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イザンバがご機嫌な様子でコスプレ写真を仕分けるその隣で寛ぐように腰掛けたコージャイサン。そこへお茶と共にお茶請けであるアイシングクッキーが運ばれてきた。
「うわー、可愛い! コージー様見て! これ絶対クリストフ先生ですよ!」
彼女が指差したのは動物をモチーフにしたアイシングクッキーの中でもハンチング帽を被ったものだ。
「コニーちゃんも可愛い。食べるのもったいないなー」
「頭からいくか、足からいくか」
「それ悩みますよねー。えー、どうしよう……」
羊のクッキーを手に取り、しげしげと眺めながら悩んでいたイザンバの手首をコージャイサンが自分の方へ引っ張り顔を寄せる。すると——食べられた。それはもう頭からパクッと食べられた。
彼が離れるとイザンバの元には摘んでいたクッキーの足の部分だけが無惨にも残る。
「いやぁぁぁっ! コニーちゃぁぁぁん⁉︎」
彼女の悲痛な叫びをよそにコージャイサンが感想をポツリ。
「……甘いな」
「勝手に食べておいてそれ⁉︎ もうっ! 自分でとってくださいよ!」
これ以上は渡さない、とイザンバは残った部分を急いで口に入れる。咀嚼していると頭の中に疑問符が浮かんだ。
こくりと飲み込んだ彼女は首を一つ傾げてからコージャイサンの方へと顔を向けた。
「ねぇ、今の……」
「ザナ」
しかし口を開いた瞬間に入ってきたクッキー。サクッと齧りとった後、欠けたクッキーの向こうの優しげな眼差しが目に入った。
「……美味しいです」
「もう一口食べるか?」
「いえ、コージー様がどうぞ」
勧められてそのまま食べたコージャイサンだが少しだけ眉間に皺が寄っている。先程も『甘い』と呟いていた事からクッキーは彼の好みと合わなかったようだ。
それを察したイザンバは口直しを頼む事にした。
「ケイト、コージー様に紅茶じゃなくてコーヒーを……って、何してるんですか?」
彼女が視線を向けた先ではシャスティは膝をついて顔を抑え、撮影機を持っているケイトは上を向いて片手で目元を覆っている。
そしてまるで奮い立たせるように、振り絞るように二人は動いた。
「——っっっっっ!!!!!」
感涙に濡れる頬、喜びと感動を訴えるキラキラとした瞳、そして勢いよく上がった親指。言葉が出ないからこそ渾身のサムズアップである。
向けられたイザンバはぱちくりと瞬きをして。
声なきメイドたちにイルシーが冷静にツッコんだ。
「顔がうるせぇ」
「お黙りください! あなたも見たでしょう⁉︎ あーんですよ、あーん!」
「婚約者様とお嬢様のイチャイチャ最高ですー!」
シャスティとケイトの言葉にイザンバはポカンとした。
しかし、頭の中の疑問とメイドたちの言葉が合致すれば、涼しい顔で座る彼の方を向くと勢いよく責め立てた。
「コージー様! さっきからナチュラルに何してくれてるんですか⁉︎」
「この前からザナにはしてやられてばかりだからな」
強めの言葉もサラリと流してコージャイサンはニヤリと笑う。
「やられっぱなしは性に合わない」
「とんだ言いがかりです! 私何もしてません!」
「へぇ……——俺にあんな顔させておいて?」
見透かすような、内面を覗き込むような翡翠がイザンバを射抜く。
その言葉にヴィーシャたちに見つかる前にこっそりと部屋に戻ってお気に入りの本に挟んで隠した写真に意識を持って行かれた。
突き抜けるように写真を見た時の衝撃と情動が甦る。
「せ」
「せ?」
何が言いたいんだ、とコージャイサンが首を傾げる。
「戦略的撤退ぃぃぃ!」
言うが早いかイザンバはソファーから立ち上がり急いで部屋から出て行った。しかしどうにも以前の俊敏さがないようだが。
「結局逃げんのかよ」
イルシーはツッコんでいるが、コージャイサンは笑む。しょうがないな、というように。
「必ず捕まえるって……——言ったのにな」
ゆったりと立ち上がった彼は余裕の笑みを崩さないまま駆け出した。
甲高い悲鳴が聞こえるが、廊下を伝うドタドタとした足音と軽やかな足音。その差にどうせすぐに捕まると従者たちはサロンに留まった。
ふいにイルシーが皿の上から一枚のクッキーを取った。
ピンと立った耳と長くふさふさのしっぽの四本足の動物。それをみて思った事は——。
「イザンバ様は犬って言ったけど……コージャイサン様がすると犬のフリした狼じゃね?」
「成る程、銀狼か。その方がご主人様に相応しいじゃないか」
ジオーネも納得したように頷いて。
「つまりイザンバ様は狼に喰われる羊という事だな」
それならばと続いたファウストに。
「あら、そっちもピッタリやないの」
ヴィーシャもコロコロと笑う。
「ねぇ、そんな事よりドーナツ片付けるの手伝ってよ。僕、もう限界……」
山盛りドーナツを前にお腹をさすりながらリアンが言った。
女性陣が楽しそうにドーナツを食べる中、イルシーはポイっとクッキーを口の中に放り込む。
「……あっま」
ひどく甘い後味が口内に残った。
クタオ邸の廊下を賑わす二つの足音。コージャイサンの視線の先に駆ける彼女の背が見える。
——どうせ逃げられないのに無駄な事を。
そう思う。だが……
——この児戯のような時間も悪くない。
とも思う。
イザンバの『逃げる』行為が羞恥、もっと言えば彼だけに向ける恋慕からくるものだとコージャイサンは知っている。
だから、逃げてもいい。
——追えばいいだけだから
——自分のことを考えているという事だから
他の男の所には行かせないが、この手が届く範囲で逃げるだけなら問題ない。
コージャイサンは力強く踏み込み、一気に距離を詰めて。
「捕まえた」
その体を背後から伸ばした腕の中へ引き込んだ。その瞬間、鼻腔をくすぐる彼女の匂い。
しかし、それを堪能するよりも先に肩を上下させる彼女の息切れの激しさが気になった。
「厚底、ブーツ……重い……走り、にくい」
「その割には走ったと思うが」
「居た堪れないんだからしょうがな……近っ!」
「はいはい。丁度東屋が近い。座ろう」
イザンバの肩を抱き、歩調を合わせて向かった東屋。まだ春先の肌寒い空気の中、先にベンチに腰掛けた彼女の膝にコージャイサンはジャケットを脱いでかける。
「え、これ借りちゃったらコージー様が寒いんじゃ……」
「鍛えてるから平気だ」
「ありがとうございます」
はにかみながらも彼の気遣いを素直に受け取る彼女にコージャイサンも微笑みを返した。
すっかり息も整った彼女がヘーゼルに宿す柔らかな光。そして、彼に向かって打ち明けるようにジャケットをひと撫でしてそっと問いかける。
「この服……」
「ん?」
「作ってから気付いたんですけど、お義母様に初めてお揃いで仕立ててもらった服と何だか雰囲気が似てると思いません?」
あの時の服は明るいブラウンチェックだったが、手掛けたのはセレスティアご贔屓のデザイナー、エルザ・インフンだ。有名デザイナーの服はクリストフ作画の参考にされているのかもしれない。
「そうだな。あの服、今の俺たちに合わせて仕立ててもらおうか」
「ふふ、いいですね。また美術館に行きますか?」
「その後は本屋まで走る?」
「流石に今往来を走るのはねー。せめて競歩で!」
在りし日をなぞる会話に二人は顔を見合わせてクスクスと笑う。穏やかな一幕。心地良い無言の後、コージャイサンが口を開いた。
「ザナ」
「なんですか?」
「これにサインして」
そう言って彼はベストの胸ポケットから一枚の紙と万年筆を差し出した。受け取ったイザンバだが、その、文字を捉えた瞬間に動きを止めた。
「…………え?」
コージャイサンから渡されたのは————雇用契約書。
どうしてそんなものを渡されたのか。読み進めた彼女はさらに驚いた。
雇用主はイザンバ、被雇用者はイルシー。
彼女が表情にも声にも困惑を露わにするのは当然だろう。
「これ……なんでですか?」
「さっきアイツに一万ゴアを払っただろう。コスプレ一回にしては額がおかしい事くらい分かっているよな?」
「それは、まぁ……でもイルシーだし」
イザンバとてもちろん桁がおかしいのは理解していた。だが、彼女からすればそれは技術料だ。楽しませてもらう身として惜しむことなくきっちりと用意したにすぎない。
「アイツは金で信用を測る。今日ザナが本当に一万ゴア払うのなら、その金額に見合う働きを今後もすると言ってきた。これはその為の契約書だ」
「……期間は?」
「十年」
「業務内容は?」
「臨機応変に」
それこそ失せ物探しから暗殺まで幅広く。もちろん今回のコスプレも含まれている。
「でも……そんなのおかしくないですか⁉︎ だってイルシーはコージー様の為にここまで来たんですよ⁉︎ それだけの忠誠を捧げているんでしょ⁉︎」
「俺への忠誠心は少しも揺らいでいない。この先もアイツは俺の剣となり盾となる。ほとんどの行動は俺と共にするだろう。だが金を受け取った分、ザナにも俺と同等に仕えるとアイツが言ったんだ」
その言葉に契約書に視線を落とす。
——金銭受領に伴いイザンバ・クタオ伯爵令嬢に技を捧げる
——婚姻により姓が変わっても是を継続する
——命令を遵守し、どのような任務でも遂行する
期間も職務内容もコージャイサンが言った通り。
被雇用者の欄にあるコージャイサンのものとは違う見慣れない文字。それこそがイルシー・カリウス本人の意思表示。
それでもキュッと眉を寄せる彼女をコージャイサンが諭す。
「俺とザナとイルシー、結びつき方が違うだけだ。だが、互いに信を置ける。違うか?」
コージャイサンとイザンバの婚約関係。
コージャイサンとイルシーの主従関係。
そして、イザンバとイルシーの雇用関係。
何に重きをおいて信用とするか。違いはあれど彼らはそれぞれがその基準を満たしている。
「私、コスプレばっかり頼むかもしれませんよ」
「それも承知の上だろう。一万ゴア分付き合うって言ってたしな」
「逃げたりするのにドッペルゲンガーとして召喚するかもしれないし」
「俺は見分けられるから問題ない」
「……——ちゃんと、戦ったり出来ないから、足、引っ張るかもしれないし」
「むしろ丁度いいハンデだとか言って相手を煽るんじゃないか?」
断る理由を探すように、足掻くように吐き出されたイザンバの言葉は悉く却下の判を押されて。
コージャイサンと同等に仕える。
それはつまりお願いでも依頼でもなく、命令を下す立場。守られてきた彼女の立ち位置が変わるという事。
「私が…………——コージー様と、同じで、いいんですか?」
「アイツが自分の目で見てそう判断したんだ」
その座に足る人物である、と。
彼に忠誠を捧ぐ、彼が信を置く腹心に認められた。
その事実に言いようのない喜びがイザンバの胸を震わせる。漏れ出しそうな嗚咽を手で押さえ、さらにグッと歯を食いしばった。
イザンバは決意を持って万年筆を握ったが、サインをする前に一文を書き足す。少しだけ、文字が震えた。
『最優先はコージー様!』
きっと、こんな事は言わなくても分かっている。それでも彼の忠誠心に添うように、イザンバの願いを乗せた。
サインを書き込んだ書類を再びコージャイサンに手渡して、ふとイザンバが疑問を口にした。
「ねぇ。これをコージー様に預けて本人が居ないって事は、この事はみんなには内緒ですか?」
「あの性格だからな」
肩を竦めるコージャイサンにイザンバはクスクスと笑う。
「分かりました。なんか……私がお祝いを貰ったみたいですね。あ、結局コージー様のお祝いは何がいいんですか?」
コニーのコスプレはクリストフをする交換条件のようなもの。
雇用契約はイザンバとイルシーの話。
では、彼は何を欲しているのか——。
純粋に尋ねるヘーゼルに彼は微笑みかける。
「いい写真が撮れたから十分満足なんだけど」
「んん?」
「もう一度言って」
「……何を?」
「好きって。言い逃げでもコスプレにでもなく、ちゃんと俺に」
言葉が欲しい、と甘えて強請る翡翠の熱が伝播する。
「え、っと、あの、その……」
イザンバは大いに狼狽えた。改めて願われると頬どころか顔中が熱を持ち、視線はあちこちに泳ぎ彷徨う。
はくはくと口を動かすが、中々出てこない音をコージャイサンはただ辛抱強く待った。
次第に熱に浮かされたようにヘーゼルは潤み、せめて見ないでと抱えた羞恥心と逸る心音を隠すように彼の胸に顔を埋めた。
「……コージーさまが——……………………すき、です」
コスプレを褒め称えた時の元気さは欠片もない。けれども確かにコージャイサンに届く身を焦がす恋慕を添えた言葉。
喜びを伝えるように彼の腕がイザンバをギュッと抱きしめた。
「俺も。ザナが好きだよ」
甘い響きを纏った声にイザンバの心臓が高鳴った。
そのときめきを紛らわせるように落ち着きなく彼の胸元に額をすりすりと擦り付けると、彼は楽しげに肩を揺らす。
「あんまり可愛い事されるとタガが外れそうになるんだが」
コージャイサンは彼女の髪を撫でて顔を上げるように促した。潤むヘーゼルに蕩けた翡翠が写り込む。けれども、彼はそれはそれは綺麗に微笑んだ。
「使用人たちの目もあるし、ここが外で良かったな」
「め」
ここは庭の東屋。つまりとても開放感に溢れている。
最初はぎしぎしと音が鳴りそうなほどに固い動きだったが、イザンバは急にぐりんと勢いよく振り返った。
その途端、ある者は慌てたように、ある者は澄ましたように、ある者は満面の笑みで動き出す。中でもカジオンと目が合った時の気まずさと言ったらない。
一気に血の気が引いたイザンバが体の平衡をなくすものだから、コージャイサンがそっとその体を支えた。
「……牧草になりたい」
「そこは羊じゃないのか」
しくしくと訴えるその羞恥の深さたるや。
喉を鳴らして笑うコージャイサンに恨めしげな視線を送ったイザンバだが、彼はその頭をポンポンと撫でて宥めた。
サロンに戻るために彼女から返されたジャケットを羽織り、揃って歩き出したところで思い出したような声が漏れた。
「その服、似合ってるんだけど——……」
「え、なんですか? やっぱりどこか変?」
不安げに見上げるヘーゼルにそうじゃないと首を振ると、イザンバの耳元に顔を寄せ、コージャイサンはそっと囁いた。
「それ以上の露出は二人きりの時にな」
彼の指先がさりげなく素足を撫でる。
——その感触に
——その言葉に
それはもう驚くほどの勢いでイザンバは頬を赤く染め上げた。
「し……しません! もう足は出しません!」
「えー」
「もうっ、えーじゃなくて!」
「さて、次はどんな感じにしようか」
「ねぇ、聞いて!」
ぷりぷりとした否定をいなし、コージャイサンは何食わぬ顔で言う。そして、瞳を覗き込むように身を屈めた。
「楽しみだな」
こうやって言えば彼女が聞き入れてくれる事をコージャイサンは知っている。
足を止めたイザンバは案の定、恥ずかしそうに、悔しそうに、唸りながら悩み始めた。
そんな彼女の様子に喉を鳴らして笑うと、コージャイサンは柔らかな眼差しで手を差し伸べる。
そして、重なり合って手。二人は他愛もない話をしながらサロンへ向かったのだった。
さて、こんな仲睦まじい姿を見せられて使用人たちが黙っていられようか。「こっちが爆発するっきゃねー!」と活きのいいサムズアップがあちらこちらで飛び交った。今回の宴会も大盛り上がりになる事だろう。
これは多くの人に見守られ、幸せを願われた二人の鮮やかで甘やかな——そんなとある休日。
これにて「ハレの休日」は了と相成ります。
読んでいただきありがとうございました!




