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暫くしてイルシーが動いた。
唇を引き結んだ彼が部屋の方を注視すると突如として扉がガタガタと動き鳴る。ヴィーシャとファウストも臨戦体制をとった。
その振動が止まったと思った次の瞬間——勢いよく吹き飛んだ扉。
「え。今のなんなん?」
「まさか……おい、イルシー⁉︎」
さて、警戒心を引き上げた従者たちが粉塵立ち込める中になにを見たのだろう。
躊躇う事なくスタスタと歩き出したイルシーはファウストの声に振り返りもせず進む。
イザンバに危険が及ばぬよう背に隠しながら従者三人が壊れた扉の前に立てば、すっかり様変わりした室内に息を吐いた。
「あーあ」
「なんと……」
「かなんわぁ」
順にこぼれ落ちた戸惑い驚く従者たちの声。けれども彼らの後ろにいるイザンバには全くと言っていいほど全容が見えない。
「ねぇ、どうなってるんですか? コージー様は? 皆さんは無事ですか?」
「婚約者ちゃん、やっほー! オレだよー」
謎の煙に包まれたにも関わらず暢気な声がイザンバを呼ぶ。
「マゼラン様、ご無事ですか?」
「無事って言えば無事なんだけどねー、オレ……」
「ちょい待ちぃ」
ここでヴィーシャが厳しい声でマゼランの話を遮った。
一体何が起こったと言うのか。従者たちは未だ壁となり中を見せてくれない。
こうなったら強行突破か、と考えたところで、振り向いたヴィーシャのたおやかな手が彼女の視界を塞いだ。
「お嬢様、見たらあきません。あんたらアレ隠したって。無様やわ」
「だって服破れちゃったんだからしょうがないじゃーん。不可抗力だよ」
「お嬢様の眼前にご主人様より先に晒してんな。溶かして使えんよぉにすんで」
唇を尖らせるマゼランの反論に聞く耳を持たず。
ドスの効いたその言葉ににわかに室内の慌ただしさが増した。「やべっ」「それじゃ小さいって!」なんてなぜか女性たちの必死な声と共に部屋をひっくり返すような音が響く。「何使うの?」「何で溶かすの?」というちょっとワクワクした男性の声は気のせいだろう。
非常事態だというのに気を遣わせたことをひしひしと感じてイザンバはひたすらに申し訳ない。
「姐さん! これでいいっすか⁉︎」
「あとは大鍋しかないし。いっそ収納する?」
「………………しゃあなしやで。お嬢様、手離しますよ」
渋々の及第点。ころりと変わった声の高さにぶるりと身を震わせたのは誰だろう。
ゆっくりと開けた視界に待ち構えたとばかりに明るい声が飛ぶ。
「見てー! オレ、おっきくなっちゃった! 体感で2.5倍ってとこかなー!」
マゼランがそれはそれは翅よりも軽い口調で言った。
しかし目の前の現実は決して軽くない。情報処理にイザンバは少しばかり時間を要した。
——えぇぇぇぇえっ⁉︎
叫ばなかったのは大したものだ。
当のマゼランはニコニコとしているが、そんな彼は腰周りに布を被りその巨体を丸めている。そして、マゼランの奥にも同じような人がもう一人。窮屈そうだが、周りに当たらないように配慮しているのだろうか。
唖然とする彼らの元に、茶髪で空色の瞳の女性が駆け寄ってきた。
「イザンバ嬢、大丈夫でしたか⁉︎ 巻き込んですみません!」
「いえ。えっと…………もしかして、クロウ様ですか?」
「はい。こんな事になってビックリしましたよね」
なんという事でしょう。マゼランのお世話係が男性から女性になっているではないか。ツナギが大きいのか裾や袖を捲っており、そこから女性らしい細腕が覗く。
困惑するイザンバに、しかしこちらも慌てる様子がない。
「クロウ様もお怪我がなさそうで良かったです。失礼かもしれませんが……なんだか落ち着いていらっしゃいますね」
「まぁ。たまにある事なので」
「……そうですか」
クロウの発言に心臓が逸る。なんとか飲み込んだ本音と推測を他者に気取られぬよう淑女の仮面でイザンバは問うた。
「あの、コージー様はどちらに?」
「それがコージャイサンだよ」
「それ?」
マゼランが指差した先、扉の横の壁際。
その姿に彼らは目を見開いた。
黒髪、翡翠色の瞳は変わらない。だが顔の位置が低い。
「咄嗟だったとは言え押し出させて悪かった。怪我はないか?」
さらに気遣う声のトーンも高い。
しかし、だからと言って女性的なわけではない。
「はい。それは大丈夫です。あれ? 私の目がおかしいのかな。なんか……あれ?」
「どちらかと言えば俺の状態がおかしいな」
イザンバが何度も目を擦っても、そこに見慣れた彼の姿はなく。
「コージー様が……小さい?」
「これは小さいって言うよりも『幼い』が正しいんじゃないか?」
それにしてもなんと流暢に喋る幼児だろうか。
今のコージャイサンはおおよそ三歳。服はブカブカになってしまって黒の半袖インナーがワンピースのようになっている。
マゼランともクロウとも違う変化。ヒュッと息を飲み込んだ彼女の声に少しの震えが混ざる。
「っ——コージー様、お怪我はありませんか? 見た目すごく変わられてますけど、頭痛とか吐き気とか、ないですか?」
「大丈夫だ」
その色彩も口調も雰囲気も、何よりも首元でしゃらりと鳴るネックレスが彼だと知らしめる。
「良かった——……ふ……」
見上げてくる翡翠にイザンバは口を手で覆い、体を小さく震わせた。そして、まるで耐えるように閉ざされる瞳。
そんな彼女の仕草にクロウは居た堪れず視線を下げる。婚約者の変わり果てた姿を見たのだ。ショックを受けて当然だ、と。
「ザナ」
ところがコージャイサンは落ち着かせるように、誘うように、呼びかける。ふわりとした笑みを添えて。
「心配かけてごめん。もう我慢しなくていいから」
だからクロウもどんな罵詈雑言も受け止めようと腹を括る。
そして——イザンバは真っ直ぐにコージャイサンを見つめると震えるほどの想いを吐き出した。
「……ふふ……ふふふふふふ、あはははははは! 待って薬品で幼児化ってこんなテンプレ展開本当にあるの⁉︎ 親友が女体化した的なシチュがそんな頻繁にあるの⁉︎ あはははははは! 回り回って笑っちゃうんですけど! 緊張感からの脱力感ハンパない! んふふふふふふ、あははははははははははは! しかも変身がバラバラだし! ねぇ、なんでこんな事になったんですか?」
罵詈雑言どころかとんでもない大笑いが飛び出した。か弱い淑女は一体どこへ行ってしまったのだろうか。あまりの事にクロウがポカンとしているではないか。
そんな彼を尻目にコージャイサンは慣れたように質問に答える。
「一回目の衝撃で薬品が色々と混ざったせいだろうな。現時点で確認出来てるのは『巨大化する』、『幼児化する』、『性転換する』。マシな部類だな」
「ぷっ、あははははははははは! それをマシって言っちゃうの⁉︎」
「人の原型と理性が失われてないからな」
「あ、確かに。ふふふふふ、危険はないって聞いてたけど……本当に……ふふ……ふ、ふっぅ…………」
イザンバは顔を隠すように下を向いた。
笑う事で押さえつけたナニかが飛び出してしまわないように体も声も小さくして。ただただ必死に飲み込んだ。
「……ご無事とは言い難いですが、お怪我なくて良かったです。庇ってくれてありがとうございました」
顔を上げた彼女の目尻を濡らすのは笑いすぎて出た涙か、それとも……。
だが、そこから意識を逸らさせるようにイザンバは明るく、そして煌めくいい笑顔で言った。
「それにしてもまさかの幼児化とかけしからーん! これって体は子ども、頭脳は大人なあのパターンですよね⁉︎ ナニソレ美味しい! しかも何気に彼シャツみたいになってるし! きゃわ! 無駄に顔がいい人はちっちゃくなっても顔がいいですね! お目目クリクリ、ほっぺも落ちそう! こんな展開ならご褒美ですありがとうございます!」
「まさかこうなるとは思わなかったけどな。まだ感覚が慣れない」
拳を握っては開く彼の仕草のなんと愛らしい事だろう。イザンバは距離を詰めるとたまらず膝を折って抱きついた。
「きゃぁぁぁ! 可愛い〜〜〜!! なにこれほっぺすべすべだし、手もぷくぷくしてるし、え、腕短くない? 控えめに言って芸術的な可愛さですが! すわ、誘拐の危機⁉︎ むしろあまりの可愛さに犯罪者が改心するレベル! ほっぺプニプニしててほんと可愛いー!」
コージャイサンの丸みのある頬を指先で軽くつつく。その顔は幼い彼の魅力に骨抜きだと誰が見ても分かるほどで。
けれども怒涛の勢いの言葉の羅列に口を挟む隙がない。彼以外は。
「こら、そんなにつつくな」
「はっ! すみません、ちょっと理性が仕事を放棄した」
口を開くたび徐々にいつもの調子を取り戻していった彼女に従者たちは肩を竦めた。ニコニコと微笑み合う二人はもういつも通りだ。
しかし、それも束の間。
「婚約者ちゃんって素はそんな感じだったんだねー! コージャイサンが首席に初対面で対応出来た理由が分かったかも!」
楽しそうなマゼランの声にイザンバはピシリと動きを止めた。席を外していた淑女の仮面が物陰から申し訳なさそうにそろりと顔を出したような。
さらにそこへ大層焦ったクロウの声が被さった。
「っ——馬鹿! 空気読めよ! こういうのは見て見ぬふりするんだよ!」
「えー。見ないふりするには強烈じゃない? てか、皆見てたよ。いいじゃん、オレ元気な子好きだよー!」
「おま、コージャイサンの前で誤解招くような事言うな! それにあれは元気っていうよりも残念って言うんだよ!」
「クロウもさりげなく失礼だよねー。婚約者ちゃんヘコんでるよ」
「えっ⁉︎」
クロウはフォローするつもりだったのだろうが、これはとんだ追撃だ。二人の発言にイザンバの気力は一気に削られて底をつきそうだ。
「あ……すみません。そんなつもりはなかったんですが、ちょっと、いや結構、かなりオレもビックリしちゃって……」
「……いえ。こちらこそ……すみません」
クロウもイザンバも互いに気まずそうに頭を下げた。
——………………あぁぁぁあ、やっちゃったぁぁぁ!
だがこれは致し方がないと言える。
——突如走った緊張感
——煽られた焦燥感
——広がった安堵感
——湧き上がった高揚感
立て続けの出来事に淑女の仮面も「耐えれません!」と吹っ飛んでしまったのだから。
因みにだが、従者たちはコージャイサンが仕掛けた途端にフォローを諦めた。全ては主人の思し召すままだ。
どんよりと暗い影を背負いながら項垂れるイザンバの頭をコージャイサンの小さな手がよしよしと慰める。
「俺はザナの元気なところも残念なところも好きだぞ」
「ありがとうございます。でもそういう事じゃないんですよ! ごちゃ混ぜになって取り繕えなかった私が悪いんだけどこんな形でバレるのも辛い!」
「それも不可抗力だから落ち込むな」
「無理ですよ! 他の方たちもほら、引いていらっしゃる! ああ、コージー様ごめんなさい。明日から変人が婚約者だと笑い者にされちゃう!」
呆気に取られている研究員たちを見てイザンバは顔を覆った。背負ったその暗い影は色を濃くして絶望の雰囲気を醸し出す。
そんな彼女にコージャイサンは淡々と言った。
「ザナ、ここの人たちはみんな変人だ」
「ひどーい! いきなりオレら貶されててウケるんだけど!」
「まぁ事実だし」
研究員たちはクロウに同意を示すようにうんうんと頷いている者、首を傾げてたり無反応な者に分かれる。どうやら自覚のある変人と無自覚な変人がいるようだ。
「ザナの失態を知ったところで笑ったり言いふらしたりするような人たちじゃない。そこは信用できる」
ここに居ない者も含めて研究員は変わり者と称される。その内の高々十数名に知られたとしてなんの痛手にもならない、とコージャイサンは言う。
そもそもの話、研究員たちは人や家の内情、社交になんて興味がないから。
「それに先輩たちのやり取りに笑いを堪える自信はなかったんだろう? どうせバレる」
「だとしても……まさか一回の訪問でバレるなんて思わないでじゃないですか! うぅ……もうちょっと深く考えるんだった」
「はぁ……——仕方ないな」
コージャイサンは一つため息を吐くと、床に膝をついておいおいと泣き伏す彼女の前でちょこんとしゃがんだ。
そして、嘆き悲しむヘーゼルを覗き込むと——大変あざとい角度でこう言った。
「ほっぺ触る?」
「触ります!」
即答だ。あっさり釣られたその顔のなんとだらしなく緩みきった事だろう。
魅力的なお誘いに抗わず、イザンバは手のひらで幼児の頬を優しく挟んだ。
「オレも触りたーい!」
「お断りします」
マゼランの要求に対してこちらも即答。婚約者の戯れに付き合う反面のこの冷ややかさ。しかも頬をイザンバに触らせたままなのだから一顧だにしないとはこの事か。
そんな外野をよそにイザンバはコージャイサンの頬の触り心地を堪能する。
微笑ましくも親密さ溢れる触れ合いを彼らは眺めていた。
「あーあ、色男が形無しじゃねーかぁ」
「そう言いながら撮るんやな」
「当たり前だろぉ。次にあんな姿にお目にかかれんのはいつか分からねーんだぜぇ」
ニヤリと口角を上げるイルシーの言い分にヴィーシャも納得の表情だ。
「うむ。自分も不謹慎ながらもかつてのお姿を目にする事が叶った事に喜びを感じている」
「それもそやな。ジオーネたちにも見せたりたいしよぉけ撮り」
ファウストとヴィーシャは珍しくも愛らしい主人の姿を存分に愛ではじめた。
さて、のほほんと頬を撫で回しているところに水を差すのは大変気が引けるが、意を決してクロウが二人に話しかけた。
「さっきコージャイサンが言った通り色々混ざったせいで効果の継続時間が読めなくて……一日から三日ぐらいだとは思うんですけど。今日はコージャイサンとお帰りいただいてもいいですか?」
「コージー様も帰っていいんですか?」
「流石に幼児の体じゃ薬を作るのも難しいですから。他の幼児化したやつらも帰らせます」
そしてクロウは晴れやかな笑顔でさらに続けた。
「それにマゼランの腕をぶった斬るところをイザンバ嬢に見せられませんしね!」
「……今なんて仰いました?」
なぜだろう。イザンバの脳内でクロウの爽やかさと言葉の物騒さが噛み合わない。淑女の仮面は未だ席を外したまま、イザンバはこてんと首を傾げた。




