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たくさん話し、さらに声を出して笑ったからか、やはり喉が渇く。カティンカはそっとカップに口をつけた。
子爵家よりもいい茶葉に違いない、と思うほどに茶葉の甘みと爽やかな喉越しが心地よい。
ちらり、と盗み見たイザンバはお茶を飲んでいるだけだというのに綺麗で。様になるとはこの事か。
——自分にとって親しみやすいオタクな一面
——祝賀パーティーや本屋で見た淑女な一面
相反する属性を見事に内包するその器にやはり年下とは思えない、と改めて尊敬の念を抱いた。
こうなるとある一点も気になってくる。
イザンバと目が合い、向けられるふわりとした微笑み。それがとても気を許してくれているようでなんだかくすぐったい気持ちになる。
カティンカがもじもじと言葉を繰りだした。
「あの、まだ知り合ったばかりの私がこんな事聞いていいのかなって思うんですけど……他の友達にオタバレとかは……?」
これにはイザンバが少し気まずそうに指を遊ばせながら答えた。
「あ……えーっと、私、歳の近い令嬢たちからは嫌われていたから……あまり友達が……」
社交界の縮図である学園内でも揚げ足の取り合い、泥の掛け合いは横行する。
そう、こんな風に……。
〜〜〜
あれは一年生の頃、後期の試験結果が張り出された時だった。人垣から離れた位置にいたイザンバの前に鮮烈な赤が立ち塞がった。
「あら、イザンバ様いらっしゃったの」
「ご機嫌よう、エンヴィー様」
「試験結果をご覧になりまして? コージャイサン様はまた全試験でトップでいらしたのに……あなた何位でしたの? わたくしなら恥ずかしくてコージャイサン様にもオンヘイ公爵家にも顔向けできませんわ」
エンヴィーとその友人たちはクスクスと嘲り笑う。イザンバが目を伏せると、その存在が忌々しいとばかりにエンヴィーからきつく睨みつけられた。
「あなただってお分かりでしょう? コージャイサン様はいずれ国中に名を馳せる方ですのよ。あなたのような才能も美しさもない者はコージャイサン様に相応しくありませんわ」
——エンヴィー様、今日も絶好調だなー。キツめ美人が睨んでくる迫力……え、組んでる腕の上に胸が乗ってる! すごーい!
ところが、イザンバの思考は絶賛よそ見中だ。
今言い返しても絡まれる時間が伸びるだけなので、神妙に受け取っている風を装い、つらつらと続く嫌味を上手に右から左に聞き流す。
——腕を組んで威圧感を出したいのか、肩が凝るから腕を組んで支えているのか……それが問題だ。
一見すると耐えているような雰囲気なのに、その思考の残念な事。
なにせ嫌味は耳にタコが出来るほど聞いてきたのだから、このくらいお手のものだ。
「早く婚約を辞退なさい。コージャイサン様に相応しいのはこのわたくしよ」
締めのセリフを言って返事も聞かずに去っていくのは彼女が高位貴族であり、その願いが叶って当たり前だからだろう。
——しまった。胸ばっかり見ちゃった……いくら同性でも失礼だったよね。反省反省。
そんな風に内心反省会をしていたため去るタイミングがズレた。一人その場に残ったイザンバに遠慮がちな声がかかる。
「あの……大丈夫ですか?」
「エンヴィー嬢は相変わらずキツい令嬢だな」
表立って高位貴族に楯突けないが、イザンバの婚約者はさらに上なのだから落ち込んでいるように見える彼女を無視をするのも気まずい。そんな空気が流れる。
「お騒がせしました。私は大丈夫です。ありがとうございます」
遠巻きな群衆に軽く詫びるとイザンバは何事もなかったかのように教室へと向かった。
〜〜〜
さて、ただでさえ敵視されやすい立場であった彼女の人付き合いは同級生相手でも、いや同級生相手だからこそ表面的なものであった。
もちろん必要な会話はしていたし、グループワークにも参加していたが、進んで火の粉を被りたい者はいないだろう。皆あくまでも同級生としての距離感だ。
——オタクだと知られればそれだけで攻撃されると分かっていたから
——その矛先はイザンバだけでなく、作者や作品に向かうかもしれないから
——ただでさえ平凡なのにオンヘイ公爵家の足を引っ張る事になるから
それ故に、付け入られる隙を作らないよう淑女の仮面は在学中にその精度をガンガンと上げ、見事エンヴィーどころかナチトーノにすらそのオタクっぷりを気付かせないまま、あの卒業パーティーを迎えたのである。
だが、その距離の取り方が当時からイザンバ自身を認めていた数少ない人たちの存在を曇らせたのも事実。イザンバがその存在に気付いたのは卒業後の事である。
へらりと笑うイザンバに対して、カティンカの顔から血の気が引いた。同時に己の浅慮さを恥じる。今までの彼女の立ち位置を考えれば聞かなくても分かる事なのに、と。
「あわわわ……嫌な事思い出させてごめんなさい! 私で良かったらいつでもお喋りしましょうね! 三つばかり年上だけどいいですか⁉︎」
「はい、嬉しいです! よろしくお願いします!」
それはとても嬉しい申し出で、明るく綻んだイザンバの笑顔にホッと胸を撫で下ろしたのは彼女だけではないだろう。
姿勢を正したカティンカが先ほどよりも慎重に尋ねたのは二人の事。
「えー、あのですねー……お二人って婚約されて長いですよね」
「十歳で婚約したのでもうすぐ九年ですね」
「それじゃあ、その……オンヘイ公爵令息様にオタバレは……?」
「しています」
「いつ頃ですか? やっぱりあの溺愛っぷりが発揮され始めた訓練公開日あたりですか?」
カティンカの言い方に世間からはそんな風に見えてるのかと苦笑が浮かぶが、イザンバはゆるく首を横に振ると正直に伝えた。
「いえ、婚約して一年経った頃です」
「え、そんな前⁉︎ 一体何でバレたんですか?」
「今日みたいに本屋でバレて。あれ? もしかして私隠しきれてない? 新刊ゲットに浮かれすぎてる? いや確かにあの時はだいぶ浮かれてたけど、今日はまだちゃんと出来てたはず……」
自身の擬態について考え込んでしまったイザンバは自信を無くしたようにしょんぼりと影を背負う。
カティンカは慌てた。彼女はそのような失態をおかしていないと懸命に言葉を紡ぐ。
「大丈夫! 一般人にはバレてないですよ! 私はクタオ伯爵令息様から聞いてたからってだけで!」
「つまりお兄様が諸悪の根源」
「なんで⁉︎ そんな事ないですよ⁉︎」
「コージー様にバレた時もお兄様が先に手紙で『妹が好きなキャラのグッズを集めてる』って暴露しちゃってたんです」
「クタオ伯爵令息様、それダメなやつ! ごめんなさい庇えない!」
ここにいないアーリスがまさかの戦犯。前科ありと聞けば、流石にカティンカもぬいを拾ってもらった恩をもってしてもフォローしきれない。
もちろん本人に悪気がない事はイザンバも重々分かっている。ただただ兄がうっかりさんなだけだ。
「ちなみにその時は何を買いに行かれたんですか?」
「1/6スケールのサタン様の極彩色人形が付いていた天地闘争論の初回限定特装版です」
「あ。それは浮かれる」
察した。カティンカには十二分に理解出来てしまう。だってあれカッコいいもんと大きく頷いている。
浮かれて当然だと返されればイザンバも大変気が楽だ。
「頑張って誤魔化したんですけど普段の交流から所々オタク面が出てたって言われて……ショックでした」
「つらぁ……ん? 待って。まさかですけど、あの方も私たちと同類ですか?」
「いえ。興味のある分野においてはある種そうと言えるかもしれませんけど、同類ではないです。私が推しについて語ってるのを聞いてくれたり、勧めたら読んでくれますけど」
「なんだよ神かよ」
カティンカの言葉にイザンバは心底同意する。
彼女と話すほど盛り上がらなくても、好きなものを否定されないというのはやはり嬉しいものだ。
それに登場する素材や術式などの違う観点から楽しんでくれているし、聖地巡礼も一緒に行ってくれるのだから、オタクな趣味に理解を示し、その上で二人で楽しむ努力がされていると言っていいだろう。
なんという神対応だ。オタクを代表して、カティンカはここにいない彼を拝み倒した。
「つまりその頃からオンヘイ公爵令息様はイザンバ様に関心もしくは好意があったんですね」
きょとんと目を瞬かせるイザンバにカティンカは持論を述べる。
好きなものについて語りだしたら止まらないオタクとは話を合わせづらかったり、話していて疲れると感じる人が一定数いる、と。
それもそうだとイザンバも思う。
「オタクって癖が強いからどちらかと言えば理解できないと嫌悪される類です。だから、好意がないなら十一歳で受け入れる事は出来ないと思いますよ。特に貴族は」
体面、伝統、格式、品位。位が高いほど気にしなければいけないものは多くある。
けれどもハマるジャンルによってはそれを大きく逸脱するわけで。
「その頃からイザンバ様のこと好きならあの溺愛っぷりにも納得ってもんですよ!」
腑に落ちたというようにカティンカは力強く拳を握りしめて力説した。
——そう言えばずっと『婚約解消する気はない』って言ってくれたけど……本当に……そんなに前から……?
いつから——なんて彼にしか分からない。
『過去、現在、未来に捧げられたコージャイサン様の愛でイザンバ様がいつでも笑顔でいられるように』
でも、示唆された可能性とこれまでの彼の言動に心の柔らかいところが熱を持つ。じんわりと、じんわりと。
ずっと推しが大切で、心の支えだった。
けれども、いつの間にか当たり前のようにコージャイサンがそこに居て。
イザンバにとってコージャイサンは家族以外で素を曝け出せる相手であったこともあり、その存在は他の誰よりも胸の内を占める。
推しに対する想いと彼に対する想いは同じではない。たくさんの二次元の恋に対して、三次元での唯一だからこそ——……。
イザンバは誤魔化しようのないほどに赤い頬を隠すように押さえて俯いた。
そんな様子をまじまじと眺めてカティンカが呟く。
「うわ、可愛い……これは推せる。カプ推ししていいですか?」
「なんでですか⁉︎」
「だって男女問わず虜にしておきながら歯牙にも掛けない、鬼畜隊長だの酷氷のプリンスだの黒翠の魔王だの呼ばれているような方がイザンバ様のみに表情を柔らげて愛を告げられているんですよ。そんなの……尊いって言うしかないじゃないですか!」
新たな萌えで昂る心のままに。カティンカはいっそ堂々と胸を張った。ここはよその邸宅? そんな羞恥心は自作品を見せられた時に比べたら屁でもない。
だが……これにはもう我慢ならんとついにジオーネが口を挟んだ。
「ジンシード子爵令嬢様……分かっておられますね!」
本来なら空気に徹するべきメイドとして宜しくない対応だが、全面同意であると四人とも実にいい笑顔で親指を上げている。
「待ってみんな。揃っていいねしないで!」
一体今日は何度こうやってコージャイサンの想いを人伝に確認させられた事だろう。イザンバは処理が追いつかないなりに恥ずかしさだけはしっかり認知できるのが悔しい。
さて、空気でなくなったメイドたちもカティンカに向かって次々と口を開く。
「ちなみにですが、クタオ伯爵家の使用人はみなお嬢様と婚約者様を推しています」
「いいね! 私も推します!」
シャスティに賛同し。
「最近はお嬢様と婚約者様のイチャイチャ報告をいただくたびに使用人たちで宴会してます」
「楽しいなクタオ伯爵家。私も混ぜて!」
ケイトに便乗して。
「婚約九年目の記念日にお二人は結婚されます」
「本当に⁉︎ すごいめでたいですね! イザンバ様おめでとうございます!」
ヴィーシャの言葉に間を置かずカティンカは祝福の言葉を向ける。
真っ直ぐな言葉と笑顔に射抜かれたように、イザンバは動けなくなった。
彼女の言葉は驚くほどにすとんとイザンバの中に落ち着いて。手のひらを返した態度じゃない、純然たる祝いの言葉が心に沁みる。
「カティンカ様、ありがとうございます」
花開くようなイザンバの笑みは間違いなく伝えたであろう。そう言ってもらえて幸せだ、と。
心温まる柔らかな空気に誰も彼もが頬を緩めた。




