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とある日の日暮れ。まるで邸全体が浮き足だったかのように使用人たちが忙しなく動く中、イザンバが急足で玄関ホールに向かっている。
そして玄関ホールが見える階段の上に差し掛かったところ、カジオンと話をしている人物を見つけて嬉しそうに声を上げた。
「お兄様!」
その声に顔を上げた兄アーリスも同じように嬉しそうな表情で返す。
「ザナ!」
階段を駆け降りるという妹の淑女らしからぬ行動にカジオンと苦笑しながらも、満面の笑みを見せる彼女にアーリスは穏やかに微笑んだ。
「おかえりなさい。到着が遅いから何かあったのかと心配しました」
「ただいま。領地を出るのが遅くなって……こんな時間になっちゃったけど明日に間に合って良かったよ」
「旦那様も奥様も首を長くしてお待ちでした。晩餐の用意も出来ておりますのでお二人ともそちらへ」
カジオンに促されて二人は食堂へと向かう。
さて、久々の家族全員揃っての晩餐。和やかに食事を終えるとフェリシダがアーリスに視線を向けた。
「髪を伸ばすのはいいけれどちゃんとお手入れはしているの? ちょっとパサついているんじゃない?」
「あー、特に何もしてないかな」
「男性だからって何もしないのはダメよ。髪はハリ、ツヤ、コシが命なんだから! 今日からアルも私たちが使っている香油を使いなさいね」
「それって公爵家から勧められてる高いやつでは……」
アーリスの髪も肩甲骨が隠れる長さである。
毎日シャスティたちによって丁寧に手入れされているイザンバの髪に比べると確かにパサついて見えるかもしれないが、それでも栄養の行き届いた綺麗な髪だとイザンバは思う。これは身内の欲目だろうか。
ふと彼女の胸の内に湧き上がった疑問。
「お兄様が髪を伸ばし始めたのって領地に行ったあたりでしたっけ。ずっと短めだったのにどうして?」
「ちょっとした願掛けだよ」
妹の疑問にアーリスが軽く返すと、今度はオルディが話しかける。
「ところでアル。仕事もいいが、誰かいい人は居ないのか?」
「あー……まぁ、それはそのうち……ご縁があれば」
「アルはいつ聞いてもそればかりだな」
息子の気のない返事にオルディはため息を吐いた。そんな夫の姿に息子が気まずそうにしているのだから、ここでフェリシダが助け舟を出す。
「三回もあんな事になったんだもの。慎重になるのは仕方ありませんわ」
「それは分かっているが今ならもう大丈夫じゃないか? ザナの結婚式が終わったら見合いをセッティングしよう」
「今はまだいいですよ」
妻の言葉にもちろんオルディとて過去の出来事が尾を引いている事は理解している。
しかし、親としては下の子が嫁ぐというのに上の子が相手すら決まっていないと言うのは気になるのだろう。
声は穏やかに、けれども拒否の姿勢の息子に彼は少し厳しく告げる。
「こういう言い方をしてはなんだが、アルは我が家の後継だ。私たちも老いていくし、いつまでもそんな事は言っていられないんだぞ。誰かに紹介してもらうとかもう少し積極的に行ったらどうなんだ? ほら、コージーみたいに、こう、グイグイと……グイグイとね……」
「旦那様、自分で言って落ち込まないでください。鬱陶しいわ」
「ひどい!」
「ゆっくりでいいじゃないですか。焦って禄でもない女性に引っ掛かったらどうするんですか? 詐欺師も毒婦も最初はいい人のふりしてやってくるのよ」
妻の険のある言葉にオルディも唸ってしまう。アーリスも大切な我が子。そんな相手を望んでいるわけではないからだ。
風向きが変わり始めたところでフェリシダは努めて優しく、穏やかに夫に語りかける。
「旦那様がアルの幸せを願っている事は分かりますが、アルの良さに惹かれる素敵なお嬢さんがきっと現れるわ。私たちはその日を静かに待ちましょう」
「…………そうだね」
オルディが折れた様子にフェリシダは微笑むと、こっそりとアーリスに向かってウインクをした。
さて、家族団欒の時間も終わりサロン移動した兄妹と護衛たち。ヴィーシャがお茶をそれぞれの前に置いたところで、イザンバが口火を切る。
「お兄様、この子達を紹介しますね。右からヴィーシャ、ジオーネ、リナ。三人ともコージー様の部下で今はメイド兼護衛として私の側に居てくれているんですよ。あ、リナはこう見えて男の子なので期間限定ですけど」
「初めまして、アーリス・クタオです。君たちのことはコージーからも聞いているよ。よろしくね」
まるで毒気のない朗らかな笑顔でアーリスがそう言えば護衛たち三人は静かに頭を下げた。
それを見届けるとイザンバが食後の流れで気付いたことを口にした。
「ねぇ、お兄様。もしかして帰ってくるのが遅かったのはお父様に結婚のことを言われるからですか?」
「バレちゃった? あんまり早く帰ると執務室で釣書と向き合わされちゃうからさ」
悪戯っぽく笑う兄だが、流石に毎回顔を合わせるたびに言われると憂鬱なのだろう。
もしも、コージャイサンとイザンバが婚約解消をしていたら……きっと暫くはそっとしておいてくれるだろうが、年月が経てばこうやって次を急かされていたに違いない。
その胸中を案じるように視線を向けたが、当の本人はにこりと微笑むとこう言った。
「それじゃあ……ザナ。最近の出来事について、正直に話してくれるかな?」
「なんか私が悪い事したみたい」
「ああ、ごめんね。悪い事はしてないんだけど——……誰がどう聞いても濃いでしょう⁉︎」
そして、彼はまるで堰を切ったように言葉をつらつらと吐き出した。
「フットワークが軽いのはいいけどだからって行き先が暗殺者の里とか遺跡ってどうなの? もうちょっと安全性とか考えようよ。その後、コージーが護衛として派遣してくれたのがその暗殺者の里の男性で大丈夫なのかと思ってたのにどう言う流れかなんか新技術作ってるのなんで? その護衛もすごい美人の女性二人に変わってメイドを兼任するようになったけどそれも実は暗殺者って聞いて逆に心配事が増えたよね! しかも中々危ない目に遭ってたんだって? どこもかしこも心配の種なのにいつの間にかザナとコージーはラブラブってなんで⁉︎ さらに妹が火の天使様と讃えられて意味分かんないところにオンヘイ公爵家に二人の画廊とか何それ僕も見たい!! って言うかメイドがもう一人増えてるけどこんな可愛い子が実は男の子ってどゆこと!!?? 僕は何にどう反応したらいいのかなー!!!???」
段々と勢いづきながら全力で言い切ったアーリスは肩で息をしている。しかし、イザンバはと言えば反対にとても落ち着いていて。
——こうやって聞いたら確かに濃いかも。でも……。
彼女はヴィーシャが淹れたお茶をこくりと一口飲んでから微笑んだ。
「お兄様はいつも通りふんわりしてたらいいと思う」
つまりはなんだ。深く考えんなよ、と。
アーリスはため息をついた。それはそれは長く、深く、脱力するほどに。
ゆっくりと体を起こした彼は眉間を揉んだ後、諦めたように笑った。
「そうだね、今更どうこう言ってもしょうがないし……。僕も見せてもらったけど写真って素敵だよね。撮影機なんて一体どうやって思い付いたの?」
「思い付いたのはコージー様ですよ。私は目の構造の事を話しただけだし」
「それでどうやって撮影機になるのかさっぱり分からないんだけど。本当すごいね」
「ねー、コージー様ってすごいですよね!」
心底感心した声を出すアーリスにイザンバがニコニコとしながら返したのは彼の事で。
彼だけじゃないんだけどな、なんて兄の内心に妹は気付かない。
「明日は家族写真を撮ろうってお父様が言ってましたよ」
「僕は初めて撮ってもらうからなんだかドキドキするね。うちにも画廊を作るんだってお母様も張り切ってるし」
「あー、ね。そんな事より……ほら、これ見てください! この前のコス写なんですけどすごくない⁉︎ カッコ良くない⁉︎」
画廊という言葉を右から左に流してイザンバが取り出したのは数枚の写真。その中の一枚、クリストフのコスプレ写真をずずいとアーリスに近づけた。
「おぉー! カッコいい人だね! ん? でも珍しいね。ザナが生身の人をカッコいいって言うなんて。この人はどこのどなたかな?」
「探偵vs怪盗シリーズの名探偵クリストフ先生です! これね、実はコージー様なんですよ! コスのクオリティ高過ぎてびっくりでしょ⁉︎」
にこやかに問うた彼だが、これまたニコニコと答えた妹の言葉を理解するの少々時間を要した。
疑問符を浮かべながら首を傾げるアーリスに、イザンバは笑みのまま頷く。反対側に首を傾げてみたが、彼女の頷く回数が増えただけ。試しに護衛たちに問うような視線を向ければ彼女たちも頷いた。
写真に視線を落とした彼は、その揺るがない存在にようやっとそれが事実であると理解が至る。
「えぇぇえっ!!??」
「あはははははは! お兄様ったらいいリアクション!」
アーリスの驚きといったらない。可愛い笑顔でこの妹はなんと言った?
しかし、イザンバは食い入るように写真を見る兄の口から飛び出した驚きに楽しそうに笑う。
「これがコージー⁉︎ カッコいいけどまるで別人だよ⁉︎ いや、待って。おかしい! おかしいよ⁉︎ 公爵令息に何をさせてるの!」
「コスプレ」
「コスプレって何⁉︎ 新しい文化作っちゃってるし!」
「最初に始めたのはコージー様ですよ」
「嘘でしょ⁉︎」
「本当です。私は推しと同じ空気を吸わせていただくという幸福を享受しているだけで」
あの至福のひと時にうっとりと思いを馳せるイザンバとは反対にアーリスは疲れたように言葉をこぼす。
「えぇぇ……。もう、そんなザナの為だけにあるような事……まぁコージーだしやっちゃうか〜」
自分で言って自分で納得してしまったアーリスの言葉に同意を示すようにまた一つ頷く護衛たち。
驚きも呆れもすでにお腹いっぱいだが、彼は写真を見ながら説明を求めた。
「それで、コスプレってなんなの?」
「物語の登場人物に扮装して愛でたり愛でられたり! いや、この場合はとにかく私が愛でさせていただいたんですけど! リアルクリストフ先生、ほんっとに尊かったー!」
「そっか、良かったね。じゃあ、こっちの人たちは誰がしているの?」
「そのイケメン怪盗アダムがイルシーでエロ可愛い女怪盗のイヴお姉様はヴィーシャで……」
「で? このカーディガンきた可愛い女の子は?」
途切れた説明に先を促すが、妹はすっとぼけたような顔をする。どういう事だと護衛たちに視線を向ければ、彼女たちは揃ってイザンバを見るではないか。
釣られて視線を妹に戻せば、暫しの沈黙の後、観念したように彼女は答えた。
「………………私です」
「えぇぇぇぇぇえっ!!??」
本日二度目の驚愕の叫びである。アーリスの視線は写真と妹を行ったり来たりと大層忙しない。
「これザナ⁉︎ ザナは基本的に見て愛でる側だからこういう事やらないと思ってたんだけど一体どうしたの⁉︎ あ、待って、足! 足出てるよ⁉︎」
「だってコニーちゃんのはそういう衣装なんだから仕方ないじゃないですか! 私だって恥ずかしかったんですから! でも……」
「でも?」
「だって、この衣装……コージー様が用意したんだもん。クリストフ先生のコスプレを強請ったのは私だし、ここまで用意されたら着ないわけにいかないじゃない」
恨み節のような言い方に聞こえるが拗ねた表情の頬には朱が走っており、それが照れ隠しであるとアーリスは察した。だって写真の中の彼女はとても嫌がっている風には見えないから。
「へぇ〜〜〜。本当に二人とも面白い事思い付くね。……あれ? でもザナはいいの?」
「何がですか?」
「だってこれがオンヘイ公爵夫人の画廊に追加されたらザナがオタクだって貴族どころか世間にバレちゃうよ?」
「バレるも何も撮っていたのはうちにある撮影機で……」
兄の言葉にイザンバは少し考えてからハッとした。そういえばコージャイサンはこんなことを言っていたではないか。
『いい写真が撮れたから十分満足なんだけど』
——え、まさか……公爵家に私のコス写があると……?
その前後のやり取りが衝撃的すぎて、すっかり頭から抜け落ちていた可能性——コージャイサン自身は術式が使える。
しかし、思い至れば彼女の顔から血の気が引くだけだ。
「誰か大至急コージー様のところに行ってくれませんか?」
イザンバは護衛たちに視線を向けると強張った声で願った。
彼女の抱える緊張感にピンとこないながらもジオーネが答える。
「ご要望とあらば行きますが、そこまでお急ぎですか?」
「明日になったらご主人様にお会いできますのに」
ヴィーシャも続くが、イザンバは必死に「待てない」と訴える。
「これは一大事です。ヤバいです。早急に確認しなければならない案件です。もしすでに飾られていたら…………——私は他国に亡命しなければなりません」
「そんなに⁉︎ え、イザンバ様だってあんなに撮ってファイリングしてたのに⁉︎」
「それとこれとは話が別です! 本人の許可なくオタバレはアウト! ダメ、絶対!」
リアンが驚きながらも彼女の行動を振り返るが、それでもイザンバは腕で大きくバツを作った。
目の前の兄がかつてコージャイサンにバラしているが、今回の場合はそれよりも規模が膨れてしまう。そうなればイザンバの精神的、社会的被害は甚大だ。
彼女の言い分にヴィーシャが呆れながらも吐くため息はやはり色っぽい。
「せやけど亡命やなんて……そんなんご主人様が絶対に許さはりませんし、心配するだけ無駄やと思いますけど」
「すぐに確認して参りますので暫くの間お待ちください」
「はーい」
ジオーネが承諾の言葉を返せばイザンバは安心したように力を抜いた。
そんなやり取りを見たアーリスは護衛たちに視線を向ける。
「ちゃんと妹にも仕えてくれているんだね。疑うような事を言って悪かったね」
コージャイサンの部下とはいえ女性。
——彼に恋心を持っているのではないか
——妹をよく思っていないのではないか
彼女たちの出自が出自だ。過去の出来事も相まってアーリスは余計に心配したのだろう。
けれど、それは要らぬ心配だった。
——妹は彼女たちに対して素を出していて
——彼女たちも嫌悪せず受け入れていて
信用を表す態度に大丈夫なのだと安堵した。眉を下げて詫びる彼に護衛たちは当たり前だと返す。
「いえ、そのご心配はもっともかと」
「早々に受け入れたお嬢様がちょっと変わっていらっしゃるだけですから」
主人に紹介された時から信用を見せる彼女の態度にヴィーシャもコロコロと笑う。
「えー、そういう事言います?」
「普通は兄君のように警戒されるものです」
「それだと私が警戒心のないアホの子みたいじゃないですか」
アーリスの心配事を読み取ったようにリアンまでもが。そんな護衛たちの言い分にイザンバは唇を尖らせた。
「それはまぁ……」
ジオーネはそっと視線を逸らし。
「ご主人様とのご様子を見てる限り……」
ヴィーシャも困ったように頬に手を当てて。
「そうですよねー」
リアンがいい笑顔で言い切った。
「ちょっとー⁉︎」
妹と護衛たちのあまりにも軽快な遠慮のないやり取りに、とうとうアーリスは吹き出した。
「ぷっ……あはははははは!」
「お兄様?」
小刻みに揺れる肩にイザンバが首を傾げれば、彼は言う。納得したというように。
「そうだね。コージーがザナを傷つけるような人に側を許すわけないね。みなさん、これからも妹をよろしくお願いします」
兄としてあなた達に憂いはない、と。
「あらあら、そんなあっさりと」
「やはりご兄妹ですね」
「もう少し警戒しておきましょうよ」
早々に警戒心を解いてしまう彼はやはりイザンバの兄だ。この邸の人たちは伯爵含めて人が良すぎないかと護衛たちの方が気を揉んでしまう。
「んー……でも、コージーが認めてる。それって十分に信用できる基準だよ」
アーリスはにこりと微笑むと一枚の写真を手に取った。そこには服装はコスプレのままだが、二人で一枚の写真を覗き込んでいる姿。妹に視線を向けてそれはそれは嬉しそうに笑った。
「二人が仲良くやってるようで良かったよ」
その視線を受けて彼女の瞳が変化する。緑を織り交ぜて煌めくその美しさに兄妹ながら見惚れそうだ。
「ありがとう、お兄様」
はにかむ妹の姿にアーリスは思った。
——ああ、ちゃんと……恋をしているんだね。
妹の変化に安心したように、喜ぶように、じんわりと温かいものが彼のヘーゼルの瞳を満たす。
その後も兄妹は和やかに、楽しそうに、話に花を咲かせた。
話し込んですっかり夜も更けた頃、イザンバたちと別れ一人部屋に戻る道すがらアーリスは自身の毛先を摘むとぽつりと溢した。
「この髪も……もうそろそろ切り時かな」
彼の願いはきっと——叶うから。
活動報告にて予告しておりましたコジザナギャラリー開催します。
また、小話もアップ予定です。




