5
オンヘイ公爵邸のサロンにて、かの人は扉をノックする音で悩ましげに伏せていた瞼を上げた。
執事が恭しく扉を開けば、この邸で久しく聞くことのなかった幼児の高い声が通る。
「母上、ただいま戻りました」
「よく戻ったわ。と言いたいところだけど……本当にコージーなの?」
「ええ、間違いなく」
セレスティアはソファーに腰掛けたまま手招きをする。
コージャイサンを抱き上げたイルシーが近づいてその御前で跪いた。彼の主を膝に乗せ、その顔がよく見えるように。
真っ直ぐにコージャイサンに向けられた翳りのない宝石と見紛う碧眼。暫くじっと観察したセレスティアが至った結論は……
「もう少し可愛げがあったわ」
「それはすみません」
冴え冴えとした翡翠は特に感情をこめず謝辞を述べた。
彼女は徐に伸ばした指先を息子の頬に埋める。何度も、ぷにぷにと。
「まぁでも……この弾力はそうだったかもしれないわね」
「つつかないでください」
「あら、いいじゃない」
「嫌です」
コージャイサンは母の指先から逃れるように顔を逸らしイルシーの膝から降りた。
「全く……もう少し子どもらしくなさいな」
「残念ながら中身は成人です」
その上で息子は愛想笑い一つ返さないのだから可愛げがない。だが、セレスティアは安堵の息を吐いた。見た目の異常以外は問題なさそうだ、と。
そしてもう一人に視線を向けた。
「ザナも怪我はないかしら?」
「はい。お陰様で傷一つなく」
「そう。でも時間が経ってから異変が出るかもしれないわ。今日はこのまま泊まりなさい」
「ご配慮ありがとう存じます」
イザンバが小さくなってしまった彼のことを気にしているのは一目瞭然であり、セレスティアは命ずる形で彼女の滞在を許可した。
その有り難い気遣いにイザンバは感謝の意を込めて丁寧な言葉で返す。
「伯爵家への連絡はコージーに任せるわ」
「分かりました」
母の言葉にコージャイサンは視線をヴィーシャへと向けると、彼女はすでに承知をしていたようだ。静かに行動に移す。
ふと視線を感じて振り向けば、母が厳しい表情で彼を見下ろしていた。何やらまだ言いたい事があるらしい。
「それにしても……その格好はなに?」
「仕事中でしたので服に関しては仕方がなかったんです」
「だとしてもそんな不格好許さないわ! 湯も着替えも用意してあるからまずは清めていらっしゃい。お前たち、コージーを連れて行きなさい」
「かしこまりました」
セレスティアの言葉にイルシーが再びコージャイサンを抱き上げる。
「少し席を外す」
「はい。ごゆっくりどうぞ」
イルシーとファウストに連れられていく彼をイザンバはひらひらと手を振って見送った。
そして入れ違うようにお茶の用意を始める公爵家の侍女たち。
「ザナ、今日どんな事があったか聞かせてちょうだい」
「はい」
手持ち無沙汰になるイザンバをセレスティアが誘う。
——落ち着いたサロンの雰囲気
——やさしく感じる花のような香りのお茶
温かい淑女のもてなしと彼にとっても安全であるこの場所で。
話している間に着替えを持ったヴィーシャがジオーネ、リアンと共に到着する頃にはすっかりリラックスしていた。
さて、どうやらコージャイサンも支度を終えたようだ。
出た時と同じくイルシーとファウストを連れてサロンへ戻ってきた彼だが、身綺麗にしてきたはずなのになぜか不満顔だ。
それは彼の服装のせい。
反対にイザンバはキラキラとヘーゼルの瞳を輝かせた。
「可愛い〜〜〜!!!」
子ども用の服には違いない。しかし、可愛いと言われているのはサイズ感ではない。
この服、フードを被ると猫耳が生えるのだ。
彼女から歓喜の声が上がるのも頷ける。
着替えがこれしか用意されておらずコージャイサンが風呂場で悩んだのは言わずもがな。
フードを被らなければ問題ないか、と諦めて袖を通したのだが、サロンに着いた途端従者が風で被せてきたのだ。
そのニヤついた口元にイラッとしたのは仕方がない。
イザンバは名残惜しそうにコージャイサンから視線を外すとセレスティアに尋ねた。
「お義母様、これはどうされたんですか⁉︎」
「いいでしょう? 昔の服なんだけどコージーなら絶対に似合うとエルザに勧められたの。でも結局一度も着てくれなかったのよね」
「え! なんて勿体ない!!」
言った。力いっぱい言った。
素直なリアクションにセレスティアも満足そうに同意する。
「そうよね。でも今はザナがいるから——……ふふっ。コージー、ふふふふふふ、可愛いわよ」
「本当に! コージー様もお義母様もマダム・エルザも最高です!」
嫁姑は大変嬉しそうに笑い合っている。
ヴィーシャの報告を受けて、さらにイルシーが撮った写真も見て、セレスティアはすぐに動いた。
おおよそ三歳と聞き当時の服を引っ張り出し。
着替えは下着と靴を急ぎ買いに行かせ。
迅速なセレスティアの指示のもと、仕事ができる公爵家の使用人たちが仕舞い込まれていた服を水の術式で洗い、温風の術式で即乾かす。
そんなわけで猫耳パーカーが念願叶ってお見えしたのだが、コージャイサンが心底呆れたように母を見る。
「早かったら明日にでも元に戻るんですが」
「そんなに早く戻るの? ならゆっくりしていられないわね。さぁ、撮影会を始めるわよ!」
「はい! お義母様!」
続々と運び込まれる大量の子ども服にコージャイサンはすんとなった。
すでにテンションが上がっているイザンバの様子には既視感しかない。従者たちには部屋の隅で揃って主の健闘を祈る。心を込めて、合掌。
さぁ、使用人たちが素早く場を整え始まった撮影会。セレスティア総監督の元、イザンバがカメラを構え軽快なリズムでシャッターがきられ続ける。
「こうやってポーズして……きゃー! すっごく可愛い! もうコージー様がマジ天使! 上手ー! いい子ですねー!」
——猫耳パーカーには丸めた手を添えて
——お出掛けジャケットには澄まし顔で
しまいにはよしよしと頭を撫でる姿は婚約者というよりもまるで歳の離れた姉弟のよう。その姿をイルシーが密かに撮る。
さらに子ども用の木剣を持ったイザンバが尋ねた。
「騎士様の真似っことかしますか? 私悪役やりますよ!」
「しない」
ああ、称賛もうっとりとした熱を帯びた視線も一身に受けているというのに、コージャイサン目のなんと覇気のない事だろうか。
子ども服と共に当時使っていた木剣や絵本まで出されている。セレスティアの張り切り具合に使用人が応えた結果だが、今は仕事が出来る彼らが少しばかり恨めしい。
「僕……もう見てらんないっ!」
わっとリアンが己の顔を覆い。
「中身はお変わりないと分かっておられるはずだが……」
その謎にファウストは頭を捻り。
「完っ全に、幼児扱いだもんなぁ」
流石のイルシーも同情を禁じ得ない。
だからと言って盛り上がる二人を止められるはずもなく、彼らは目の前の光景をただひたすらに見守った。
「次はこれよ!」
「……まだ着替えるんですか?」
母の指示にコージャイサンは顔にも声にもうんざりとした気配を隠さない。
疲れが見える彼に興奮の熱を下げながらイザンバも伺いを立てる。
「あ、でもその前に一旦水分補給しましょう。お義母様、休憩を挟んでもよろしいですか?」
「それもそうね……」
と、ここでセレスティアに執事がそっと耳打ちをした。
「旦那様がお戻りになられました」
「そう。二人とも、私は少し席を外すわ。休んでいいわよ」
そう言ってセレスティアは執事と共にサロンを出た。
彼女が退室した事で従者たちの肩の力も抜けた。やはり公爵夫人がいると中々に緊張感があるようだ。
「ザナの差し入れは?」
「……ああ、はい! すぐに用意しますね! 今回はミニカップケーキにしてみたんですよ!」
イザンバがいそいそとヴィーシャの元にバスケットを取りに行っている間、コージャイサンは先に座ろうとした。
だが、ソファーの座面が三歳児には少し高かった事、幼児の頭の重さと体力のなさに負けた事が相まって後ろに転んで強かに頭を打った。
「コージー様!」
「コージャイサン様!」
「主!」
「ご主人様!」
これには全員が慌てて駆け寄った。中でも一番慌てたのはイザンバだ。
「大丈夫ですか⁉︎ 頭打った⁉︎ 動かさないで。ちょっと失礼しますね。血……出てない! 骨……分かんない! 脳みそ……分かんない! 痛いですか? 痛いですよね。お医者様、まって魔導研究部に走りますか⁉︎」
「落ち着け。これくらい自分で治せる」
ぶっきらぼうに言いコージャイサンはさっさとたんこぶを治してしまうが、転んだ事が恥ずかしかったんだろうなと思えば従者たちはそれはもうニヤついて。
低い位置からそれらを捉えた翡翠が鋭くなるが、まぁ幼児なので迫力半減。むしろ和む。
——元に戻ったら要実技訓練だな。
なんて愛らしさの裏側で冷ややかに考えていると、そっと触れてくる手。様子を窺うように、傷に障らないように。
「もう痛くないですか?」
「大丈夫だ」
そう答えるとイザンバが彼を抱き上げてソファーに座らせた。しかし、どうしてかコージャイサンはため息を吐いた。
「どうかしましたか?」
「色々と不便だなと思って」
幼い体のままならぬ事の多い事。中身が幼児化していないだけに余計にもどかしさが募る。
小さな手を見つめる姿にイザンバも思い至った。
「あ、そっか。座ったらテーブルに手が届かないんですね。じゃあ……はい、どうぞ」
隣に腰掛け、包みを剥がされた一口サイズのミニカップケーキがコージャイサンの口元へ。
これには翡翠が驚いたように瞬き、彼女と菓子を見比べる。
数拍置いてコージャイサンが動いた。パクリ、と。彼女の手からそのまま頬張った。
「うん、美味しい。ありがとう」
「お口に合って良かったです」
「もう一つ」
「はい」
ニコニコとしながらのティータイムは微笑ましいが、しかし……やはり婚約者というよりも姉弟のようにしか見えない。
「お嬢様、しっかり見た目に釣られてはるわ」
ヴィーシャが呆れたように言えば。
「ご主人様はそれを利用されたな」
逡巡した結果の主人の行動にジオーネはただただ感服した。
ミニカップケーキを食べきった頃、サロンに公爵夫妻が現れた。二人の向かい側に腰をおろし、ゴットフリートは幼くなった息子を見て忍び笑う。
「くくく、懐かしい姿じゃないか。だが——……」
コージャイサンに向けられた神秘的な灰色の瞳は弧を描く。面白がるように愉悦を混ぜて。
「もう少し可愛げがなかったか?」
「夫婦揃って同じ事を言わないでください」
冷めた息子の言葉にゴットフリートは肩を揺らしたあと、その怜悧な美貌を微笑ませる。
「マゼランとクロウから報告を受けた。ファブリスには長引いた時の為に元に戻る解除薬の作成、それとなぜ変身効果が三つに分かれたのか。その割合の違いについても検証するよう言っておいた」
「性転換が一番多く、巨大化は二人だけでしたからね」
「ファブリスが面白がっていたから任せて大丈夫だろう」
面白がっている、つまりやる気に満ちていると言う事だ。「それでいいんだ」とやや遠くを見たイザンバにゴットフリートの視線が向く。
「ザナも活躍したそうだな」
活躍というか仮面が剥がれたというか。
彼女にとっては醜態を晒した以外の何者でもないのだが、ここは曖昧に微笑むに留めた。
「コージーが知り合いの腕を切るところを見たくなかったにしても中々有用の手段を得られたと皆喜んでいたよ」
「お役に立てて光栄です」
ほら、言わなくても彼は全てを把握しているのだから防衛局長とは空恐ろしい。
そんな彼が胸ポケットからあるものを取り出した。
「それとファブリスからこれを預かってきた。『また是非』だそうだ」
手渡されたそれは大変見覚えのあるもので。
「首席はあんなだし無理しなくていいからな」
「あははは……ありがとうございます」
コージャイサンの気遣いが嬉しいが、彼女から出てきたのは乾いた笑み。だからと言ってゴットフリートが手ずから持ってきたものを受取拒否ともいかず、イザンバは再び招待券を手に入れた。
「では、コージー。幼児の魔力暴走について検証しようか」
その為に帰ってきたのだから。
腰を上げた夫にセレスティアから漏れたのは気乗りしないような声。
「本当にするの?」
「心配かい?」
「時期が悪いわ。今また庭が荒れて希少な苗でトムの気が済むかしら?」
「それに関しては善処する。それに——」
セレスティアはあの日以来度々出現する剪定鋏を持った悪魔の事を危惧しているが、夫はさらりと流してしまう。
動き出した彼に合わせて執事が扉を開けたところで一度振り返った。その隙に息子はトコトコと部屋を出る。
「ザナ、それとお前たちも来なさい」
「俺らも?」
イルシーが投げ返した疑問に答えはなく、灰色の瞳は有無を言わさず歩き出す。
「——そう遠くないうちに他人事でなくなるからな」
ボソリと落とされた言葉を拾えたのは——……。
さて、庭師トムが丹精込めて世話をしている広い公爵家の庭。その中で計算されて開かれた場所に彼らは来た。
邸を背にイザンバと従者たちが立つとゴットフリートが言った。
「怪我をしないよう結界を張っておくけれど何があってもここから出てはいけないよ。いいね」
「はい」
イザンバにとって魔力暴走は話に聞く事はあっても見た事はない。緊張感を孕んだ彼女の頭にポンッと乗せられたゴットフリートの手。
「心配いらない。安心して待っていなさい」
穏やかに、それでいて力強く言い切るとゴットフリートは彼女たちの周りに、邸に、敷地を囲う塀に沿って難なく結界を張り、息子へと向き直った。
「さて、どうする? 子どものように癇癪でも起こしてみるか?」
「そんな事しませんよ。徐々に放出量を増やします。意識が飛んだら——あとは頼みます」
「いいだろう」
コージャイサンの幼い体から放たれる冷涼な魔力。それはまだ理性によって制御され、術式を展開して庭に季節外れの雪を降らせた。
——ちらちらと降る細雪
——ふわふわと降る淡雪
——はらはらと降る花弁雪
少しずつ姿を変えて陽光を反射し風と戯れる。美しく、余裕のある展開だ。
けれどもクロウと話していた通り魔力が不安定なのだろう。放たれた魔力が制御を外れ始めた。
コージャイサンの小さな体から迸る魔力が理性を喰う。
——べちゃべちゃと降る濡れ雪
体温を奪ってやる、と。
——こんこんと降る粉雪
視界を奪ってやる、と。
——びしびしと降る霰雹
痛めつけてやる、と。
鋭さを持った氷柱がいたずらを仕掛けるように宙を舞う。それは生身のゴットフリートにも向かったが、彼は余裕の笑みを崩さず、さらりといなす。
さらに出力が上がれば瞬く間にびゅうびゅうと降きつける吹雪になり、数メートル離れた彼らの姿を白が覆い隠した。
目を凝らしても、あの黒髪が見当たらない。
耳をすましても、あの声が聞こえない。
結界の向こうはどこを見ても白、白、白。
吹き荒ぶ氷雪の中で所々で父子のぶつかり合う魔力が稲光を発しているのが分かるのみ。
イザンバが祈るように手を握って見守る中、突然吹雪が止んだ。
白く冷えた景色の中、コージャイサンを片手に抱いたゴットフリートが静かに立っている。
彼は術式を展開し積もった雪を溶かした。まるで暖かな春の風が吹くように、柔らかに降り注ぐ春の日差しのように。
そこには元より何もなかったという程に世界を閉ざす白は消え去った。
しかし庭の状態は何事もなくとはいかず。霰雹は草木を無惨に傷つけ土を抉っている。
やれやれと言ったように庭を見たゴットフリートがイザンバたちの方に視線を向けると指を一つ鳴らして結界を解いた。
途端に弾かれたようにイザンバが駆け出した。
「コージー様!」
「大丈夫、気を失っているだけだよ。コージーを寝室へ連れて行かせるから付き添ってやってくれるかい?」
「はい」
ゴットフリートの言葉に従い、イザンバは執事の後を追った。
活動報告にゴットフリート、従者たち、トムの小話をアップ予定です。




