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しばらく話した後、友人たちは晴々とした表情で先にホールへと戻っていった。「今度一緒に呑もう」とコージャイサンと約束して。
共に見送ったイザンバだが、ふぅと一息ついた。
「疲れたか?」
「すみません、少し。最初から色々と想定外だったから」
人の多さも、向けられる視線も、まさかのお偉い方との挨拶も、いつもの誕生日パーティーと違いすぎて人の気配が減った事にどっと安堵と疲れが押し寄せた。
しかし、コージャイサンは彼女の言葉に疑問を抱く。
「知らせは出してたんだが見てないのか?」
「あー、ちょっと違う事でバタバタしてて……。それにしても、殿下たちは変わられましたね」
「そうだな」
彼が見せる表情があまりにも穏やかなものだったからイザンバも嬉しくなってニコニコと返す。
「ふふ、コージー様嬉しそう」
「あれでも友人だ。正気になったなら憂いはない」
「あはははははは! 正気って……まるで殿下たちがおかしかったみたいな言い方じゃないですか」
「どう見てもおかしかっただろう」
正気の沙汰ではない、と彼がばっさりと切り捨てると二人は顔を見合わせてクスクスと楽しげに肩を揺らす。
「じゃあせっかくだから乾杯します? 果実水ですけど」
「ああ」
グラスから響く高い音と和やかな空気。
ふと、イザンバは気が付いた。彼らが退出した今、部屋に二人きりだという事に。
これは絶好のチャンスではないか。
そう思えば潤したばかりだというのに緊張からまた喉が渇く。もう一度果実水を口に含むとイザンバは気合を入れた。
「コージー様」
「ん?」
「お誕生日おめでとうございます。これ、プレゼントです。良かったら……使ってください」
ドレスのポケットから取り出したのは黄色いサテンリボンが巻かれた小箱。おずおずと差し出されたそれをコージャイサンは顔を綻ばせながら受けとった。
「ありがとう。開けていい?」
「はい」
とは言ったものの彼が一体どんな反応を見せてくれるのかイザンバには読めない。
丁寧に剥がされる包装が焦ったくて。
——心臓……。
その翡翠が落胆に染まるのは見たくなくて。
——うるさい……。
耳の中を心音だけが木霊するほどに、心臓が早鐘の如く打ち鳴り鎮める事が難しい。ギュッと祈るように彼女の手に力が籠った。
蓋を開けたコージャイサンが目にしたのはシルバーのネックレス。シンプルなリングモチーフだが、ダブルリングで小さい方に茶色の宝石が控えめに添えられている。
動きを止めた彼の無言に耐えきれず、イザンバから口を開く。
「あの! 真似したみたいになっちゃったけど、コージー様はピアスホールないし、リングは剣握りにくくなりそうだし、ブレスレットとかバングルは実験する時に引っ掛けたら危ないし、アンクルはブーツ履くと痛いかなって! だから、その、ネックレスが一番邪魔にならないかなって、思って……」
「色々と考えてくれたんだな。嬉しいよ」
イザンバに向けられた翡翠は喜色に染まる。
早速着けようと彼が首元を寛げるが、途端にアンニュイな雰囲気になるのは軍服のせいだろうか。
コージャイサンはネックレスに手を伸ばし、しかしそこで動きを止めるものだからイザンバは首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「ザナが着けて」
微笑みながらそう強請る彼に呆れてしまうと同時に、それでもその姿を可愛いなと思うのは惚れた欲目というものか。
「じゃあ、後ろ向いてください」
「ん」
無防備に晒された首に回したチェーン。小さな留め金具が今はなぜか持ちにくい。
——うわ……指が震える。
また少し、逸る心音に指先の感覚を持っていかれそうになる。
まごつく彼女にコージャイサンは努めて穏やかに、けれども隠しきれない嬉しさをその声に滲ませた。
「この宝石の名前は?」
「……ブラウンダイヤモンドです」
「へぇ。なんでこれにしたんだ?」
直に聞かれると恥ずかしくて仕方がない。
何かしらの意味を含んでいる事に気付いていながら聞くのは意地が悪いような気もするが、だからと言って黙ったままでいることも出来ない。
イザンバは自身を落ち着かせるように深呼吸するとゆっくりと語りはじめた。ずっと早いままの鼓動がどうか彼に聞こえていないようにと願いながら。
「ブラウンダイヤモンドの宝石言葉は『威厳』『カリスマ性』なんですって。なんかいかにもコージー様って感じじゃないですか? ……はい、着きましたよ」
だからピッタリだと思ったと彼女は言う。
大地の色を表す茶色の宝石は物事に動じない精神力を授けるそうだが、今その精神力を欲しているのはイザンバの方だ。
まだ振り向かないで、と彼の肩に手を乗せた。
「それと全ての対人運を向上させるそうです。家族とか友達とか、こ、恋人、とかの愛情に対して、エネルギーを与えて人間関係を円滑にしたり、良い関係を築いたり。だからね——……」
——繋がりを意味するダブルリング
——信用や絆の強化を意味するブラウンダイヤモンド
人は変わっていく。良い意味でも悪い意味でも。
かつて、整えられた婚約を壊した者がいた。
かつて、尽くした恋人と別れた者がいた。
人の心は移ろいゆく。自分に馴染んだモノよりも他のモノの方が良く見える事はままある。
労り合う事を忘れ、目新しいモノに心を奪われる事もあるだろう。
だが断たれた縁が再び結ばれる事は相当稀である。
かつて、最愛の妻を亡くした英雄がいた。
かつて、理不尽に恋人を亡くした村娘がいた。
自分たちだって生命という有限を生きている。不変の理にどれだけの涙が流れたのだろう。
そして老いていくが故にいつか必ず尽きてしまう。どれだけ強く未来を望んでも。
永遠に、とは言わない。
想いの変化も命の終わりも当たり前のことで、けれども出来ることならば……その日は遅い方がいいから。
「このご縁が……長く続いたらいいなって、思って」
そんな希う彼女の声に、振り向いたコージャイサンはいつもよりやや乱暴に抱き寄せその唇を喰む。
——衝動に身を任せたような荒々しさに
——深く触れ合う溶けるほどの熱さに
イザンバは翻弄された。羞恥をそそる水音と高鳴り続ける心音に胸が熱く苦しくなる中で必死に息を継ぎ。彼の胸元についた手で軍服を握りしめて縋り付く。
二人の間に隙間ができる頃にはすっかりイザンバの息は上がり、荒くなった呼吸音が部屋に残った。
コージャイサンは色付いた彼女の瞼にそっと口付けを一つ。
そして、この色だけを写して欲しいというように、ただ一心に想いを注ぐように、熱を孕んでその色味を強くした翡翠で潤んだヘーゼルを覗き込んだ。
「続くよ。続けていく。これからもずっと——」
「……——はい」
恵みの雨が地上を濡らし陽光と共に豊穣をもたらすように。
大地がその雫を受け止め陽光によってまた天に返すように。
揃う事で生まれる穏やかさを、温もりを、愛おしさを続けていきたいと切に願う。
翡翠の色を写しただけではない。恋慕に濡れるヘーゼルにコージャイサンが浮かべるうっとりと見惚れるほどの甘い笑み。
唇が触れ合った後にそんな彼の姿を見たイザンバは悶絶した。もうずっと駆け足の心拍に耐えきれなくなって場を茶化すように言葉を吐き出す。
「くっ……コージー様の色気がヤバい! それ何とかしてくれませんか⁉︎」
「ははっ。それなら間違いなくザナのせいだな」
「なんで⁉︎ 私何もしてませんよ⁉︎」
「惚れた女が腕の中でこんな可愛い顔してるんだ。当てられて当然だろう?」
それもプレゼントにいじらしい想いを添えたくれた後だ。直接的ではないからこそ彼女らしく、首に掛かる重みが心地いい。
小さな金属が擦れ、その存在を示すネックレスにコージャイサンが指先で触れる。微笑む彼の麗しさを何に例えようか。
——触れる指先も
——向けられる視線も
——想いを伝える声も
その全てが普段にはない色を帯びて届けられ、イザンバは顔を手で覆った。
「やだー。もう本気でけしからん。軍服を着崩しているから? それとも唇がピンクだから?」
しかし、ここで彼女は自分の言葉に疑問を持った。そして、まじまじと彼の顔を見るとあっという間に青褪めた。
「コ、ココココージー様! 口紅! 口紅がついちゃってる!」
イザンバの指摘にコージャイサンが親指で自身の唇に触れれば確かにピンクの色が移る。
「ごめんなさい。今拭くものを」
「気にするな。どうせそのうち薄くなる。ザナの方は……取れてるな」
「ですよねー。ちょっとお化粧直しを……あー、誰か呼ばなきゃいけないんですよねー……」
あからさまに気落ちした声と肩にコージャイサンが尋ねた。
「何か問題があるのか?」
「問題って言うか、その……だって……」
「ん?」
「っ〜〜〜取れるようなことしちゃったってバレバレじゃないですか! それが恥ずかしいんです!」
「ふぅん。まぁどうせバレるんだから——」
だがコージャイサンは羞恥に身を捩る彼女を腕の中に捕え、先ほどより薄い、けれどもいつもより色付いた唇を親指でなぞる。
「まだ直さなくていいよな」
「あわわわ」
「ザナ」
そう囁いて間近で色香を漂わせる彼は目の毒だ。じわりじわりと攻めてくるそれを躱す術があるのならぜひご教授願いたい。
——逃げたい! でも……。
コスプレをしてもらった日、イルシーと話してからイザンバは悪い癖を付けないようにしようと決めたのだ。それに——
——今日は特別な日だから。
けれどもただ一つ、彼女は自分に言い訳をする。視線を逸らす事だけは許してほしいと。
「……も…………もう少し……だけ、ですよ……?」
——意思を伝えるとても小さな声
——自分が言った言葉に煽られる羞恥心
——熱の集まる頬と無様に震える手
彼と違い全く余裕のない自分が情けない。
しかしコージャイサンからの反応がなく、不安を覚えたイザンバは跳ね上がった心拍ごと勇気を出して顔を上げた。
「え?」
ところが彼女が目にしたのは無表情。ああ、美形の無表情とはなんと迫力のある事だろう。
「……あの、コージー様? え? それはなんていう感情?」
読めない。全く読めない、と首を傾げる彼女に対して、コージャイサンはため息を吐いた。それはもう肺から吐き出す空気がなくなるほどに。
「ザナは本当に始末が悪い」
「理不尽じゃないですか⁉︎」
「夫人の高笑いと伯爵の号泣がなかったら危なかった」
「ちょっと意味分かんないんですけどっ!!??」
喚く唇にそっと擦り寄れば、途端に彼女は静かになる。それでも不満を訴えるヘーゼルに彼が返すのは色香を交えた不敵な笑みで。
「今はキスだけにしておくけど結婚したら……——覚悟しておけよ」
そう言って唇を重ねてしまえばもう後はなすがまま。イザンバの反論は蕩ける翡翠と甘く染め上がったヘーゼルの内側に——深くふかく飲み込まれた。
さて、こちらはパーティー会場。寄り添うゴットフリートにセレスティアが尋ねた。
「いつ呼びに行くつもりなの?」
「せっかくの誕生日なんだ。まだいいんじゃないか?」
「あまり遅いとまたオルディが泣いてしまうわよ」
「んー……」
そう言いながらゴットフリートはチラリと横目で見るが、それどころではないほどに次から次へとオルディとフェリシダは声を掛けられている。きっと——彼らは気付いていない。
「大丈夫だろう」
ゴットフリートは灰色の瞳に愉悦を滲ませ、それはそれは綺麗に微笑んだ。
二人が会場に戻らない事を、さてどれだけの人が気付いているのだろうか。
だが、今あの部屋にノック音を響かせる事ほど無粋な事はない。もしそんな者がいたとしても扉の前に、窓の側に、立ちはだかる従者たちをそう簡単に退けられようか。
それに例え外から大声で呼び掛けようとも返事はないだろう。外野の雑音を遮るように彼の手が彼女の耳を包んでいるのだから。
互いの瞳に映る愛しい色に想いを寄せて。
あなたが産声を上げた日に感謝と祝福を——。
これにて「happy birthday dear……」は了と相成ります。
読んでいただきありがとうございました!




