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「あ。ねぇ、本屋に寄っていいですか?」
唐突にイザンバがそんな事を言い出した。
ジオーネが軽く眉間に皺を寄せたのは以前本屋でトラブルがあったからだ。コージャイサンの誕生日プレゼントを探していた時も絡まれているのだから、護衛としては慎重に動いてほしいわけで。
「本屋ですか? 書庫ではダメなのですか?」
「お茶会であんなお話を聞いた後ですし私もときめきたいんです。あの真新しいインクと紙の新刊の匂い、ふとした時に出会う運命の一冊。本屋は新たなときめきの宝庫なんですよ」
ニコニコと力説するイザンバに果たして護衛たちはと言えば白けた目を向ける。
「そこはご主人様でときめいてください」
「コージー様は心臓に悪いから遠慮します」
「あら。まだ惚気足りませんの?」
「惚気てませんが」
咎めるようなジオーネにも揶揄うようなヴィーシャにもイザンバは否を返す。その顔は微笑んでいるのに目が笑っていない。もし馬車の中でなければ全力で声を上げていただろうに。
逃げないと決めてもコージャイサンのあの色気はイザンバにとって心臓に悪い。思い出すだけで顔に熱が集まりそうで慌てて頭を振った。
「しゃあないですね。まぁゆうて本屋に行くのも残り少ないですし。お付き合いしましょ」
「え? 少ない?」
「はい。お嬢様は公爵家に嫁がれるのですから立場上今までのように帰りに寄り道をする事は今後あり得ません」
ヴィーシャの言葉に首を傾げるイザンバに、ジオーネが今後を説く。その言葉の力強いこと。
たかが茶会一つと侮るなかれ。
セレスティアもお茶会に出掛けるが、厳選に厳選を重ねたものだけで、相手にとって『公爵夫人が来た』という一種のステータスになるよう調整している。
だからと言って本人が頻繁に開催するわけでもないので、その価値は自ずと高まっていく。
この期間、イザンバが自らあちこちに赴いているのは浄化の炎をあげたのは誰かをしっかりとアピールする事はもちろん、防衛局の働きを伝える事、彼女自身の味方を見極める事、そして自身の目を養う事を兼ねていた。
つまり今だけ。今後そういった事は減るだろうし、そうなれば寄り道もできない。
「そもそも高位貴族の買い物は商人を邸に呼びます。公爵夫人も『いつも呼んでいる』と仰っていたじゃないですか」
ジオーネが言うのは至極真っ当な事。高位貴族がほいほいと寄り道していては店の方も対応に困るのだ。いくのならば安全性の確保のためにも予約をして個室を押さえてもらう。
それを聞いて驚愕に目と口を開いていたイザンバはしおしおと縮むように影を背負った。
「じゃあ私はこの先……心揺さぶる本に出会えない……?」
「心配せんでも大丈夫ですわ」
絶望にも等しい未来を憂いて涙目になるイザンバにヴィーシャがふわりと優しく微笑んだ。
「ご主人様はお嬢様の楽しみを奪うような事はされませんわ。今後発売される新刊は全て本屋に並ぶのと同じように直に公爵家の図書室へ入荷されます」
「その為の手配も済んでいますし、図書室の拡充も進んでいます。わざわざお嬢様が本屋に行く必要がないだけです」
ジオーネからも明かされるのはオンヘイ公爵邸で行われている今後の対応。イザンバは声量は抑えて、でもそのヘーゼルを分かりやすいほどにキラキラと輝かせた。
「つまり……私はお飾り公爵夫人として本屋の住人が出来るって事?」
「それは違います」
「それはちゃいます」
護衛たちは声を揃えて即答だ。
つい今し方派閥云々の話をしたばかりだろうに。元気に引き篭ろうしないで欲しい。というか、そもそも……
「冗談でもお飾りだなんて言わないでください。あたしたちの体に風穴が開きます」
ジオーネが切実に。
「そないに飾られたいならご主人様のベッドの上でなんぼでも可愛らしいしたげますけど」
ヴィーシャが妖艶な圧をかければ。
「ごめんなさい。すみません。申し訳ありませんでしたっ」
イザンバはすぐさま謝罪を述べる。
「でも本屋の住人……うぅ、儚い夢だった……いえ、新刊ゲット出来るならなんだっていいです。ゾーイ先生の新刊逃したら私三日は寝込みますよ〜」
しかし彼女もそこは分かってて言ったのだろう。大して落ち込むこともなく、新刊読めるならそれでいいと笑顔を見せた。
ところがどうも護衛たちはその答えがお気に召さないようで。
「お嬢様、チョロいって言われません?」
「いきなりなんですか?」
アメジストにありありと呆れを浮かべて問うヴィーシャにイザンバからは訝しむような声が返る。
その隣のジオーネはその紅茶色の瞳に力を込めてまるで幼子を相手取るように言い聞かせはじめた。
「いいですか? 知らない人から本を貰わない。買ってあげると言われてもついて行かない。特典に釣られない」
「……流石にそんな事しませんよ」
頬を膨らませてご立腹の様子のイザンバに、さぁどうだかと二人は肩を竦める。これからもきちんと目を光らせなければ、と護衛たちは密かに頷き合った。
結局イザンバの願い通り本屋に立ち寄った一行。現れた火の天使と美女二人に人々からはちらちらと視線が集まるが、本人はそれらに見向けもせずに棚の合間を縫うように店内を見て回る。
新刊平積み台の中にゾーイ・レヤモットの新作を見つけた瞬間、護衛たちに分かる程度に華やいだイザンバの雰囲気。彼女がその本を取ろうとしたところ、誰かの手とぶつかった。
「あ、すみません」
「いえ、こちらこそ」
同じ本を求めたのは一人の令嬢であった。
「えっと……お先にどうぞ」
「まぁ、ありがとうございます」
礼を言ってイザンバは淑女の微笑みを浮かべると、また別のときめきを求めて動き出す。
「あ……あの……!」
ところがその歩みを阻む声がかかる。
背後から声をかけてきたのは先ほどの令嬢だ。スイートオレンジの髪の合間から見えた澄んだ青空が迷うようにあちこちへと泳ぐ。それは声をかけた後悔か、それとも別の思いか。
でももう……賽は投げられてしまったから。
「あの……す、少しだけ、よろしいでしょうか?」
「はい、なんでしょうか?」
束の間に流れる沈黙。令嬢は大きく深呼吸をすると意を決したように腹に力を込め淑女の礼を。
「はしたなくも突然のお声がけをお許しくださりありがとう存じます。ジンシード子爵が娘、カティンカと申します」
「私はクタオ伯爵が娘、イザンバです。カティンカ様とお呼びしてもよろしいですか? 私の事はイザンバとお呼びください」
「はい。火の天使と誉高いイザンバ様にお会いできた事、恐悦至極に存じます」
「それでどのようなご用件でしょうか?」
「大きな声ではちょっと……あの、お耳を拝借しても……?」
近づいてもいいか、と問う青空に内心で首を傾げながらもイザンバは静かに手招き待つ。
同じくしてより一層神経を尖らせた護衛たちも令嬢の一挙手一投足をつぶさに見張る。
カティンカは口元を手で隠し、イザンバにそっと尋ねた。
「忠臣の騎士、お好きなんですか?」
「え?」
口から疑問符が飛び出したのは面と向かって聞かれたから。
どう言った意味で問うたのだろう、と体を離して彼女を見遣れば、青空はただひたすらに真っ直ぐで。けれども真一文字に引き結ばれた唇、握りしめるハンドバッグに付けられたぬいすらも緊張によって微かに揺れる。
どう答えようかと考えていたが、それよりも先に周囲から二人へ些か注目が集まっている事に対処した方が良さそうだ。
「場所を変えてお話ししませんか?」
「え?」
「さぁ、参りましょう。うちの馬車がこちらにあります。皆様、驚かせたようで申し訳ありません。」
「あの……お騒がせしました」
彼女に問いかけた形のイザンバだが答えを待たずにやんわりとその手を取った。そして周囲に綺麗な淑女の礼で詫びると笑顔のまま歩みを促す。
まるで連行するように令嬢を馬車へ乗せるとその向かいにイザンバとジオーネが腰を下ろした。
ところがここに来てもカティンカはどこか状況に追いつけていない様子だ。イザンバは眉を下げると真摯に詫びた。
「すみません、少し移動しますね。カティンカ様、今日はお一人ですか?」
「……はい」
返事を聞いてイザンバが静かに視線を向けた先は乗りこんでいないヴィーシャだ。彼女はその意思を汲み頭を下げるとそのまま扉を閉める。
「え⁉︎ 乗らないの⁉︎」
「ご安心ください。子爵家に使いを走らただけです。帰りも我が家からきちんとお送りしますから」
驚き腰を浮かせたカティンカに向けられたのはにっこりと、けれども有無を言わさない綺麗な微笑み。カティンカが呆気に取られている間に、クタオ伯爵家の馬車はゆっくりと動き出す。
「先程のお話ですが、どうしてそう思われたのかお伺いしてもよろしいですか?」
「えっと、私、よく本屋に来るのですがその時に鞄からこれが……大切にしてあるにもかかわらず落としてしまって。防衛局限定品なのに! もうなんたる失態と言いますか落とした事に気づかないまま帰宅していたかと思うと軽く絶望感を覚えたのですがそれをある伯爵令息様が拾ってくださったのです! その時にもしかしてイザンバ様もお好きなのではと思いあたりまして! ちなみに私の最推しは敵将のレグルス様なんですが人気がないのかグッズが全然なくて。でもシリウスも好きっていうかなんなら箱推しなので!」
なんと既視感のある勢いだろうか。
そう言いながら見せられたのはイザンバにも大変見覚えのある、邸で愛でてやまないシリウスのぬい。
——いきなりのカミングアウト!!??
イザンバが呆然とする一方で令嬢の勢いは落ち、言葉が尻すぼみになっていく。
「なので、その、よかったら……少しお話をできないかなと思いましたすみません」
——まさか……。
イザンバの脳裏に過ったのはオンヘイ公爵家からの寄り道。あの時彼は何をしたと言っていただろうか。
「その拾っていただいた方と言うのはもしや……?」
「クタオ伯爵令息様です」
きっぱりとカティンカはその人物の名を言い切った。
予想していた通りとはいえイザンバの身を駆け抜ける衝撃といったらない。だがそれでも、一縷の望みをかけてイザンバは抗う。
「それは間違いなく兄でしたでしょうか? 茶髪というのは我が国で多い色ですし」
「はい、間違いなく。その……立ち去られた後イザンバ様と合流されて一緒にお店を出ておられましたから。お二人はよく似ていらっしゃいますし」
「なるほど。ではどうして私が忠臣の騎士が好きだと思われたのですか?」
「ゾーイ先生の新作を取られていましたし……その、あの時にクタオ伯爵令息様がぬいを見て『妹が同じものを持っている』と仰っていらしたので」
——お兄様ぁぁぁぁぁ! なんでまたうっかりバラしちゃってるのー!!!???
まさかの兄のやらかし。いや、元を辿れば直前に兄にアピールしたせいか。どちらにしても終了のお知らせである。
「そうですか」
揺れる馬車の中、表面上ただただ微笑むイザンバがその脳内でふんわりとした笑顔の兄に全力で物申しているだろうことは、隣に座るジオーネだけが予想できた。




