7
呼びにきた従者たちとダイニングに入った二人はすぐに驚くこととなった。
コージャイサンの席にはまさかの懐かしい子ども用の椅子が置かれているではないか。これにはコージャイサンがすんとなった。
「ささ、主よ。お座りください」
「他の椅子は?」
「ありますが……それでは少々食べにくいのでは」
気を遣ったようなファウストの物言いが辛い。だからと言って素直に座るには成人の心が邪魔をする。
険しい表情の彼にイザンバが目線を合わせるように屈んだ。
「コージー様、私の膝に座りますか?」
イザンバが自らの膝を示すように言えば。
「俺の膝はどうだ?」
いい笑顔でゴットフリートが続き。
「あら、それなら私の膝も空いているわよ」
セレスティアも楽しげに言った。どんな三択だ。両親は確実に面白がっている口ぶりである。
「……自分で座る」
ファウストが引いた子ども用の椅子にコージャイサンは渋々、それはもう渋々座った。だって届かなければ食べられないのだから。
イザンバはコージャイサンの隣に用意された席につき、流石公爵家と唸る料理の数々に舌鼓を打った。
さて、食後のお茶を飲みながらゴットフリートがまるで天気の話をするかのような軽い口調で言った。
「ティア、近いうちに隣国に行ってくる。トムが言う苗を隣国の王族が管理しているらしい」
「ほらご覧なさい。またとんでもないものを言われてるじゃないの」
「隣国なら近いしツテもあるからいいじゃないか」
予想通りの展開にセレスティアが呆れてみせた。本当の幼児ならいざ知らず今回は意図して荒らす事が分かっていたのに。
善処すると言ったくせにこういう所は大雑把なのだから困った人だ。
「コージー、この役目も次はお前だ」
灰色の瞳が楽しげに弧を描き息子に向けられれば、当人はカップを置いて淡々と口を開いた。
「その頃にはトムも隠居して世代交代しているのでは?」
「弟子も成長してきたようだが、あの様子ではまだ粘るだろう」
「そうですか。気力があるなら何よりです」
先ほどのトムの様子を思い返した従者たちが淡々とした父子よりも疲れたような空気を醸し出す。
しかし、ここに理解が追いついていない人が一人。
役目とはなんだろう、と首を傾げるイザンバにセレスティアが訳知り顔に笑みを浮かべた。
「庭を荒らしたヤンチャな坊やたちの為の支払いよ」
「……ティア。その『たち』に俺を含んでいないよな?」
「さぁ、どうかしら」
夫から胡乱な目を向けられても、妻は惚れ惚れするほどの微笑みで受け流す。その麗しい碧眼はそのままイザンバに向けられた。
「ザナは魔力暴走を初めて見たのでしょう? 驚いたのではなくて?」
「そうですね。でも今日は驚くことばっかりで逆に驚かなくなったというか。私では止められるものではないと分かったくらいでしょうか」
驚く労力は魔導研究部で使い果たしてきたと言ってもいい。どちらかと言えば悟りの境地だ。
「まぁ! ふふ、ザナは大物ね」
そんな彼女の様子にセレスティアはコロコロと楽しそうに笑う。
「でもそれでいいわ。魔力暴走を止める事に関してはあなたより適任がいるでしょう。ゲッツやコージーに任せなさい。明らかに能力が足りないのに飛び込むのは無茶ではなく無謀というの。何より無駄よ」
これはまた手厳しい。
だが自分との力量差を理解しているところをセレスティアは評価したのだ。
「あなたはあなたに出来ることをなさい。今のコージーにしているように。赦し、受け入れてくれる存在は何よりも心強いものよ。特に子どもはね」
暴走を止められなくても、その存在を受け止める事は出来ているから、と。彼女はその大きな器で言う。
——子ども……。
イザンバはふとコージャイサンを見た。
——今更だけど貴族で兄弟がいないのって珍しい……。
それはとてもデリケートな疑問。服も、椅子も、とても良い状態で残されているから彼が大事にされている事は一目で分かるが、いくら関係が良好だからと言ってズケズケと聞けるものではない。
けれども、まるで抱いた疑問を見透かすようにセレスティアは笑む。
「いい機会だから話しておきましょうか」
才能豊かな美丈夫であるゴットフリートと美貌の王妹であるセレスティアから生まれた公爵令息。
この時点で血統も、魔力も、容姿も申し分ない。となれば自国だけではなく他国からも引く手数多だ。
オンヘイ公爵夫妻の仲睦まじさは多くの人が知るところであり、すぐに二人目、三人目が誕生すると誰もが思っていた。
ところがセレスティアは言った。
「私が生んだのはオンヘイ公爵家唯一の跡取りよ」
ゴットフリートとセレスティアの子はこの子一人だ、と。
オンヘイ公爵家の正当な跡取りだ、と。
王配となる事も他家に婿入りする事もない、と。
貴族夫人にとって、一番の務めは子を産む事である。それを最低限の役目だけで終わるという宣言は、出産を厭う我儘にしか聞こえない。
そこに生じた嘲りと反発心から自他国の王女の降嫁の話が持ち上がった。
「そう。私では足りないというのね」
王位継承権を放棄したとはいえ、彼女の身に流れるのは王家の血。そして、強い王族の矜持。そこにまだ高貴な血を加えてはどうかと言われれば怒りを買うのも当然だ。
微笑みながらも憤怒を湛えた碧眼に皆震えた。美人は怒ると迫力があるのだ。「滅相もない!」と尻尾を巻いて逃げ帰った。
コージャイサンに兄弟がいないのは、オンヘイ公爵家は王家に、国に、殉ずると示す為。
王位も他家の爵位も簒奪する気はさらさら無い、と示す為。
「私たちに倣う必要はないわよ。これはゲッツが有能すぎるのと、そこに王妹という箔がついたから選んだ道」
才能にさらについた付加価値を利用されない為。
国内に余計な火種が生じる事を避ける為に——彼女は言った。
「あなたたちはあなたたち。孫は何人いてもいいけど一人産むだけでも命懸けだもの。この先の事は二人で話し合いなさい。まぁ今のあなたたちは婚約者というよりも姉弟のようだけど」
「その姿で子どもの話は逆に哀れになるな」
「ほっといてください」
クツクツと笑う父にコージャイサンが無愛想に返す。
いつの間にか自分たちの話になっていてイザンバは気恥ずかしさで身を小さくするばかり。
そんな二人にセレスティアは慈愛の満ちた笑みを浮かべた。
「私の役目ももうすぐ——……」
子の数を絞る事を選んだのは夫妻であるが、その分コージャイサンに全ての重圧がのしかかった。
幸いな事に病気や不慮の事故もなく成長してくれたが、もしも繊細な子であれば耐えきれなかったかもしれない。
だが、幼い頃から息子はよく言えば達観していて、悪く言えば不遜であった。
一人息子が無事に成人して伴侶を迎える——次代に血を継ぐという役目を果たせた、と。
儚い声は隣に座る夫のみが聞いていた。
緩く口角を上げる彼に愛おしさ溢れる笑みを渡すと、セレスティアはイザンバに明るい声を掛けた。
「ザナ、結婚式後にエルザの新作で写真を撮るわよ。もう日は押さえてあるの」
決定事項の通達である。公爵夫人として流行の発信、その広告塔となる記念すべき第一歩の手筈はもう整えられているようだ。
「お店に行って撮るというお話でしたよね」
「いいえ、場所はここよ」
確認のために尋ねたら違う言葉が返ってくるではないか。不思議そうな顔をするイザンバに対してセレスティアはどこかうんざりしたように溜め息を吐いた。
「コージーがエルザを邸に呼べとうるさいのよ。いつも呼んでいるし別にいいんだけど、うちじゃ変わり映えしないじゃない」
「庭やホールで撮るだけでも雰囲気は変わりますよ。母上は飾るのは得意じゃないですか」
「それもそうね! その日はコージーも撮るからそのつもりでいなさい! またお揃いにするわよ!」
「分かりました」
淡々と返す彼は撮られる事には否はないようだ。セレスティアは来る日に思いを馳せ花を咲かせた。
「ザナはどんなデザインが好きかしら?」
「そうですね……コージー様はどんな服も着こなせますし、猫耳パーカーみたいなモコモコスタイルも見てみたいです」
「コージーでは圧倒的に可愛げが足りないわ。それはザナが着なさい。あなた自身の服の好みはどうかしら?」
「あ。えーっと……なんでしょうね?」
どうやら回答が頓珍漢であったらしい。
コーディネートは全てシャスティたちにお任せな彼女だ。セレスティアの質問に答えるべく今までの服装を必死に思い出す。
その後も暫く他愛ない話をしていたがイザンバが隣の異変に気づいた。コージャイサンの首が傾き、瞼も閉じているではないか。
「ふふ、ふふふ」
その様子を両親は肩を震わせて見ている。あの澄ました息子がこうも無防備な姿を見せるとは。
肩を揺らしたままゴットフリートが言った。
「ははっ、さては体力を見誤ったな」
「検証のあとすぐに目覚められて、魔力暴走について記録をしてましたから」
「それでか。いつもと同じようにはいかないだろうに」
仕方ないな、と灰色の瞳に親の情が浮かぶ。いくら流暢に話そうが体はどうしたって幼児。成人よりも素直に——腹が膨れれば眠くなる。
セレスティアも息子に向けていた慈愛深い眼差しをそのまま夫へと投げかける。
「お開きにしましょうか」
「そうだな。誰かコージーを部屋へ」
「かしこまりました」
ゴットフリートの要請を受けてファウストが小さな主人を抱き上げる。そして彼女も合わせて立ち上がった。
「では私も下がらせていただきます」
「ええ。あなたも疲れたでしょう。ゆっくり休みなさい」
ここはセレスティアの言葉に有り難く甘えさせてもらおう。イザンバが扉をくぐろうとしたところで声を掛けられた。
「ザナ」
振り返ると夫妻は揃って穏やかな微笑みを彼女に向けていた。
「ありがとう。コージーを受け入れてくれて。君と出会い、共に生きていける事が息子にとって何よりの幸運だ」
「コージーの事、家の事、子どもの事。これからも気苦労をかけるわ。私たちも力になるからいつでも頼りなさい」
なんと嬉しい言葉だろう。
なんと心強い言葉だろう。
オンヘイ公爵家の一員となる事を歓迎されている、とこうもはっきりと伝えられてじわりと目元が熱くなる。
「恐悦至極に存じます。未熟者ではありますが、お導きのほどよろしくお願い申し上げます」
イザンバは夫妻の思いを真摯に受け止め、また心からの返事として渾身の淑女の礼をした。
認めてもらえたからには自身の持てる全てで彼に尽くそう、と決意を胸に。
さて、コージャイサンの部屋に向かっているのだが、その道中は大変賑やかだ。
「ファウストがそうしてると人攫いみたいやな」
「それを言うならイルシーだろう」
「どっちも大概やわ」
ヴィーシャにあっさりと言われてファウストはしょんぼりと項垂れる。ジオーネがひょいとその腕の中を覗き込んだ。
「だが、この大きさなら簡単に連れ去れるぞ」
「それヤバいね! 戻られるまで主の守りを強化しなきゃ!」
「リアンの鋼線かヴィーシャの鞭を腰に巻きつけておくのはどうだ?」
「それなら太めがいいよね。でも簡単に絞まっちゃいそうだよ。折れちゃわない?」
袖から鋼線を取り出したリアンは小さな主人の体と見比べている。試しに巻いてみようとしたが、するりと躱された。
「だから人形じゃねーっての」
「あー! 人攫いー!」
「イルシー! もっと丁寧に扱わんか!」
「へいへい」
呆れたイルシーが肩に抱き上げスタスタと進む。リアンの不満の声とファウストからの戒める声は右から左に通り抜けているようだ。
彼らと共に歩くイザンバにジオーネが尋ねた。
「お嬢様も部屋まで付き添われますか?」
「そうですね。ちょっとだけ」
イルシーが彼をベッドに下ろすとイザンバはススス、と側に寄った。覗き込んだ先の愛らしい寝顔に全頬が緩んだ。
イザンバはそっとベッドに腰掛け、さらりと流れる艶やかな黒髪を撫でながら「そういえば」と思考を飛ばす。
——姿を変えられた王子様がお姫様のキスで元に戻るってお話もテンプレだけど……。
そんな彼女の目の前には眠れる美幼児。
「いやいやいやいや、まさかそんな」
だが、そう思いついてしまったせいだろうか。気持ちがソワソワと浮ついた。
イザンバはきょろきょろと辺りを見回して。
——さっきまで一緒にいた従者たちの姿はない
静かに眠る彼の顔の前でひらひらと手を振ってみて。
——反応はない
「顔に落書きしちゃいますよ〜」と言ってみて。
——起きない
自分の心音が早くなった事につい身構えた。
もう一度手を伸ばし、さりげなく前髪を触るが起きる気配はない。
ぎしっ、とベッドが鳴いた。顔の横に手を付き身を屈めれば彼の香りは一層強くなり、心音はさらに駆ける。
そして————そっと額に口付けた。
体を起こしたイザンバはじっとコージャイサンを見つめた。だが、やはりと言うべきか暫く経っても何の変化も起こらない。
「ふふ、そんな訳ないか」
思わず自嘲して微笑んだ。姿が変わった原因は悪い魔女の魔法ではないのだから。
それによくよく考えると、もしこの状態で元に戻られても少し気まずい。
彼女は立ち上がり、静かに部屋を出た。
「おやすみなさい。良い夢を——……」
扉が閉まる前、振り向きざまの柔らかな声音だけを部屋に残して。
人の気配も足音も遠のいた、夜のしじまを破るように室内に現れた三つの影。
「これはこれは……イザンバ様もなかなかどうして罪作りな御方ですな」
ファウストが驚いたように言えば。
「え、結局何がしたかったの? 夜這い?」
リアンは疑問符を浮かべ。
「『良い夢を』だとよぉ。あんな事されたら寝られねーだろぉ。なぁ、コージャイサン様?」
イルシーの口元が鬱陶しいほどにニヤついて。
さて、呼びかけられた主人はと言うと、その翡翠を細めて従者たちを見る。
「うるさい」
四文字だけを返し、彼らに背を向けて布団を被り直す。そのまま沈黙した彼に従者たちは肩を竦めるが、それ以上口を開きはしなかった。
従者たちから見えない位置でコージャイサンは額に触れた。
初めての彼女からの口付け。
——自身の姿にも
——口付けの場所にも
ただただもどかしさを覚える。
「……………………はぁ。早く——……」
コージャイサンは火照る頬をシーツの冷めたさに、小さな呟きを夜の静かさに溶かした。
平穏な日常に突如として招かれた過去の姿。
その中に混ざって彷徨き覗く未来。
コージャイサンが元に戻るまで、あと一日。
二人の結婚式まで、あと十五日。
小さな産声が邸に聞こえるまで、あと——日。
幼児を追い庭を荒らすようになるまで、あと——日。
誰も彼もが訪ずれる日を指折り数えて待つ。その胸に優しくも愛おしい想いを抱えながら。
これにて「非日常インビテーション」は了と相成ります。
読んでいただきありがとうございました!




