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結婚式6日前
翌日のクタオ伯爵邸。結婚式が終わればそのままオンヘイ公爵邸に移るイザンバは小さな感傷に浸りながら邸内を巡る。
——ダイニングも
——サロンも
——書庫も
——東屋のある庭も
この家の娘として過ごした思い出を辿るように。
「よう、イザンバ様」
「うひゃあっ!」
しかし突然声をかけられてイザンバの体が跳ねた。この声かけはイルシーだと瞬時に分かったが、驚きからいつもよりも加速した鼓動のまま、すぐさま振り向いて抗議した。
「ねぇ! その登場の仕方どうにかならないんですか⁉︎ せめて足音だけでも出してください! 心臓に悪いです!」
「イザンバ様は毎回いい反応するよなぁ」
「わざと⁉︎ わざとなんですか⁉︎」
「ハッ。何言ってんだか。気配消すのはの暗殺の基本だろぉ」
それはもう染み付いた習性。何を言われようとも変える気はないとばかりにイルシーは鼻で笑い飛ばす。
彼の出自を考えれば仕方がないかと、イザンバは声には出さず、ただ諦めたように笑った。
「そうですか……それで今日はどういった用向きですか?」
「コージャイサン様からの届けもんと伝言。『夜に伝達魔法を繋げる』ってよぉ」
「わかりました」
気怠げに差し出された小箱を開けると、ベルベットクッションの上に直径二センチにも満たない水晶玉が一つ。なんだろう、と首を傾げる彼女にイルシーは続ける。
「それと……——例の件について、完了の報告に参りました」
その改まった口調にイザンバはピンと背筋を伸ばした。
「え、本当に! ありがとうございます! とりあえずサロンに、あ、でも準備が……!」
「先に行ってんぜぇ」
「はい! 私もすぐに行きますから!」
ゆったりと歩き出すイルシーとは反対に、イザンバは自身の部屋に向かって慌ただしく廊下をかけて行った。
さて、護衛たちに軽く事情を説明して二人と共に荷物を抱えてサロンに向かうと、イルシーは存在を隠さずに、それはもう堂々とソファーで寛いでいた。そんな彼に護衛二人は呆れるが、イザンバは全く気にする様子もなくワクワクと弾んだ調子で声をかける。
「お待たせしました!」
「お早いお着きでぇ」
「お嬢様、これらはどこに置きますか?」
「そうですね……まずはジャケットから作ろうと思うのでその濃茶と赤の生地と同色の糸を魔法陣の上に、残りはあっちのソファーに置いてください。パーツ別に分けてあるんで混ざらないようにお願いします」
「かしこまりました」
ジオーネに端的に指示を出すと、彼女はイルシーへと向き直った。
「では、早速。カティンカ様に変装することって出来ますか?」
「当たり前だろぉ。俺を誰だと思ってんだぁ?」
ニヤリとイルシーの唇が弧を描く。立ち上がった彼が風を纏い、焦らすようにフードを外せばそこにはカティンカの姿が。
「それでこの後は何をするんですか?」
「おー」
カティンカの声で尋ねるイルシーの見事な変わり身に感心したイザンバが拍手を送る。そして、メジャーを引っ張りながらニコニコと告げた。
「じゃあサイズを測りたいんで服脱いでくれますか?」
「馬っ鹿じゃねーの」
「あはははは! カティンカ様の顔と声でその言い方は違和感がすごい!」
ケラケラと楽しそうな笑い声とは反対に、吐き出されたため息は従者三人分。
何を依頼していたのか事前に聞いていたが、それにしても脱げと言うとは思わなかった。イザンバに残念な人を見るような目がヴィーシャから向けられた。
「お嬢様、見た目は女体でも中身はれっきとした雄です。迂闊な事言わんといてください」
「例え相手が女の格好をしていても油断してはいけません。襲われたらどうするんですか?」
ジオーネに問われてイザンバはぱちりと瞬いた。そして、イルシーに顔を向けると思案する間もなく断言した。
「イルシーが? ないでしょ」
主従の絆を知るからこそ、彼が自分をそんな対象に見ていないとイザンバは言う。
それはそうなのだが、彼女たちが言いたい事はそうじゃない。何故だろう、全幅の信頼なのに頭が痛い。従者三人は脱力するばかりだ。
「そりゃそーだけどなぁ。つか、コイツらが言ってんのはそういう意味じゃねーし」
「分かりました。その辺りはご主人様とじっっっくりお話しください」
しかし、珍しくジオーネが早々に引いた。なんて事はない、コージャイサンに丸投げしただけだ。
ただイザンバはその言葉に何やら不穏さを感じて体を震わせていて、ますますヴィーシャの瞳に残念そうな色が混ざった。
「もう、しゃあない人……お嬢様、わざわざ測らんでもイルシーの事やから数字も把握してますよ。書き出させましょ」
「そうなんですか? じゃあお願いしますね。それを元にすぐに錬成するからイルシーはそのまま試着してください。初めて作るものもあるからしっかりと確認したくて」
「てか、服作るだけならサイズが分かれば別に確認とか要らねーだろぉ」
「いえいえ、素敵なレグルスを拝む為には欠かせない準備があるんですよ!」
訝しむイルシーに構わず、鼻歌を歌いそうなほどにご機嫌な彼女は思考を次の段取りへと飛ばす。忠臣の騎士の挿絵を見て細部までイメージを頭に叩き込む。集中し始めたのかその眼差しは真剣そのものだ。
その様子を頬杖をつきながら見ていたイルシーが誰に聞かせるともなしにぽろりと言葉を吐き出した。
「…………マジで似たもんカップルだよなぁ」
「何を今更。口はええから早よ手動かしぃ」
「へいへい」
ヴィーシャからの圧にイルシーは乱雑にオレンジの髪を掻くと、ペン先を迷うことなく動かした。
その日の夜。伝達魔法のけたたましい警告音をワンフレーズで止める! と意気込み備えていたイザンバだが、別のところからチリン、チリンと使用人を呼ぶような鈴の音が鳴った。そう、コージャイサンの届け物である小箱から。
「え、まさか……こっち⁉︎」
慌てて小箱を開ければ小さな水晶が明滅しているではないか。しばし呆気に取られたイザンバだが、ベルベットのクッションごと取り出して水晶に魔力を通す。すると小さな水晶にコージャイサンの姿が映し出された。
『——ザナ、聞こえるか?』
水晶の小ささに似合わず、しっかりと耳に届く彼の声にイザンバは頷きながら明るい声を返す。
「聞こえてます! コージー様、こんばんは! 伝達魔法使うって言うから待機してましたけど、こっちが鳴るとは思いませんでした!」
『前に警告音が煩いし、時間も短いって言ってただろ? 改良してみた』
「え! つまりこれが改良版⁉︎」
『ああ。緊急時しか使えないのは不便だしな。時間は通信を切るまではいくらでも』
確かにイザンバにも言った覚えはある。あの時はしっかりと休んで欲しい一心だったが、仕事だって忙しかったのにまさか本当に改良していたとは恐れ入る。
「コージー様すごいです! 伝達魔法って話す内容も三分以内に纏めなきゃいけないし、あの警告音には本当焦らされましたから! それにしても随分と小型化したんですね」
『その方が持ち歩きやすいと思ったんだが……水晶が小さい分、ザナの顔も小さくて表情が分かりづらい。ここはなんとかしないとな』
「声はしっかりと伝わってますし、別に顔は見えなくてもいいんじゃ……?」
『どんな時でも好きな相手の顔はちゃんと見たいだろ』
「ア、ハイ」
コージャイサンはいつもの調子なのだが、言われた方が妙に照れる。イザンバはつい周りを確認して、誰もいなかった事にホッと安堵した。
『ザナから見てどうだ? 気になる点はあるか?』
「うーん……。確かにポケットにも入りそうですけどうっかり落として割っちゃったり、コロコロ転がっていって見失いそうじゃないですか? あと……この大きさだと子どもが飲み込んじゃって危ないなーと思いました」
『……飲み込むのか? これを?』
その言葉に水晶に映る小さな翡翠が少しだけ大きくなった。声の調子で驚いた事は伝わってきたが、確かに表情は分かりずらいなとイザンバも思った。
しかし普段子どもと接する事のないコージャイサンにはピンと来ないのだろう。イザンバは柔らかな声音で続ける。
「そうなんです。孤児院にね、乳幼児がいるんですけど小さい子ってなんでも口に入れちゃうんですよ」
『食べ物じゃないのに?』
「その分別がまだ付かないから口に入れて確かめるんです。おもちゃも布も紙も刃物も石も、危ないとか分からないからとにかくなんでも。だからお母様も孤児院に行く時はアクセサリー付けていないんです。あ、鼻の穴に豆を詰めちゃった子もいます」
『豆』
「なかなか取れないしあれは焦りました。飲み込んじゃったのならまぁそのうち出てくるかなって思えなくもないけど、気道を塞いじゃったら窒息しちゃいますから。だから今後売り出すつもりがあるならこのサイズはやめた方がいいと思います」
『……成る程な。俺たちの子どもが飲み込んだら大変だし水晶に拘る必要もないな。形を変えるか』
「おっふ……ソレガイイトオモイマス」
さりげなく、気負いなく、放たれた『俺たちの子ども』というワードにイザンバの羞恥心が反応して密かにダメージを負った。
——悪戯のような偶然で成った幼児化
——あと数日を待たずに垣間見たギラつく熱
その先を妙に意識してしまう自分にまた羞恥が込み上げてくる。イザンバは水晶から少しばかり体を遠ざけて、火照った頬を手で仰いだ。
さて、コージャイサンは改良した伝達魔法を披露するためだけに繋げたのではない。本題はこれから。
『アルが帰ってくる日に合わせてジンシード子爵令嬢を呼ぶって言ってたな。いつだ?』
「今回は早めに帰ってきてくれるみたいで、式の三日前です」
『ふーん。俺も休みだし行っていいか?』
「是非!」
嬉しそうに承諾するイザンバだが、コージャイサンの思惑としては直接会って人となりを見極めたいところだ。
『それで……ジンシード子爵令嬢を呼ぶにしても、まさかいきなり見合いの席を設けるのか?』
「ふふ、お見合いじゃないですよ。ただ私の友人として紹介するだけです。それとは別にカティンカ様にはぜひ推しを堪能してもらおうと思ってます! ねぇ、コージー様……」
どこか言いにくそうにもじもじとしていたが、それでもイザンバは勇気を出して願い出た。
「あのね……あのね、カティンカ様が来る日にシリウス様のコスをもう一度してくれませんか⁉︎」
『却下』
「なんで⁉︎」
しかし悲しいかな。すげなく却下である。ああ、何故だろう。水晶越しに冷ややかな視線まで伝わってきそうだ。
『どうせ絡み本の再現とか言うんだろ』
「そ、そんな事ないですよー」
スイーッと泳いだ目に気付かれていないといいな、なんて考えるイザンバの耳に届くため息。それは分かりやすいほどに落胆を含んでいた。
『遊びとはいえザナは俺が他の女性に触れても平気なのか?』
「え?」
『俺は例え同性同士に見える格好でもザナに他の男が触れると考えただけで嫌だ。なんなら相手を凍らせて砕いてもいい』
「またもや不穏! そんな事言うならこの前ファウストに運んでもらいましたけど⁉︎』
『あれは俺がザナを守れと命じたからだ。緊急時に目くじらは立てない。けど今回は違うだろ? ザナは気にならないか?』
想像してみて、と彼の声が誘う。
『絡み本って言うんだから俺がいつもザナにしているようにするんだよな? レグルスの格好をしたジンシード子爵令嬢の髪に触れて、指を絡めて、腰を抱き寄せて、耳元で囁いて。そのあとキスをしているようにみえるくらい顔を近づける』
「あ……」
元々イザンバも二人が並んだ姿を想像していた。ただしもっと楽観的で、妄想した小説の一場面が見られるという喜びのみで構成されていた。
ところがどうだ。コージャイサンの言葉に釣られるように想像してみたら、シリウスとレグルスでと思うのに、どう頑張ったってそうはならなくて。
モヤモヤと身の内に燻り始めた感情を彼女は知っている。ギュッと痛むほどに心臓を掴まれた感覚に陥って、か細い声を漏らした。
「……………………や、です……」
『うん。俺もそう』
「ごめんなさい……」
『いや、気づいてくれて良かったよ』
「でも、この前ヴィーシャとツーショット撮ってくれたでしょ? あれは平気でしたよ?」
探偵であるクリストフと女怪盗イヴのツーショット。イヴのエロ可愛さに傾倒していたイザンバだが、そこに嫌な感情を持たなかった。
だからこそ今回もイケると思ってしまったのだろうが。
『それはアイツが俺の部下で、怪盗が探偵を誘惑するような仕草はしても距離は詰めてなったからだ。あとは——ザナとアイツの間に信頼関係があるのも大きいだろうな』
ただコージャイサンに言われたから護衛として受け入れた当初とは違う。
——交わした言葉
——守られた約束
——乗り越えたトラブル
その数々にイザンバと従者たちの間にも確固たる信頼関係が築かれているのだ。
コージャイサンの淡々とした声に気づきを得たイザンバは顔色を悪くした。
「どうしよう……カティンカ様にもものすごく申し訳ない気持ちになってきた! 二人を信じてないわけじゃないんです! ただ合わせが見たかっただけで……未熟者でごめんなさいー!」
『オタクを隠さなくていい友人が出来て浮かれるのは分かるけど、そもそもが出会って間もないんだからそれは仕方ないだろう。俺に至っては会ったこともないし』
いくら意気投合したとはいえ、イザンバとカティンカの関係性は何があっても大丈夫だと言い切るにはまだまだ弱い。彼女たちはこれからなのだ。
そして、それは情報のみを知っているコージャイサンもまたしかり。実際の人となりを見極める前だからこそ、不必要な接触は避けたい。まぁ、知ったところでイザンバ以外との絡みは断るだろうが。万が一するとなってもイルシーに丸投げする気満々だ。
「それはそうなんですけど……」
『何?』
「コージー様のシリウス様、素敵だからカティンカ様にも見てもらいたかったなって……」
だが、どうにもしょんぼりとした彼女の声音にコージャイサンはしばし沈黙した後、そっと息を吐き出した。
『…………ジンシード子爵令嬢とは絡まないからな』
「いいんですか⁉︎ ありがとうございます!」
『可愛い婚約者のお願いだからな。ああ、そういえば……一つザナにしか出来ないことがあるんだが』
「なんですか?」
少し身構えたイザンバとは反対に、水晶の向こうでコージャイサンは笑みを深めた。




