丈夫! 強く生きて!」
「うぅ〜……」
カティンカがどこまでも軽いノリなのは仕方がない。だって他人事だもの——今は。
身悶えするイザンバの背中をコージャイサンが優しく撫でさする。そのおかげか、ほんの少し気持ちが落ち着いたイザンバが礼を言おうと見上げた先、いつもと違う色合いに少しだけ混ざる物足りなさ。そんな自身の心に苦笑が浮かぶ。
彼女の表情にコージャイサンは不思議そうに瞬いたが、イザンバは礼を言いながらにこやかな笑みを返す。そして、カティンカに向き直った。
「画廊の話は今はいいんです! で、やっぱりカティンカ様と言えばレグルスな訳ですし」
そう言いながら浮かべられたにんまりとした笑み。
「カティンカ様。レグルスにお会いしませんか?」
「はい……?」
「シャスティ、ヴィーシャ、よろしくお願いしまーす!」
「はい!」
「あーれー???」
脳内は疑問符に占められたまま、カティンカは煌めく笑顔のメイドたちに連行されて行った。
にこやかに手を振って見送るイザンバにはちょっとした達成感が湧いたが、そこに隣から呆れた声が水を差す。
「ザナ、彼女のあの様子は分かってないぞ」
「え、嘘っ⁉︎」
冷静なコージャイサンの指摘に驚くイザンバを見て、イルシーとジオーネは予想通りとばかりに息を吐き出した。




