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「あっ! イザンバ様見つけたー!」
その声に廊下を歩いていた彼女の肩が大きく跳ねた。
「うひゃあっ! って、いつの間にか腰に鋼線が!」
振り向きがてら気付いた時には腰に鋼線が巻き付けられている。きつく拘束するようなものではないが、逃がさないぞというリアンの強い意志がありありと伝わってくるというものだ。
袖口から伸びる鋼線をしっかりと握ってリアンが言った。
「さぁ、主がお越しになるんですからサロンに行きますよ」
「このまま行くの⁉︎ 可愛い顔してやり方も引っ張る力も容赦ないんですけど⁉︎」
「褒め言葉ですね。ありがとうございます」
対抗するように踏ん張る彼女をずるずると引き摺るように進みながらも振り向いたリアンの表情は晴れやかなもので。
その微笑みに彼女は少しばかり目を見張ったが、すぐにふんわりと笑った。
「ねぇ、ちゃんと行くからコレ外してください」
「ダメですよ。イザンバ様すぐ逃げちゃうじゃないですか」
「もう逃げませんって」
「信用なりません。それに今逃したら僕がみんなから怒られます」
「えー、残念。リアンが怒られる事はないと思うんですけどね」
ちっとも残念そうじゃない声色で彼女は言う。
そして、そこからは先程まで踏ん張っていたのが嘘のように軽い足取りでリアンの先導に従った。
「まだ誰も来てませんね。お茶はヴィーシャかケイトが来るまで待ってください」
サロンにはまだ誰も居らず、彼女がソファーに腰掛けてから鋼線を外されるとその口元がニンマリと弧を描いた。
「お茶の用意はジオーネもやってますし、せっかくだから練習してみますか?」
「えっと、今特訓中なので、まぁそのうちに……」
「楽しみにしてますね」
リアンが少し顔を顰めたのはヴィーシャとの特訓を思い出しているからだろうか。だが、そんな彼とは対照的に無理強いするつもりのない彼女はクスクスと笑った。
そうこうしているうちに廊下から賑やかな声が聞こえてくる。
扉がノックされた後にサロンに入ってきたのはヴィーシャとジオーネとイザンバ。
「え……?」
リアンが驚くのも無理はない。
慌ててソファーの方を見ればそこには変わらずに微笑む彼女の姿。けれども、護衛たちの後ろに居るのも彼女だ。
困惑の空気をよそに、二人のイザンバはお互いの顔を見た瞬間に叫んだ。
「でた! ドッペルゲンガー!」
服も動きも言葉も瓜二つ。こんな芸当ができる人物を彼らは一人しか思いつかない。
ヴィーシャは呆れたように、ジオーネは感心したように、リアンは当惑を抱いて。
そう言えば、と彼は気がついた。
——僕の事、『リアン』って呼んでた……。
護衛たちの反応をよそに顔を見合わせた二人のイザンバは互いを見て首を傾げ、顎先を指でトントンとする。
再び目を合わせた彼女たちはニッコリと笑みを作るとクルクルと回る。互いの位置を何度も入れ替えてクルクルと。
そして、護衛たちに向き直ると互いの手のひらをパンッと合わせて、それはそれは楽しそうに笑うのだ。
「本物どーっちだ?」
「やると思ったー!」
状況に乗っかったイザンバと揶揄いたいイルシーの思惑が一致した瞬間だ。
リアンが嘆くように言えば彼女たちは順に口を開く。
「前にイルシーがコージー様に変装した時にされたんですけど」
「私も一回やってみたかったんですよね」
えへへと笑う二人は実に楽しそうである。
後から入ってきたイザンバの反応を見るに事前に打ち合わせをしたわけでもないだろう。よくもまぁここまで合わせられるものだ。
「どっちって言われても……えぇー?」
目を凝らしてもリアンが悩むほどに。
「あないに入れ替わられたら流石に分からへんわ」
ヴィーシャもお手上げとばかりに言えば。
「この完成度だけは尊敬に値するな」
ジオーネはひたすらに感心する。
片方はイルシーだと分かっているが、さて目の前でニコニコと微笑む二人をどう見分けようか。
「5!」
「4!」
「3!」
「2!」
「1!」
「さぁ、どーっちだ?」
しかし、二人は考える時間を与えないように交互にカウントダウンを口にすると、目をキラキラと輝かせて護衛たちに答えを求めた。
「むぅー……こっちです!」
悩んだ末にリアンが左側のイザンバを本物だと言えば、彼女たちはニッコリと微笑んだ。
「残念! ハズレでーす!」
二人のイザンバの声の調子はどちらも楽しそうで、しかも片方がイルシーだと思うと悔しいような、可笑しいような。
そこに響くノック音。カジオンに案内されて、ファウストを連れたコージャイサンがやってきた。
「あ、コージー様いらっしゃいませ! お元気そうで安心しました!」
「ああ。ザナも元気そうで何よりだ。それで一応聞くけど……何をしてるんだ?」
揃って淑女の礼をする二人に彼の背後では衣装の箱を持ったファウストが驚きを露わにしているが、コージャイサンは特に焦る様子もない。
従者四人が壁際に控える中、何をしているのかと問われた彼女たちはまたクルクルと立ち位置を入れ替える。
「本物どーっちだ⁉︎」
左右対称のポーズとその声掛けに「なるほどな」と腕を組んだコージャイサンが徐に口を開いた。
「忠臣の騎士でのザナの推しと言えばシリウスですが……」
「でーすーがー?」
「天地闘争論での推しは誰でしょう?」
上機嫌な二重奏によって入れられた合いの手。続いた押し問答の解はもちろん——……?
「アズたんです!」
「サタン様です!」
「え?」
割れた答えに顔を見合わせる彼女たち。そんな二人をよそにコージャイサンは「サタン」と答えた左側を指差した。
「はい、こっち」
「あ、正解です」
至極あっさりと当てられてしまったではないか。
しかしここでもう一人のイザンバがプルプルと肩を震わせ、納得がいかないと言うように叫んだ。
「広場で言ってたのと違うじゃねーか! なんでそこでサタンなんだよ⁉︎」
「何言ってるんですか? 天使サイドの推しがアズたんであって、最推しはサタン様です!」
「うぜぇー!」
「あははははははははは!」
イザンバの顔で、イザンバの声で、でも口調だけはイルシーで。
そのちぐはぐさとやりとりの軽快さにイザンバは気を悪くした様子もなく愉快だと笑う。
そんな二人の会話でファウストは別の所に関心を置いた。
「推しというものにそのような違いがあったのか」
「これはイルシーの下調べ不足やな」
「イザンバ様が特殊なんじゃない?」
ヴィーシャとリアンもそれぞれの見解を述べるが。
「お嬢様を真似るのは本当に難しそうだ」
ジオーネのこの一言に尽きる。
ならばご清聴あれとイザンバが溌剌と声を上げた。
「じゃあ、今からサタン様について語りますからよく聞いてくだs……」
「いらねーよ!」
「あはははははっ! 秒どころか被せて断られたんですけど!」
響く笑い声はどこまでも軽やかで明るい。
「でも勝手に語っちゃう! あのね、サタン様は強くてカッコよくて敵に容赦なくて、そうなったら身内にも厳しいと思うでしょ? 部下のメッフィーとか『ふっ……こいつは四天王の中でも最弱だ』を地で行っちゃうからすぐ天使にボコられちゃうんだけど、そうなると今度はサタン様が天使を容赦なく氷漬けにしちゃうんですよ。冷ややかな王としての顔を持つ反面結局身内に甘くなっちゃうギャップに『良きー!』って叫ばずにはいられないと言うか最高オブ最高でマジでキュン死にものなんですよー!」
「あー、うるせぇ! つか、それどこのコージャイサン様だよ」
「え? コージー様?」
イルシーの発言にイザンバは首を傾げたが、聞くともなしに聞いていた従者一同は激しく頷いているではないか。
——騎士としても魔術師としても大層強い
——その上、見た目も極上
——敵を完膚なきまでに潰す容赦のなさ
——しかし身内、特に婚約者には驚くほどに甘い
言われてみればの共通項にイザンバはハッとした。勢いよくコージャイサンに向き直ると、畏れ多いとでも言うように声を振り絞る。
「もしかして……ここに居られるのはサタン様が転生したお姿であらせられると?」
「ふっ……よく見抜いたな」
酷薄な笑みと尊大な物言い。さてはて、彼のこれは素なのか演技なのか。
だが、どうにもノリよく答えたコージャイサンにイザンバのテンションは急上昇だ。
「きゃーっ! 私、あなた様のファンなんですー!」
「馬っっっ鹿じゃねーの⁉︎」
それはまさかの発言にノッたコージャイサンにか、はたまた黄色い声をあげたイザンバにか。
イルシーが無礼にも言い放ったが、二人にさして気にした様子はない。
「冗談に決まっているだろう」
「そうですよー。そんな溜めて言わないでください」
彼らは分かっていてやっているのだ。
——コージャイサンはただ八年の間に培われたノリの良さを発揮して
——イザンバにとっては二次元と三次元、推しと婚約者は別物と認識して
そんな主と婚約者の絆にイルシーはため息をつきながら肩を落とした。
「あ! ねぇねぇ、じゃあ推し語りなしならどうですか? コージー様、ちょっとだけ後ろ向いててください」
イザンバがコージャイサンとイルシーにもう一回と強請る。
そして、コージャイサンに後ろを向いてもらい三度クルクルと入れ替わると元気よく問いかけた。
「本物どーっちだ?」
改めて前を向いたコージャイサンは、けれども二人に近づくと迷いなく右側の手を取った。
「こっち」
「早くない⁉︎ なんで分かったんですか⁉︎」
「なんでって——……側にいる感覚が一番俺に馴染んでるから」
驚くイザンバにコージャイサンは何でもないように言うとそのまま指を絡めて握り込んだ。
「これ以上に理由があるか?」
その状態でさらに一歩近付かれてイザンバは一度ならず二段階で赤面する羽目になった。
「そ、うですか。あの、なんか、近くないですか?」
「……——今日は逃げないんだな」
なにせ逃亡常習犯だ。今だって恥ずかしいと言って駆け出してもおかしくないのに。
だがしかし、すでに逃げた後であるからこそイザンバは頬の熱を持て余しながらも気まずそうに視線を彷徨わせた。
「あの、えっと、なんて言うか……悪い癖がつく前にね、その、改めようと思って」
「へぇ」
言いながらコージャイサンのしなやかな指が捕えたままのイザンバの指の間を悪戯に撫でる。
いつもの彼女ならばここですぐに「何をするんですか⁉︎」と手を引き抜いているであろうに、妙に体に力が入っている割に動かない。
それでも、数回繰り返せばくすぐったいのかイザンバは少しだけ体を引いた。そんな彼女にコージャイサンはクツクツと笑う。
「面白がってるでしょ」
決意を茶化されたように感じたイザンバがついジト目で見てしまうのは仕方がない事だろう。
それでも、彼の肩はまだ楽し気に揺れている。
「ん? そんな事は……あるか」
「もう! 知らない!」
「あー……悪かった。ザナ、ごめん。拗ねないで」
臍を曲げた彼女に向かって眉を下げながらコージャイサンがそう言うから。
ツンと尖っていた唇は見る見るうちに元通りになった。
「はい。って言うか立ちっぱなしにさせてすみません。座りましょうか」
そして今更ながら客人を立たせたままであることに気付いたイザンバは早々に自身の気持ちを落ち着けるとソファーを勧めたのだった。
「ったく……これだからコージャイサン様相手にイザンバ様の変装はやり難いだよなぁ」
途中からすっかり蚊帳の外に置かれたイルシーがボヤく。最早もう一人のイザンバの姿は主人の目に入っていないだろう。
しかし、それとは別に横からグサグサと突き刺さる視線。彼は煩わしそうにしながらもそちらに顔を向けた。
「なんだよ」
「もう一回」
「あ?」
「もう一回イザンバ様に成りきって話してみて」
挑むようにじっと見つめるリアンにイルシーは怪訝な表情をするが、一度肩をすくめるとそれはすぐに淑女の微笑みへと変わる。
「急にそんなこと言ってどうしたんですか?」
見た目や声はもちろん話し方、表情、仕草、どれ一つとってもイルシーの要素がない。
それは鮮やかで、見事なまでの変わり身だ。
——そういう事が得意だと知っていたのに
——そういう事を面白がるタチだと知っていたのに
リアンはその術中に嵌ってしまったのだから、ため息の一つも出るというもの。
「はぁ……ムカつく」
「ああ?」
「イルシーにじゃないよ。気付かなかった僕にだし」
「はっ。簡単に気付かれるほど俺の変装は易かねーよ」
それはいっそ傲慢なまでの自身の技への誇り。事実そうであるが、ムッとしながらも挑発するようにリアンが嗤う。
「一つ教えてあげる。イザンバ様はこの格好してる僕の事を『リアン』って呼ばないよ」
「あっそ。じゃあ俺からも一つ言ってやるよぉ。その格好の時の一人称に気をつけろよぉ。せっかく可愛いカッコしてんだからなぁ」
イザンバや使用人たちに言われ慣れてきたとは言えイルシーに『可愛い』と言われるのはやはり腹が立つ。
条件反射のように湧き上がる衝動を、それでもリアンは一つ深呼吸をしてから答えた。
「それくらい、言われなくても気をつけてるよ」
プイ、とそっぽを向くリアンに見た目こそイザンバのままだが彼は満足そうに口角を上げた——ニィッと、今度こそイルシーらしく。
いつだって一触即発だったイルシーとリアン。成り行きを見守っていた面々だが、ファウストは顎が外れるのではないかと言うくらいにぱっかりと口を開けているではないか。
リアンがイラッとした時点でまた言い合いになると思っていたのだろう。ところが、その予想が良い意味で外れたのだから。
見間違いかと目を擦り、これは現実かとヴィーシャとジオーネに確かめるように視線を送る。
「あれも…………イルシーの変装か?」
「何アホな事言うてんの」
「ちゃんとリアンだ」
そんな彼の肩を二人が労るように叩けば、ファウストは込み上げる感動を一際噛み締めた。
そして、それはソファーに横並びで座るこちらでも。
「アイツも上手くやっているみたいだな」
「はい。毎日とても頑張ってますよ。後で写真を見てください。すごく成長しているのが分かりますから」
「ああ。やっぱりザナに任せて正解だった」
「リアンの努力の結果です。でも…………——そう言って貰えて、私も、嬉しいです」
告げられた言葉にイザンバははにかんでうつむいてしまうが、その様子にコージャイサンは殊更優しい微笑みを向けた。




