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コージャイサンが自室のベッドに降ろされる様子をイザンバは少し離れたところで見ていた。
そんな彼女に執事は柔らかく微笑んだ。
「ご心配には及びません。これは経験上の勘でございますが、すぐにお目覚めになられます。ここでお待ちになりますか?」
「……はい」
「では、そのように。若様が目覚められましたらこちらをお渡しいただけますか?」
「はい」
イザンバに魔力回復薬を預け、椅子を用意してから執事が退室した室内。
静かに耳をすませば彼に苦しんでいる様子はなく、穏やかな寝息が聞こえほっと息をついた。
——そう言えば……コージー様の部屋に入るの初めてかも。
八年の婚約期間中、公爵邸で会う時はサロンか図書室で、たまにコージャイサンが時間通りに現れなくても呼びに行くのは執事や侍女だった。
落ち着いた雰囲気の部屋は当たり前のように彼の匂いがする。
今日は驚く事ばかりが起きたせいか、部屋にいるだけでイザンバは包み込まれるような安心感を覚えた。
少しだけ、と部屋を観察すれば綺麗に整頓された卓上にはインテリアのような箱がある。以前イザンバが贈った誕生日プレゼントだ。
そちらに近づいて軽く手を叩けば音に反応して時間が表示された。
「まだ使ってくれてたんだ」
いつも使っている万年筆、積まれた参考資料、チェック済みの書類の上には蛙の文鎮。
サイドテーブルにはイザンバが貸した本。
壁際に立て掛けられた手入れされた剣とダーツボードに刺さる矢。
チェストの上に並ぶ地方に行った時に買ったお土産。
彼が積み重ねてきた時間の気配に、だからこそベッドの上の小ささに違和感を感じて切なくなる。
イザンバは立て掛けられた剣を手に取った。
「わっ! 結構重い」
ずっしりとした重さは先ほど持った子ども用の木剣の比ではない。
出会った頃には同い年と思えない程に落ち着いていて、自分よりもずっと勉強も技術も進んでいた。
たくさん話すようになって、一緒に出掛けるようにもなって。
それでもまだ見えていなかった面があったけれど——。
「そっか……うん。そうだよね」
何かに納得したように頷き自分の中で消化をすると、イザンバは彼の側に戻り椅子に腰掛けた。
じっ、と眠る彼の姿を見る。
「なんだこれ可愛いな。家宝、いや国宝にしない? そうしよう」
すやすやと寝息を立てるその愛らしさたるや。これは何時間でも眺めていられるとイザンバは真剣に思う。
しかしあまりにも整いすぎていて本当に同じ人間かと疑わしくなってきた。精巧に作られた人形だと言われても信じてしまうだろう。
「……顔に落書きでもしてみようかな」
「それは嫌だ」
独り言にまさかのお返事が来た。おや、と思った時にはコージャイサンが胡乱な目で彼女を見ているではないか。
イザンバからふにゃりとした笑みが漏れた。
「起きたんですね。気分はどうですか?」
「んー、悪くない。やっぱり中身まで変わってないからどこか無意識下で加減したんだろうな」
「あれで? まぁいいや。はい、魔力回復薬。飲めますか?」
体を起こしたコージャイサンは差し出された瓶をじっと見たあと、ニコリと無邪気な笑みを見せた。
「口移しで飲ませて……」
「はーい。そんな事言う元気があるならサクッと飲んじゃいましょうねー!」
今度は乗らないぞ、と言うようにイザンバは貼り付けた笑みで瓶をズイッと彼の面前に差し出した。
喉仏のない小さな喉が回復薬をゆっくり飲み干していく。コクリ、コクリと。
空の瓶をサイドテーブルに置いたイザンバに、コージャイサンから少し遠慮がちに声がかけられた。
「さっきの……怖かっただろう?」
婚約してから今日まで、コージャイサンはあのような状態を彼女の前で晒した事はない。
だから、心配だった。明るさの裏にまた隠しているかもしれない、と。
「怖かったですよ」
答えは感情の起伏が読めない声。怖いか怖くないかで言えば怖かった、とイザンバは素直に言う。
どれだけ能力値が高かろうとも、制御を外れればただの脅威だ。
「あんなの私じゃどうしようもないし。あまりにも違いすぎて別次元っていう感じですよね」
これは魔力量が平均的な自身には起こり得ない状況だからこそ知らない世界。
今回は安全な場所にいたが、もしも目の前で起こったとしてもイザンバには手も足も出ないと分かる。
もしかしたら……声だって届かないかもしれない。
飛び込んだら最後、荒波に飲まれる小舟のように、暴風に吹き飛ばされる落ち葉のように、圧倒されて引き摺り込まれるだけ。
それほどまでに凄かった。怖かった。そして自分は何も出来ないと理解した。
「でもね、絶対大丈夫って思ってたんです」
ふわりと声に柔らかな感情が戻った。
その声に俯いていたコージャイサンがイザンバを見た。こぼれ落ちそうなほどに見開かれた翡翠がその真意を問う。
『今また庭が荒れて希少な苗でトムの気が済むかしら?』
「お義母様は気にするところがズレてる感じだったし」
イザンバが知らないだけで過去にこういった事があったと気付いて。
『それに——そう遠くないうちに他人事でなくなるからな』
「お義父様も慣れたような感じだったし」
子どもの魔力暴走が検証だけではなく実際にあった事で誰がその当事者か考えて。
『意識が飛んだら——あとは頼みます』
「コージー様もお義父様なら絶対に止めてくれるって信じていたんでしょう?」
「ああ」
父に対しての強く、揺るぎない信頼感。
魔力を暴走させると言いながらもどっしりと構えた様子に安心感を感じて。
「今までもこうやって対処されてきたんだなって分かったから。楽観的すぎって言われるかもしれないけど、だから大丈夫だって思ったんです」
ドラゴンと対峙しても、暗殺者と対峙しても魔力が揺らぐ事がなかったのは、幼少期より身体と共に鍛えられた彼の理性の強さと細やかな制御能力ゆえ。
イザンバはそっとコージャイサンの手を取った。
掬い上げた小さな手は柔らかく滑らかで剣だこはない。
感情任せに魔力が漏れ出して肌を刺すような冷たさも感じない。
——あの剣の重さを片手で軽々と扱うこの手は、いつだってイザンバに優しく触れている。
「こうやって頑張ってたんですね。えらいえらい」
イザンバはいつもと変わらない笑顔を向けると、その黒髪に指を滑らせ優しく撫でた。
それはあの状態を見ても気持ちは変わっていないよ、と言うように。
溢れる才能は羨望の的。淡々と何でも熟してしまう彼の見えていなかった姿を知って、イザンバは近付けたような気がしたから。
——少し見当違いだが……。
コージャイサンは頭を撫でられるその心地よさに甘えるように目を細めた。
「ありがとう」
ふわりと咲いた笑みは心からの喜びを。
それをみた彼女は椅子に戻ると「怖いと言えばね」と口を開いた。
「研究室にいる時の方が怖かったです。お仕事しているところがみたいって言ったのは私ですけど、言うんじゃなかったなって後悔しました。状況も分からないし、イルシーの言葉を信じるしかなくて」
「色々予測は立ててあそこにしたんだが、正直誰が何をしでかすか俺も読めない」
「でしょうねー!」
彼の返事にイザンバはケラケラと笑う。
変人ばかりの魔導研究部で廊下を歩いていたらどこからか爆発音が聞こえるのも日常茶飯事だ。
「でも、かえって今日で良かったのかもしれないとも思いました」
ところがイザンバは後悔したと言う舌の根も乾かぬうちに良かったと言う。その矛盾にコージャイサンが首を傾げた。
「あのね、け、結婚したらね……コージー様が仕事に行くのを見送って、こうやって突拍子もない姿で帰ってくる日があるんだろうなって思ったら……えっと、ちょっとした予行練習だと思えば……ね⁉︎」
当たり前のように未来を思い描いた自分に、言っているうちにだんだんと恥ずかしくなってきたのだろう。イザンバは頬を赤く色付かせながら誤魔化すように捲し立て始めた。
「っていうか、幼児化も女体化も大歓迎ですよ! 巨大化は邸に入らなくて困りますけど。あ! そういう時用に大きなテントを用意しておきましょうか! みんなでキャンプしたら楽しそうじゃないですか?」
「それはいいけど、人の姿やまともな形をしているとは限らないぞ」
「つまりは獣化! もしくは人外ですか⁉︎ それはそれで大変美味しいですが! ヌメヌメはちょっと抵抗あるけどモフモフもツルツルもバッチこーい!」
「目に見えない幽体とか意思疎通出来なかったらどうする?」
「そこはフィーリングで!」
「変身した影響で記憶がなかったら?」
「はじめましてから始めましょう!」
コージャイサンから示唆される可能性に彼女は怯む事なくいい笑顔で親指を立てる。むしろ楽しみにしていそうなほどだ。
「ふ、ははっ! そういうところ……やっぱりザナだな」
コージャイサンは嬉しそうに笑った。
研究員とて危険と隣り合わせだと、以前に聞いて知っていたつもりだった。けれど、やっぱり心のどこかで騎士や魔術師に比べて安全だと思っていたのも事実。それが今日覆された。
一転してイザンバが神妙な面持ちになる。
「だからね、コージー様」
「なに?」
「どんな姿になっても、ちゃんと帰ってきてくださいね。待ってますから」
もしかしたら二度と言葉を交わせない。一番あってほしくないそんな結末もあるかもしれない。
それでも彼女は言う。紫のアネモネに託した想いは変わらない、と心を込めて。
内側に秘められた覚悟の強さを見せられたようで、コージャイサンは微笑むイザンバに目を奪われた。
小さな手はゆっくりと彼女の右手を掬い上げ。
「ああ。必ず」
その手の甲に唇を落とした。
『行ってきます』に『いってらっしゃい』を。
『ただいま』に『おかえりなさい』を。
限りのある時間を少しでも長く繋げる為に、日々の小さな約束を積み重ねていこう、と。
小さな騎士の姿にイザンバはキュンと心を射抜かれた。見る見るうちに相好を崩し、お返しとばかりに抱きつけば衝動のまま頬擦りをする。
「きゃぁぁぁあ! ちびっこ騎士様可愛い〜〜〜!! もうキュン死にする! 嬉しい可愛い大好きですありがとうございます! 私も守りますからねー!」
「はいはい」
どうしたって今は小さな体で格好がつかないのは分かっていたが予想通りの反応である。
散々頬擦りをしてイザンバの気が済んだろう。解放されたコージャイサンはベッドから降りるとトコトコと机に向かった。
イザンバもその後を追いながら心配そうに声をかける。
「動いて大丈夫なんですか?」
「問題ない。今のうちに魔力暴走の結果を記しておきたいしな」
「ちなみにですけど、子どもの頃に庭を荒らすくらい暴走してたんですか?」
「うーん、どちらかと言うと発散」
「発散」
コージャイサンは物心ついた時には制御できていた。たまに加減を間違えてやり過ぎることがあっても暴走はしていない。
そして、ゴットフリートとしていた手合わせは八つ当たり——ストレス発散である。
「だからザナが知らなくて当然だ」
ニヤリと笑う彼にとりあえず荒らしていたという事は理解できた。
さて、いつも使っている椅子だがサイズ的にスマートに座る事ができず彼はよじ登るように着席した。しかし、やはりと言うか高さが合わない。
仕方なく椅子に膝立ちになって書き始めたが、一文書いて手を止めた。
自身の文字を見る眉間の皺の深いこと深いこと。
「えっと……手習を始めたばかりの頃の私より上手ですよ!」
「気を遣わなくていい。やっぱり不便だな」
なんとか励まそうとするイザンバだが失敗に終わった。
コージャイサンは万年筆を手放すと、不貞腐れたように腰を下ろした。
いつも使っているものでも今の手には馴染まず、その上で握る力加減がうまくいかない。
「これってあの時のコージー様の状態や感覚を書いておけばいいんですよね?」
「ああ」
「箇条書きでいいなら代筆しましょうか?」
「頼んでいいか?」
「はい」
席を空けようと動かしたコージャイサンの体がまた浮いた。
イザンバが持ち上げたのだが、そのまま椅子に腰掛けると彼を膝の上に座らせる。
「じゃあ、どんな感じだったか教えてください」
机に対して椅子は一脚。だからこの体勢なのだろう。
いや、今ならベッドの側にもう一つあるから運べばいいのだが、彼女の意識はもう書く方へと向いている。
コージャイサンは背後を見上げてニッコリと言った。
「書きにくいだろう。あっちのソファーに行こう」
「え、全然問題ないですよ」
「いや、ソファーに行こう」
「大丈夫……」
「ザナ」
「はい」
椅子を運べないならもっと広い椅子に座ればいいじゃないか。そう有無を言わせず紙と万年筆を持ち移動する彼にイザンバも素直に従った。
「あ、もしかしてしんどいですか? 目覚めるの早かったですし。横になります?」
「いや……そうだな。少し膝を借りたい」
「じゃあ下敷きも持って行きますね」
——分かってるけど分かってないんだろうな……。
幼児化してから彼女の反応はずっとそうだった。コージャイサン自身もそこを利用した場面もあるが
——後ろから包み込んでくる温もり
——背面に感じる胸の柔らかさ
気もそぞろになり肝心の幼児の魔力暴走の言語化ができそうにない。それがなければ甘んじて受け入れていたであろうに。
「……参ったな」
イザンバの膝を枕にソファーに寝転がったコージャイサンの呟き。彼女はキョトンと首を傾げた。
「珍しいですね。でも、確かにいつも出来ていることが出来ないと不便ですよね」
「そうだな。ナニをするにしてもな」
「今は仕方ないですよ。我慢我慢」
軽い調子のイザンバに対してコージャイサンが三歳らしからぬ深いため息をついた。つい結婚式まであと幾日だったかと頭の中で密かに数える。
「今戻ったらその我慢も必要ないと思わないか?」
「そうですね。でも戻ってないし、不便でしょうけどお手伝いしますから。はい、じゃあ聞かせてもらっていいですか?」
ああ、彼女はその切り替えの速さでもう違うところ見ているではないか。
結局、二人は夕食に呼ばれるまで書き起こしを続けた。




