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ファブリスの元を辞した二人は大きく息を吐き出した。
「随分と時間が掛かったな。ザナ、お疲れ」
「コージー様もお疲れ様でした。首席様の熱量……凄かったですね……あ」
廊下を歩きながら話す二人の間でグーッと小さく腹の虫が鳴いた。流石にイザンバも恥ずかしいのか顔を伏せている。
緊張感からの解放とちょうど昼時という事も相まって体が素直に訴えてきたようだ。
「ふ、ははっ。食堂に何か食べに行こうか」
「私が行っても大丈夫なんですか?」
「ちゃんと特別に招待されてるんだから心配いらない。行こう」
騎士団、魔術師団、魔導研究部、そして事務員や裏方。多くの人が在籍する防衛局の食堂は広い。
だからと言って全員を収容出来るほどではなく、それぞれが時間をズラして利用している。
それでも御飯時となればそれなりに混雑しており看板娘たちがクルクルと忙しなく動き回っていた。
そして、二人の顔見知りもいるわけで。
「お、隊長と婚約者さんじゃん!」
「ほんとだ! こんにちはー!」
真っ先に気付いたジュロの側にフーパと魔術師のエッリとユズが居た。
「皆様、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう。コージャイサンの仕事姿はどうですか?」
「午前の予定が思ったよりも長くなってしまって。この後研究室の方を見せてもらうので楽しみにしています」
「これから……そうでしたか。では今から魔術師団に変更されてはどうでしょうか? 我ら魔術師団が芸術的な術式をお見せしますし、何よりも安全ですよ」
自信に満ちた表情でユズが誘う一方で、彼女が言葉を返す前にフーパが便乗してきた。
「えー、それなら騎士団にしない? 訓練公開日の勝ち抜き戦も良かったけど、将軍とコージャイサンの試合も見応えたっぷりだよ!」
「ふふ、どちらも素敵ですね。だからこそまたの機会の楽しみとさせていただきます」
どちらの誘いもイザンバは淑女の微笑みで流した。
それにしても魔導研究部で『何事もなく』はそんなに確率が低いのだろうか。イザンバは心配になってきた。
「あの勝ち抜き戦、元帥が魔術師団でもしたいって言ってるの聞いちゃってさ」
「我らに死ねと言ってるのか⁉︎」
「オンヘイ小隊長、手加減よろしく」
ふざけているようで真剣に頼み込むエッリとユズに彼は不敵に笑う。
「先輩たちの活躍に期待しています」
「あぁぁぁ! これ終わったぁぁぁ!」
聞こえていたのだろう、魔術師の多くが机に突っ伏して未来を嘆いた。
さて、まだ見ぬ未来よりも別の欲を満たしたいこの現実。二人の背後にも多くの視線が向けられていた。
「今日の側付きは彼女なんだな」
「あの子居ないのかー」
周囲からもがっかりとした声が漏れ聞こえる中、側付きの姿にはしゃぐ数名。もちろんジュロも混ざっている。
「良かったら相席しませんか⁉︎」
「こっちも空いてます!」
「ここが一番綺麗ですよ!」
けれども男たちの誘いにヴィーシャはうっとりとするほどの甘い笑みを向けた。
「仕事中なんで遠慮しときますわ」
「ですよねー!」
その微笑みを見られただけで胸もお腹もいっぱいだ。大変満足そうなのでよし。
こちらは別の意味で騒がれている。厳つい外見なんてなんのその。厳つさなら騎士たちだって負けていないのだから。
「あのデカい兄さんならいけんじゃね?」
「防衛局名物! 無敗のスーパードカ盛り定食だ!」
「その代わり残したら食堂で五日間皿洗いだけどな」
脱落者続出の大食いチャレンジの誘いにファウストは四角四面に答えた。
「一つ挑んで主の株を上げたいところですが仕事中ゆえ」
「そりゃ残念」
その生真面目さが好印象。いつか食わせようと妙な連帯感が生まれた。楽しそうなのでよし。
周りが勝手に盛り上がっている間にコージャイサンは注文カウンターにイザンバを連れて行くと、メニューを前に彼女に尋ねる。
「何にする?」
横目で見た食事は体力も魔力も頭脳も使う彼らのためのボリュームのある品揃えだ。ファブリスとの会談で思いの外疲れたとは言え、普通の令嬢の胃袋しか持たないイザンバにはこれらを食べ切れる気がしない。
どうしよう、と視線を彷徨わせる彼女に注文受付のロクシーが思い切って声を上げた。
「あの……! こっち側のメニューはボリュームもカロリーも抑えてあって、女性事務官たちがよく注文しています」
「まぁ、ありがとうございます。では……こちらをお願いします」
「あ、はい」
イザンバが選んだのは貴族令嬢が普段は目にする事もないだろうワンプレートランチだ。
防衛局に貴族もいるとは言え相手は生粋のご令嬢。それなのに嫌がる事も蔑む事もなくあっさりと頼んだ彼女にロクシーは面食らった。まさか聖地巡礼で培われた感覚だとは彼女も思うまい。
結局コージャイサンが別メニューを勧めることもなく、二人は穏やかな雰囲気のまま通り過ぎる。
ちなみにコージャイサンは普通サイズのステーキだ。
「ザナ、こっち」
二人分の食事をコージャイサンが持って誘導した先は窓際の二人掛けの席。
——周囲のざわめき
——食欲をそそる香り
——向かい合わせに座る彼
着席したイザンバが小さく顔を綻ばせた。
「どうした?」
「こうしているとなんだか学生の時みたいだなと思って」
服装も場所も違うけれど、なんとなくの雰囲気が。
そう言って懐かしむ彼女の声にコージャイサンもフッと軽く笑んだ。
「じゃあ、その頃出来なかった事でもするか?」
「出来なかった事?」
首を傾げる彼女の前で彼は切り分けたステーキに再びナイフを入れた。イザンバと視線を合わせると彼が微笑んだ。それはもうニッコリと。
「これも中々美味しいぞ。はい、あーん」
コージャイサンが向けたのは彼女に合わせた一口サイズのステーキ。しん、と食堂から音が消えた。
コージャイサンのからかいも含めた態度と恋人同士の甘いやり取りは、けれども貴族の彼らとこの場にはどうにも不釣り合いで。
食堂に集う面々が瞬きすらも遠慮して音を避けた空間で、イザンバが淑やかに動いた。
彼女は髪を抑えフォークに顔を寄せる。上品に口内へ迎え入れたステーキをゆっくりと味わう姿にごくりと喉を鳴らしたのは誰だろう。
そっと口元を拭った後、コージャイサンへ勝ち気に微笑んだ。
——からかいに張り合うように
——からかいを咎めるように
ヘーゼルにその意思を乗せて。
「美味しいですね。でも人前でこれ以上はしませんよ」
彼に恥をかかせず、なおかつ戯れに釘を刺す事も忘れない。
一見すると揺らぐ事のない淑女の仮面だが、彼女に近しい者は気付いた。髪で隠れた耳が赤く色づいている事に。
「分かった。二人きりの時にな」
——そんな事言ってない! ……あ、『人前で』って言ったから⁉︎
楽しげに口角を上げる彼が言う。それはきっと避ける事ができない予定調和。イザンバは言いようのない悔しさと悩ましさに沈黙を以って返事とした。
さてさて、見守っていた面々はと言えば心の声を揃えて思う……
「ここでイチャつくな!!!」
どころか口から大いに飛び出していた。羨ましさに咽び泣く声を数えるのはやめておこう。
「うるさい」
注目を集めながらも淡々とした彼の向かい側で、
——食べづらい……!
淑女らしく、それでいて急いだ食事の味はイザンバのみが知る。
昼食後、二人は研究棟の二階へ。向かったのは個々の研究室ではなく素材や薬品の棚や大鍋、実験に必要な道具がたくさん並んでいる大部屋。まるで学園の実習室のようだ。
従者二人は廊下で待機をし、イザンバはコージャイサンと共に中へ入る。
「ここは薬が大量に必要な時に大勢で作業したり、部屋を持たない新人たちが使ってる。今は症状別の麻薬断ちの薬を作っているところだ」
広くなった領地にいる民の分も麻薬断ちの薬が必要で、それをここで作っていると言う。
コージャイサンの説明を受けて視線を向けた先には新人研究員が先輩たちから指導を受けている。
「オレの部屋にも色々混ぜたヤツとか僻地から持って帰ってきた面白いヤツとかあるんだけど、女の子を連れて行くようなとこじゃないってみんなに止められちゃったんだよね。婚約者ちゃんが見たくなったら案内するからいつでも言ってね!」
言うだけ言って鍋に近づいて行ったマゼランだが、イザンバは小さな引っ掛かりを覚えてコージャイサンの袖を軽く引くと小声で尋ねた。
「もしかして前に言っていた異臭部屋での作業がある先輩って……」
「ああ、そうだ。思いがけず良い反応の時もあるけど、大抵は失敗作だな」
「マゼラン様は魔導具を作る方かと思ってました。ほら、ゴールデンキングビートルとか」
「あれは先輩の趣味。気分転換に裏の倉庫で造ってるんだ」
なんと! 趣味であんなに巨大なものを作るとはマゼランも大した天才、いや変人だ。
イザンバが感心していると研究員が申し訳なさそうに近づいてきた。
「コージャイサン、これの経過数値の事なんだけどさ」
「それならメディオが記録をしていました。報告があがってませんでしたか?」
「あれ、そうだっけ。どこにある?」
「少し待ってください。ザナ、あそこで待っててくれるか?」
そう言って指し示されたのは開いた扉の近く。貴族用とはとても言えないが無いよりはマシ、と申し訳程度に簡易椅子が置いてある。
「分かりました」
イザンバが移動している間にも次々と話しかけられ、その意識は瞬く間に仕事へと切り替わる。
——この場に彼が馴染んでいる
その姿をイザンバは穏やかな心持ちで眺めていた時にそれは起きた。
大きな箱に入れた素材を運んでいる研究員二人のうちの一人が足をふらつかせてもう一人にぶつかった。その拍子に箱の中身は空中へ。
「あ」
気付いた時に響いたのは連鎖する破砕音。
発生した煙に驚き固まるイザンバだが、その音に反応したコージャイサンから険しい声が飛んだ。
「ザナを守れ!」
すると応えるように彼女の体が風で浮いた。覚えのある感覚に、しかし言葉を発する間もなくそのまま扉の外へ押し出された。
「お嬢様!」
突き飛ばすように風に押されたイザンバを待機していたヴィーシャが受け止めた。驚きに目を閉じている間に聞こえた遮断の音。
一体何が起きたのか。焦りを含んだ従者たちの声が遠い。
「……コージー様?」
彼女が目にしたのは彼ではなく扉。その隙間から少しだけ漏れた青い煙が嘲笑うように揺らめき消えた。
明確な意思を持って目の前で閉ざされた扉に心音が痛いほど強くなり、呼吸が浅くなる。
イザンバはもたつきながらも駆け寄った。
「っ——冷たっ……!」
しかし、触れたドアノブは冷たく、僅かの間に凍てついた扉。
コージャイサンの仕業だろうと予測できるが、まるで内側で発生した煙を閉じ込めるように皮膚を刺すような氷によって隙間がなくなった。
それでもまだ中からは破砕音や荒ぶる声が聞こえ、壁や床までもが軋みだす。彼女の胸中に焦燥感を呼ぶには十分だ。
「コージー様!」
「イザンバ様! まずは安全なところへ!」
コージャイサンの『守れ』という命令を遵守するファウストにイザンバはあっという間に横抱きにされた。
「や、待ってファウスト! まだ中に……」
「分かっております! ですが今はご辛抱を!」
抗議を問答無用で跳ね除けたファウストは少し離れた中央階段の踊り場でイザンバを下ろした。不安を露わにした彼女が駆け出さないよう壁になりながら。
同じく動いたヴィーシャが震えるイザンバの手に温もりを分け与えるように、不安を和らげるように握りこむ。
「お嬢様……」
「っ……——フラグ回避ならず!」
「あ、大丈夫そうですね」
心底悔しそうに床を叩いたイザンバにヴィーシャは下げていた眉を元に戻した。
「状況は全然大丈夫じゃないですよ⁉︎ あ、私はもう安全地帯にいるしファウストなら凍ってる扉も殴って壊せるんじゃないですか⁉︎」
「出来ますがイザンバ様をお守りする役目がございます」
「でも……いえ、そうですね。ごめんなさい。無理を言いました」
珍しく荒げられた声がイザンバの安全と事態の早期沈静化を図っての事と理性では分かる。分かるが————心が、落ち着かない。
しゅんと肩を下げる彼女の様子に顔を見合わせた二人は少しでも情報が入るよう彼を呼んだ。
「イルシー、おるんやろ?」
「おう」
「中はどんな様子なん?」
ヴィーシャの問いかけに姿を現したイルシーは風を使い主がいる部屋の音を拾う。
「まだ破砕音が続いている。もうちょい待った方がいいなぁ」
ピクリと体が動いたのは駆け出したい衝動。抑え込んだイザンバだが、そんな彼女とは反対にイルシーは落ち着き払っていた。
「ここでは爆発なんて日常茶飯事だって前にコージャイサン様が言ってただろぉ。実際そうだしなぁ。他の連中も対処法くらい知ってるから落ち着けっての」
「分かってます。けどあれだけの薬品が混ざったらどうなるか……。もしも……」
「もしもはねーよ」
恐れ怯える彼女の言葉を遮り、イルシーはキッパリと言い切った。
「そんな声は聞こえてねーし、何かが燃える臭いもしてねぇ。イザンバ様が案内された部屋は比較的安全なものばかりだ。まぁ、気になるとしたら煙の量と種類だなぁ。ちなみに毒薬とか爆薬みたいな危険度が高いのはあっちだぜぇ」
ニィッと口角を上げながらイルシーが親指で指差したのは右側の階段よりもさらに奥。危険薬品はそちらの部屋にあるという。
コージャイサンに付き従う彼の方がこの場所にも詳しい。イザンバはただ静かに眉を下げる。
「イザンバ様、どうか冷静に。あの煙にどのような効果があるのか自分たちでは判断ができませんが、少なくともイルシーの様子を見るに命の危険性は低いでしょう」
ファウストが諌めるように。
「ドラゴンとの遭遇のがよっぽど危険だろーが。とりあえずアンタはここで大人しくしてろ。それがコージャイサン様の命令だぁ」
イルシーはいつも通りの調子で。
「ご心配は分かりますが、ご主人様もこれ以上お嬢様が巻き込まれるんは本意やないんとちゃいますか? イルシーの言う通りにするんは癪でしょうが今は待ちましょ」
ヴィーシャも寄り添う姿勢を見せた。
胸の内に生じた不安を納得させるには彼の姿を見なければ無理だろう。
「そうですね……。みんな、ありがとうございます」
けれども、イザンバは三人の言葉をゆっくりと深呼吸しながら聞き入れた。




