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イザンバの誕生日 結婚式2ヶ月前
翌朝。兄とお喋りが興じての夜更かしとコスプレ写真がどうなっているかへの心配から睡眠不足なイザンバは寝惚け眼をこすりながら起き出した。
「お嬢様、リナがご主人様に確認したところ画廊に飾ってはいないそうです」
「本当ですか⁉︎ 良かった〜〜〜!」
安堵の声を上げた彼女だがふとジオーネの物言いに違和感を感じて首を傾げた。
「飾ってはいない……? 待って。それって画廊にないだけで別に持ってる事じゃ……」
「あら、今日のお嬢様は鋭いですね」
コロコロと笑うヴィーシャにイザンバの表情は心中の複雑さを如実に表して。珍妙な顔になる彼女にシャスティが元気よく声をかける。
「さぁ、心配事がなくなりましたならご準備を進めましょう! なんて言ったって今日はお嬢様のお誕生日! 主役なんですから!」
「婚約者様が見惚れるくらい綺麗にしましょうねー!」
メイドたちの賑やかな声に背を押され、彼女は全身を磨き上げる為立ち上がった。
さて、例年通りクタオ邸で開かれたイザンバの誕生日パーティー。最近こそお茶会に積極的に参加していた彼女だが、招待客は変わらず親族のみ。
しかし、例年通りではない事もあった。
どこから漏れたのか今日という日を祝いたいと多くの貴族から申し出があったのだ。これも火の天使として名が知られた弊害と言おうか。
しかし、今日はクタオ伯爵令嬢として最後となる誕生日パーティーだ。お気持ちだけ頂戴いたします、と本人も両親も懇切丁寧に断りを入れた。
本日のイザンバの装いはハリのある生地にふんわりとしたチュールが重なったミントグリーンのロングドレス。上半身の細部に散りばめられた花の刺繍、ふんわりと広がるスカート。デコルテは大きく開いているが肘までオーガンジー生地がふんわり包み込むシアー袖で大変上品である。
いつもより華やかで、それでいて彼女の魅力に添うメイク、髪は両サイドから後ろにかけて編み込んでいき、真ん中でまとめたすっきり感のあるアップスタイルだ。
そんな彼女の元へ訪れる輝かしいオーラ。今日も今日とて華麗なるオンヘイ公爵一家の登場だ。
「ザナ、誕生日おめでとう。この日を共に祝う栄誉を賜われてとても嬉しいよ。——ああ、なんだか感慨深いね。もうどこからどう見ても立派なレディだ。素敵だよ」
ゴットフリートの色気が炸裂! なんという事でしょう。来て早々に親族へクリティカルヒットを繰り出した。
「お誕生日おめでとう。ドレスもあなた自身も本当に素敵よ。でももう一つ……何か欲しいわね」
そう言ってチラリと息子を見遣る彼女から覗く傲慢な善意。しかし息子は母に視線すら返さないのだから「可愛げがないわ」とセレスティアは真逆の存在に再び目を向けた。
「この前の写真もとても可愛かったわ。飾れないのが本当に残念。だから今度エルザの店に一緒に行きましょうね。そこで色々な服を着たザナの写真をたくさん撮りたいわ」
セレスティアの眩い女神の如き笑顔が親族に追撃をかます。使用人達が慣れたように鼻血に染まったハンカチを回収していくのは毎年の恒例行事だからだろう。
「ザナの為にお店の一角を撮影スペースにしてくれるそうよ。エルザもインスピレーションが湧いたようでたくさんのデザイン画を描いていたし今から楽しみだわ」
「お祝いの言葉、ありがとう存じます。お義母様、ぜひご一緒させていただきます」
すっかり身についた淑女の礼と共に返事を返せば彼女は満足そうに頷いた。
セレスティアの願いを断れる者は居ない……と見せかけてここに一人。
「母上、ザナを連れ回すのはやめてください」
正装し艶やかな黒髪を後ろに撫で付けている彼がイザンバにはいつにも増して端正に見える。
——おでこ⁉︎ おでこが出てるせい⁉︎
淑女の仮面の下でダメージを受ける彼女に、その翡翠が柔らかな微笑みと共に向けられた。これはダメだ。親族女性諸共ノックアウトである。
そんな心中を知ってか知らずか、オンヘイ母子の応酬は続く。
「失礼ね。エルザの店に行くだけじゃない」
「それならマダムに邸に来て貰えばいいと前にも言ったはずです」
「まぁ、頑固ね。やっぱり親子だわ」
「ティア」
少し困ったようにゴットフリートがその愛称を呼ぶ。ここでそれはやめてくれ、と。
公爵一家のやり取りに堪らずアーリスがクスクスと笑いを溢せばコージャイサンと目が合った。
アーリスは彼ににこりと微笑むが、まずは目上の方に挨拶を。
「オンヘイ公爵閣下、公爵夫人、ご無沙汰しております。夫人は一段とお美しく、閣下におかれましてはますますご清栄のこととお慶び申し上げます」
「こちらこそ久しいね。クタオ伯爵令息も息災で何よりだ」
「領地をよく治めていると聞いているわ。慢心せずこれからも精進なさい」
「恐悦至極に存じます」
折目正しく礼をして顔を上げれば、今度はコージャイサンと向き合った。
「コージー、久しぶり。変わらないようで安心したよ」
「ああ。アルも元気そうだな」
畏まってしまう公爵夫妻に対してとは違い、こちらは気の置けない友人として気さくな挨拶を交わす。
「僕は君たちに比べたら平穏に過ごさせてもらっているよ。いや、本当に。申し訳ないくらい」
「困った事になっていないならいいじゃないか」
「うん、そうだね。ねぇ、今少しだけ時間をもらえるかな?」
「俺は構わないが……」
「ありがとう。ザナ、少しだけコージーを借りていくね」
「はい」
こうして男二人連れ立ってホールを出て行った。
さて、別室にコージャイサンを案内したアーリスは扉を閉めると満面の笑みで告げた。
「はい! 誕生日おめでとう!」
小箱を差し出す彼に、しかしコージャイサンはその翡翠を瞬かせ困惑の声を出す。
「俺の誕生日は来月だが……」
「うん、もちろん知ってるよ。でも僕は来月の君の誕生日のお祝いに行けないから、一月早いけど先にプレゼントを渡しておこうと思って」
「そんな気を遣わなくていいのに」
「君ならそう言うと思ったけど僕がお祝いしたいんだ。だから受け取ってくれたら嬉しいよ」
少しの懇願を混ぜて穏やかに微笑むヘーゼル。祝いたいという友の気持ちをコージャイサンも無下にはしない。
「分かった。ありがたく頂戴する」
「無理を言ってごめんね。流石に三ヶ月連続で王都と領地を往復すると仕事が滞っちゃうから。でも、二人の結婚式には仕事が山積みでも風邪ひいてもちゃんと来るから!」
明るい彼の言葉にコージャイサンからも笑いが漏れる。
アーリスのように普通の人はどうしても移動に時間がかかる。馬で移動とは言え短時間で済ませたコージャイサンは大概おかしいし、それについていった小隊のメンバーの頑張りは大したものだ。
「風邪は引くなよ。ザナが心配する。開けていいか?」
「どうぞー」
中を確認したコージャイサンから漏れたのは感心したような声。
「これは……よく見つけたな」
「ふふ、中々いいでしょ。ほら、家でも仕事場でも書類って多くなっちゃうし良かったら使って」
「ありがとう」
「見つけた瞬間に『これだー!』って思ったんだ。確か縁起に出世運も上がるってあったよね。あ、昇進おめでとう! すごいよ、スピード出世だね! それと……」
ここまでは気の置けない友人として。アーリスは姿勢と表情を正し、ゆっくりと紳士の礼をした。
「——どうか妹を末長くよろしくお願いいたします。多分オタクは一生治らないし、予想外の方面に突っ走っちゃう子だけど……僕にとって素直で可愛い、自慢の妹ですから」
これは伯爵令息として。クセがあって時々手が掛かる、それでも兄と慕ってくれる可愛い妹を義理の兄弟となる彼に託す。
「心得た」
誠意には誠意を。真摯に礼を返すコージャイサンにアーリスはふんわりと笑った。その言葉を信じている、とでもいうように。
「ありがとう。じゃあ戻ろうか。あ、君がプレゼント渡す前に連れ出しちゃったしザナを呼んできた方がいい?」
「ああ、頼むよ」
彼の言葉に甘え、ソファーに腰掛けていれば待ち人が現れた。ノック音の後、イザンバが扉の影からひょっこり顔を出す。
「コージー様」
「主役を呼び出して悪いな」
彼の言葉にイザンバは微笑みながら首を横に振った。
「親族ばかりだし私が居なくてもみんな盛り上がってますから。お兄様のお話ってそれですか?」
「ああ。一月早いが誕生日プレゼントを貰った。見るか?」
釣られるように隣に腰掛ければ開かれる小箱。中身を見てまずイザンバは驚いた。
「うわぁ、スタイリッシュな蛙さん」
そこにはあったのは手乗りサイズのカエルの置物。手渡されたイザンバの手にずっしりとした金属の重みが伝わった。
「これって文鎮ですか?」
「そうみたいだ。これなら仕事場でも使えるしな」
「お兄様ってば小粋なプレゼント選んでる……。えー、なんか悔しい」
ネタっぽくありながらもちゃんと使える実用品。負け惜しみにも羨望にも捉えられる声がイザンバから零れ落ちるが、刺々しさのない様子に兄妹仲の良さが伝わってコージャイサンが柔らかく微笑んだ。
「どうかしましたか?」
「いや。ザナはアルに……家族に大切にされてきたんだなと改めて思っただけだ」
それは彼女の預かり知らぬところで託された家族の想い。
けれども、彼がそう思うような事を兄が言ったんだと察するには十分で、イザンバはふんわりと笑う。
「はい! 優しくてノリが良くて小粋なセンスをしてる、私の自慢のお兄様ですから!」
その笑顔が兄妹でそっくりで彼は目を細めた。まるで尊いものを見るように。
アーリスからのプレゼントを箱にしまうと、コージャイサンが姿勢を正す。
「リアンの事だが、期間を延ばしても大丈夫か?」
「私は大丈夫ですよ。それは本人の希望ですか?」
「ああ。昨夜『まだその域に達していないから』と言ってきてな」
「了解でーす! こうなったら徹底的に男の娘極めてほしいですよねー!」
自身の意思で残ると言うのであればイザンバに否はない。だって彼はもうきっかけを掴んでいるから。
リアンがいる事も楽しんでいる様子の彼女にコージャイサンも頬を緩めた。
「タイミングがズレたが俺からの誕生日プレゼント、受け取ってくれるか?」
「ありがとうございます。開けていいですか?」
コージャイサンの許可を得てうきうきと開封したその中身とは……。
「はっ! もしや、これは……」
「そうだ。秘蔵中の秘蔵。忠臣の騎士のサイン本だ」
「私の名前……作者様が……直筆……」
キラキラとヘーゼルが色を混じえる。
——表紙のブルーを
——文字のアンバーを
言葉が、想いが、詰まって出て来ない……なんて事はなく。大量の涙と共に溢れ出してしまえばあとは止めどない。
「ああ、ああ……っ! コージー様どうしましょう! 幸せ成分分泌過多で脳が溶ける!」
「脳よりも顔がヤバいぞ。まずは涙を拭こうか。次は深呼吸だ。はい、吸ってー、吐いてー」
ハンカチで丁寧に涙を吸い取り、彼の号令に合わせてすぅぅぅ……と大きく息を吸って、はぁぁぁ……と吐いて。
「なんで? どうやって?」
ギュッと本を抱きしめて感極まりながらも尋ねる彼女にコージャイサンは尊大に、傲慢に笑む。
「権力ってあると便利だよな」
「使い方が最高!」
それはもう親指もキレッキレに上がるというものだ。
ニコニコとしているイザンバは大層ご機嫌な様子だが、少し顔を近づければ恥ずかしそうに目を逸らす。その隙にもう一つ——。
「え?」
コージャイサンの手が首の後ろに回ったかと思えば、ひんやりとした感触が肌を撫でた。
視線を下げたイザンバが目にしたものは小ぶりだが色が濃く、透明度が高いエメラルドが中央できらめく雫モチーフのネックレス。やわらかなフォルムの台座にはエメラルドよりも小さいダイヤモンドを三つあしらい、輝きと高級感が増している。
「————綺麗……」
誕生日にアクセサリーを貰ったのはこれが初めてで、その輝きに暫し見惚れたイザンバだが、ふとその視線が忙しなくコージャイサンとネックレスを行き来する。
デコルテが開いているドレスなのにお飾りの中にネックレスがなかった理由に気付いたから。
そして、何よりも——この宝石の意味に。
彼の瞳を模すのであれば翡翠である。翡翠の宝石言葉は「繁栄・長寿・幸福・安定」。
翡翠は精神を安定させて、病やケガから身を守る宝石と信じられ生涯の健康と幸せのお守りになる。悪くはないがまだ初々しい恋人に贈るには少し円熟している。
ところが、同じ緑でもエメラルドの宝石言葉は「幸福・幸運・愛・希望」。
エメラルドは持ち主を中心に周囲の愛する気持ちを育み、幸福へと導く石だ。
鮮やかな緑に彩られたその姿に、コージャイサンは満足気に口角を上げた。
「よく似合ってる」
欠けていたパズルのピースを嵌め込むように彼女の装いが今、完成した。
「誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
彼の指の背がチャーム付近の素肌を優しく撫でる。くすぐったくて少し身動ぎをすればその指が鎖骨へと動いた。
「跡、消えたな」
「……はい」
コージャイサンは以前赤い花弁を咲かせた場所をじっと見るから——なんとなく、肌がざわつく。落ち着かない。
「い、今付けちゃダメですよ⁉︎」
「分かった。今じゃなかったらいいんだな」
「え、ちが、その……」
「覚えておく」
ニヤリと意地悪く上がる口角にイザンバは自身が墓穴を掘った事、そして言質を取られた事を悟り赤面しながら俯いた。
その様子を楽しげに眺めていたコージャイサンが彼女の顎を掬い上げる。
「こっちには……——触れていい?」
唇ギリギリに添えられた指先。蕩けた翡翠が訴える望みに艶やかに色付いたヘーゼルは惑い揺れる。
答えを急かすように指先が縁を撫でれば、ヘーゼルはその姿を隠す事で応えとした。
顔の距離がそっと縮まり唇が触れ合う直前——一つの大きな咳払いが二人の動きを止めた。
コージャイサンは煩わしそうにゆっくりと、イザンバは青褪めて勢いよくそちらを見れば、そこには執事がにこやかに立っているではないか。
「カ……カジオン⁉︎」
「お取り込み中大変失礼致します。お嬢様、いくら親族ばかりとはいえ主役がいつまでも中座していてはなりません。ホールにお戻りください」
「はいっ!」
未遂とはいえ人に見られて恥ずかしいやら逃げ出したいやら。どうにも動けずイザンバは赤くなったまま小さく縮こまる。
そして、執事は体勢を戻したコージャイサンに頭を下げた。
「大変ご無礼致しました。お嬢様は婚約者様を想い、そして婚約者様に想われ美しくおなりですので愛でたい気持ちももちろん理解しております。ですが、どうか本日はお控えくださいますよう平にお願い申し上げます」
今ここでメイクやドレスが乱れては大変だ。冷やかし……いや、見守り部隊が張り切って直すだろうし、その二つはまだ誤魔化しが効く。しかしその時点でイザンバに戻る気力があるかどうか。
また一番困るのは髪型だ。それが変わった事に当主が気付けば……きっとその場で泣き出すことだろう。断じて宥めるのが面倒だからではない。断じて。
執事の言葉にコージャイサンは仕方ないと肩をすくめた。
「そうだな。だが……」
コージャイサンはそっと彼女の前髪を避け、露わになった額に口付けた。
「これくらいは見逃せ」
「その場所ならばよろしゅうございましょう」
「じゃあ、行こうか。……ザナ?」
何という事でしょう。彼女は今日一番に頬を染め、額を押さえて固まっている。
——この程度でこの様とは……。これは結婚式までになんらかの手を打たねば。
近い将来を憂いたカジオンが老婆心をのぞかせた。コージャイサンも呆れているのではないかとそちらを見れば、彼は本を持つとスタスタと歩き出すではないか。
「サイン本持って先にいくからな」
「はっ……それはダメー! ねぇ、コージー様待って!」
彼の言葉にすぐさま再起動し急いで後を追いかけるイザンバ。その視線の先、コージャイサンは柔らかな微笑みを湛えて待っている。
歩調を合わせて並んで歩く二人の姿に執事はただただ見守る事を決めた。
活動報告に小話あります。




