1
結婚式13日前
コージャイサンが幼児化した翌々日。クタオ伯爵邸に戻っていたイザンバは朝食後ゆったりとした時間を過ごしていた。
元々お茶会の予定があり、その上で連泊する事は憚れて昨日の夕方には帰宅したのだ。
そんな中でリアンはコージャイサンの元に戻る事になった。不用意に出掛けることはしないだろうが、守りが増える事は幼児化した彼の側を離れるイザンバの心配を軽減させてくれる……はずなのだが。
——コージー様、大丈夫かな?
彼女の心はここにあらず。
「お嬢様」
その心がどこにあるのか、容易に推察できるからこそニヤつきそうな表情筋を引き締めてジオーネが声をかけた。
「あ、もうお茶会に行く準備始めます?」
「それもそうなんですが、イルシーから今朝ご主人様が元に戻られたと知らせが入りました」
「本当に⁉︎」
「はい、本当です」
ぱっと明るい笑顔になったイザンバにジオーネも釣られたようにニコニコと返す。
「それで出仕前にこちらに寄られるそうですわ。長居はされへんそうですが、お出迎えの準備をしましょか」
「了解です!」
元気いっぱいの返事にヴィーシャも母性溢れる笑みを浮かべるとシャスティを呼んだ。
さて、朝の肌寒さに日の温かさが加わった頃。
そわそわとサロンの中をうろついていたイザンバは知らせを聞いて飛び出した。逸る気持ちが抑えきれず衝動に従うままに。
玄関ホールから響き伝わる両親の声。曲がり角の向こう、早くも姿を探して彷徨う視線が引き寄せられるように黒翠を捉えれば。
「ザナ、おはよう」
耳に馴染んだ声が彼女を呼ぶ。
陽光を背に浴びるすらりとした体躯、人目をひく麗しい顔のゆるく上がった口角と柔らかな眼差し。幼児ではない見慣れた姿がそこにはあった。
そんなに慌てなくてもと冷や冷やとする父、「はしたないわよ」と言いながらも微笑む母に構わず、安堵と歓喜をあらわにイザンバは一気に距離を詰めた——見上げた先の翡翠を覗き込む勢いで。
「コージー様、おはようございます! 体調は大丈夫ですか⁉︎ 違和感があるとかしんどいとかないですか⁉︎ この指は何本に見えますか⁉︎」
「二本」
ずずいと前に出した指の数を正確に言い当てられ、心底ほっとしたという表情にコージャイサンは眦を緩めて彼女の頭を撫でた。
「心配かけて悪かった。医師の見立てにも異常はなかったから」
「良かった……。もう仕事に行かれるんですか?」
「ああ。先輩の骨がどうなってるか気になる」
楽しみだとワクワクした彼の雰囲気に、イザンバは仕方がないなと眉を下げながらもその声音は柔らかで。
「気にしてましたもんね。綺麗に撮れているといいですね」
不調が残っていないのならば引き止める理由はない。
「ザナが見学中にトラブルがあったと聞いていたが……大変だったね」
「ご心配をおかけしました」
二人のやり取りに口を挟んだオルディはトラブルの内容までは知らされていない。
イザンバに怪我はないが万が一に備えてオンヘイ公爵家に一泊するとヴィーシャから聞いた時には、心配と寂寞の綯交ぜになる男親の心にカジオンを酒に誘ったものだが。
それでも異常がなくなってすぐに出仕し、伯爵家にも配慮を見せるコージャイサンに、気遣いの眼差しを向ける彼はやはり人がいいと言えるだろう。
そんな中でフェリシダがキラリと目を光らせた。
「ところで、お泊まりの間に既成事実はバッチリかしら⁉︎」
「フェリ〜〜〜!」
「お母様!」
ニヤリと笑う母が投げつけた爆弾発言に父娘は揃って抗議の声を上げる。咎めるようなイザンバに対して、オルディは泣きつくような言い方だ。
「ああ、でもザナが子どもに……」
「子ども!!?? もう出来たのか⁉︎」
「違います! 早とちりしないでください!」
コージャイサンの言葉に噛み付く勢いのオルディの目元がすでに濡れている。
ひと足もふた足も吹っ飛んだ想像をする父親にイザンバは厳しい目を向けた。
「俺が幼児化したんです。今朝戻ったばかりですので残念ながら夫人のご期待には添えず」
さりとてそんなに困った風でもなく、コージャイサンは淡々と事実を告げるのみ。
「あらぁ……そうなの」
「なんでそんな残念そうなんですか」
護衛たちならいざ知らず、母親にも既成事実を推奨されてイザンバがフェリシダに寄越すじっとりとした視線。
対して母は誤魔化すように笑う。
「おほほほほほ。それにしてもコージーが幼児化しただなんてさぞ可愛らしい姿だったのでしょうね!」
「それはもうすっごく! 猫耳パーカーも似合ってて本当に可愛かったんですよー!」
「一時的とはいえ子どもの頃の姿を残せて公爵夫人もお喜びだったんじゃない?」
「そうですねー。到着した時には撮影会の準備が出来てましたし」
ころりと転がされた話題にイザンバはドヤ顔で、コージャイサンは遠くを見た。なかなかにハードな撮影会であったのだから致し方がない。
「ザナは幼児化しなかったのか?」
「はい。コージー様が守ってくださいましたから」
「なんだ……そうなのか」
「だからなんでそんな残念そうなんですか」
あからさまに肩を落とすオルディにイザンバはじと目である。内容は違えど母と似たような反応を見せる父の反応はどういうことだろう。
「いや、うちも画廊を作るだろう? ザナが幼児化していたらイルシー君から写真を買い取ろうかと思って」
イルシーが写真を撮っている前提。買い取る気満々の父に向ける視線にさらに呆れを乗せれば、彼は気まずそうに頬を掻いた。
そこへ少しだけ考えるそぶりを見せたコージャイサンがこう言った。
「今頃首席が今回の変身の原因を突き止めているかもしれません。そうなったら……次はザナが幼くなってみようか」
「何言ってるんですか⁉︎」
「俺も幼いザナを愛でたいし。きっと可愛かったんだろうな」
かつての姿を想像するように細められた翡翠。イザンバが何かをいうより前にオルディが喜色満面に答えた。
「それはもう! 親バカと言われようとも可愛かったんだよ!」
「では機会があれば」
「よろしく頼むよ!」
本人を脇に置いて、うきうきと声を弾ませる義父にコージャイサンは穏やかに約束を交わす。
「それで話を戻しますが。俺が幼児化した事でザナが子どもに甘いという事は分かりました」
「そうですか?」
「側にいてすぐに手を貸してたじゃないか。ザナが甘い分、俺は厳しくした方がよさそうだ」
誰に——なんていう必要はない。いつか二人の間に授かる子どもを見据えた言葉に、イザンバは赤面せずにはいられなかった。
照れた横顔を覗き込もうとする翡翠から逃れるように彼女がそっぽを向けば、クスクスと笑う声が耳を打つ。
それはコージャイサンから。
そして、フェリシダから。ただし、こちらはコージャイサンにもその愉悦を向けている。
「ふふ、孤児院で子どもたちと接する時はそうではないわよ。子どもというには大きいけれどリナの指導でもそうだったわ」
妻の言葉にオルディも同意を示すように頷く。
「だからね、それはコージーだからではなくて?」
困っていたら手を貸そうと側にいる。それを慈しむというのではないだろうか。
フェリシダの言葉にコージャイサンは暫しきょとんとした。理解できればじんわりと這い上がる喜びにその頬が緩み。
「それは…………——とても光栄な事です」
——嬉しそうな微笑みの彼に
——娘の行動の愛らしさに満足げに笑む両親に
堪らずイザンバは声を上げた。
「も、もういいでしょう! コージー様はお仕事に行かれるんですから!」
まるで追い出すようだが、赤く染まった頬に照れ隠しである事は一目瞭然。コージャイサンは宥めるようにイザンバの頭をポンポンと軽く撫でた。
「そのリアンだが……ザナから見てどうだ? まだ仕上がってないならこちらに戻すが」
その言葉にイザンバはゆるゆると首を横に振った。そして、穏やかにヘーゼルが笑む。
「いえ。もう必要ないと思います。あれからもすごく頑張ってたし見間違えるほどですよ。だから褒めてあげてください」
「分かった。アイツを成長させてくれてありがとう」
「えっと、はい。私にも……いい機会でした」
コージャイサンからの感謝の言葉にイザンバは胸を張った。他人を見て、自己を見つめ、小さく縮こまった自尊心が背筋と共に凛と伸びたようだ。
その姿にコージャイサンも自然と表情が綻んだ。
「茶会、気をつけて行ってこいよ」
「はい。コージー様もお仕事いってらっしゃいませ」
ところが、のほほんと微笑み合う二人の間を正反対のじめっとした暗い声がつつく。
「うぅ……! まるで新婚さんみたい!」
「あら、新婚なら行ってらっしゃいのキスをしないと」
噛み締めるようにオルディが涙を流していれば、あろう事か妻はさっぱりとした軽さで夫を追い詰める言葉を言うではないか。
それは大層な衝撃をオルディに与え、彼の涙腺を崩壊させるには十分で。
「ダメだー! まだ結婚式も終わってないんだからダメだー!!」
「旦那様ったら……。もう誤差のうちよ」
「ザナはまだうちの子です! 誤差は認めません!」
涙で顔面を濡らしながらもそこは譲らないと駄々を捏ねる夫をフェリシダは冷めた目で見つめた。
「……お父様とお母様がごめんなさい。どうか気にしないでお仕事行ってください」
父母の発言をイザンバは流す事にした。反応したら負けだとでもいうように。
けれどもコージャイサンはくすりと笑うと、その赤く色づいた頬を人差し指の背が撫でる。そのままするすると首筋を、ネックレスのチェーンをあくまでも軽いタッチで。
それだけなのに——イザンバの中で弾けるように熱が増した。
「っ——コージー様!」
「ははっ、ごめん。それじゃあ、またな」
「……はい」
少しだけ頬を膨らませる彼女にまた小さく笑うとコージャイサンは表情を改めて夫妻に向き直る。
「クタオ伯爵、夫人。今日はこれで失礼します。急な訪問にも関わらずお時間ありがとうございました」
「…………ああ、きをつけて」
どうしたって漂う二人の雰囲気の甘さ。オルディが静かに燃え尽きながらも伯爵としての意地だけで返事をした事に、妻と執事はやれやれと肩をすくめたのであった。
活動報告に魔導研究部の小話アップ予定です。




