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コージャイサンの宣言と新月の夜に現れた火の天使、さらにトドメと言わんばかりのセレスティア渾身の写真のお披露目により、今までの嫌味や嫉妬とは真逆の賞賛と憧憬、そして好奇心に晒される事となったお茶会も終盤に差し掛かった頃。
執事がセレスティアにそっと耳打ちをした。
「若様がお戻りになられました」
「あら、早いわね。こちらへ呼んでちょうだい」
「かしこまりました」
暫くしてからお茶会の会場に現れた軍服姿のコージャイサンに招待客が色めき立った。
「母上、ただいま戻りました」
「よく戻ったわ。成果はあったのかしら?」
「憂いは残さずに」
「そう。良かったわ」
息子の言葉にセレスティアは満足そうな笑みを浮かべる。その仕事の早さの影で小隊メンバーがまた肩で息を繰り返すことになったのはまぁ仕方がない。
そして、翡翠は迷わずイザンバを捉えた。
母親に向けたのとは全く別の甘く蕩けた笑みは玄関ホールの写真と違わずで、招待客は彼の本心をその笑みでもって知る事となった。
「ザナ、ただいま」
「おかえりなさいませ。無事のご帰還、嬉しく思います」
穏やかに、けれどもどこか甘い雰囲気を漂わせる二人に割り入る愚か者がこの場にいるはずもない。
セレスティアをはじめとした人々はただ優しく静観の姿勢をとる。
「クタオ伯爵夫人、帰りは俺がイザンバを送ってもよろしいですか?」
「ええ。よろしくお願いいたします」
婚約者と母のやり取りに慌てたのはイザンバだ。
「でも、コージー様戻られたばかりですよね。お疲れでしょうし、私はお母様と帰りますから」
「大丈夫だ。せっかく顔を合わせたんだ。引き留めはしないから、送る間だけでも話したい。ダメか?」
背後で上がる黄色い声、目の前には申し訳なさそうにしながらも我を通す婚約者。これでダメと言える人がいるならぜひ手を挙げていただきたい、とイザンバは思うわけで。
しかし、実のところ彼女も話をしたかったのでこの申し出は渡りに船であった。
「はい、私もお話ししたいです」
声音は変わらず、ただ少しばかり目に力を込めて。
——あれとかこれとか。
——分かってる。
素早く視線を交わすと二人は示し合わせたようにニッコリと微笑んだ。成る程、以心伝心とはこの事か。
「じゃあ、行こうか」
こうしてコージャイサンのエスコートで二人は公爵家の馬車へと向かった。
そしてイザンバが乗り込む直前、ヴィーシャからこっそりとされた耳打ち。
「お嬢様、ちゃんと好きやって言うんですよ」
「え?」
「シャスティに没収されんように頑張ってくださいね」
「待っ……」
ちなみに気を利かせたヴィーシャとリアンは別便だ。無情にも押し込められたイザンバが奥へ、コージャイサンはその向いへ。
少しばかり居心地が悪いが、イザンバはひとまずヴィーシャに言われたことは思考の隅に追いやった。
さて、二人きりになった瞬間慣れたようにコージャイサンが張る防音魔法。こうなればもう淑女の仮面は必要ない。
ポイっと仮面を脱ぎ捨てた彼女は至極真面目な表情でコージャイサンに訴えた。
「コージー様、玄関のあの写真なんですか⁉︎ 画廊まで作っていらっしゃるし! なんで阻止してくれなかったんですか!」
「母を止められるのは父だけだ。その父も乗り気だったから止めるのは無理だ」
「お茶会の話題もコージー様の宣言と写真ばっかりで、その上で微笑ましいものを見る生温い視線とニヤけ顔が二乗三乗になってすっごく居づらかったんですよ!」
「それはすごいな。お疲れ」
ひと足先に先輩たちからそんな視線をいただいていたコージャイサンだ。お茶会の様子も想像に容易くとりあえず労りの言葉を投げる。
「あと今王都に非常に、非常に! 不本意な噂が流れています」
「不本意な噂?」
力一杯語気を強めるイザンバだが、コージャイサンは首を傾げるばかり。彼女はふぅ、と一つ息を吐いて現状を説く。
「はい。恐れ多くも私がアズたんと同じく火の天使と呼ばれてしまいまして」
「なんだ。そんな事か」
「なんだって……このこと知ってたんですか?」
「いや、狙ったんだ」
ニヤリと口角を上げる姿は大層様になっていて。
——その尊大さに
——その豪胆さに
イザンバは慄いた。
「つまり……ワザと顔を変えたと……?」
「ああ」
なんと言うことでしょう。平然とした顔でコージャイサンは言い放つが、イザンバとしてはさぁ堪らない。
彼女の口から出たのは悲鳴に近い抗議の声だ。
「じゃあなんであの時好きな火の天使は誰だなんて聞いたんですか⁉︎」
「好きなものと同列に扱われるなら賞賛を受け入れやすいかと思ったんだが……」
「私とアズたんが同列とかおこがましいにも程があるって言ったじゃないですか! 推しは神! 私は貢ぎ奴隷!」
激しく首を横に振って主張しているあたり、どうやら今度は照れ隠しではなく本気で言っていそうだ。
あまりのイザンバの必死さにコージャイサンは肩を竦めた。反応を読み違えたようだが、その後も淡々と言葉を続ける。
「貢ぐのは程々にしろよ。天使の事ならザナの方が詳しいだろ? どうせ顔は書き換えるから他の部分を任せたいなと思って」
「書き換えないでください! 顔もそのままでいいじゃないですか……せっかく綺麗で可愛くて最強ヒロインのアズたんを細部までイメージしたのに!」
イザンバは顔を手で覆い切々と訴えるが、これこそ後の祭りというものだ。
「それよりもザナの顔で翼を広げた姿の方が印象に残ったんだろうな」
「やだー! ほんと外歩けない! 人造黒歴史が悲惨すぎる!」
「そのうち聞き慣れて普通に歩くようになるって」
「あうっ! リアンにしてる事が返ってきちゃった……」
リアンに対して可愛いを連発して慣らさせているところであるのだから、もう同じくして天使呼びは諦めて慣れるしかない。
しょんぼりと肩を落とすイザンバに、けれどもコージャイサンはまた別の狙いを口にする。
「それに俺としてはザナと火の天使が結びついている方が牽制になっていい」
例えばイザンバが一人の時に誰かに声をかけられたとしても、彼女がどこの誰で、誰の婚約者なのかがすぐに分かる状況であれば……。
しかも、その相手は格上も格上。二人の仲も伝え聞く以上のものなのだから余計な事は言わずに黙って身を引くことだろう。
とは言え、すでに起こったことに関しては話は別。
「俺が居ない間に他の男に口説かれたみたいだしな」
「え? そんな事ありませんけど」
イザンバが首を傾げればコージャイサンは彼女の隣へと移動した。少しばかり翡翠に圧を増して。
「『心が惹かれるイイ女』。『本気の女として選ぶ』。『お嬢様は守ってあげたくなる』」
コージャイサンの口から紡がれたそれは確かにゼクスが言っていた言葉の一部で。
「『火の天使を守る騎士になる』……だったか?」
続けられた表通りで少年が言った言葉。
もう報告を受けたのかとその迅速さに舌を巻くと同時にイザンバは少しばかり呆れてしまう。
「いや、あのね、男の人って言っても片方は死霊だし、片方は子どもだし」
「それでも男だろう? まぁ死者に鞭打つ気はないし、騎士を目指す意欲も認めてやるけど——……」
そう言って彼女の右手を掬い上げ。
「ザナを守るのは俺だ」
その手の甲に唇を落とした。
それはまるで騎士が主君に忠誠を誓うように厳かで神聖な瞬間。
けれども伏せられた翡翠が再びヘーゼルと視線を合わせれば、そこには主君に向ける事のない情愛が込められていて。
カランコエに託した想いを改めて言葉にされて、見せつけられた独占欲と甘く溶け出してしまいそうなほどに上がる体温に、頬が一気に赤みを増す。
手は、まだ離れない——強く握られているわけでも、指を絡めているわけでもないのに。
手を、離せない——ただ包み込むような優しさにイザンバは降伏した。
「あの、いつもお世話になっている身としては、本当にありがたいです。ありがたいんですけど…………その格好で、そんな事言わないでください」
「なんで?」
「様になりすぎて鼻血が出そうだから!」
鼻を抑えて顔を背けるイザンバにコージャイサンは吹き出した。
「笑い事じゃないです!」
「シリウスのコスプレもしてないし、セリフも言ってないのに鼻血が出るのか?」
コージャイサンはクツクツと喉を鳴らしながらも、悪戯な光を宿して覗き込むようにヘーゼルの瞳を見つめてくる。
それはシリウスにではなく、コージャイサンにときめいていると言っているに他ならないのだが、果たして彼女が気付いているのかいないのか。
「確かに前のコスの軍服もいいけど、今の方が騎士様って感じがしてすごく似合っててかっこいいんですからね! 自覚してください! あ、これで魔術師団の制服着てくれたら三種類コンプですね!」
「そう言えばそうだな。今度着ようか?」
「うーん、それはそのうち機会があればお願いします。まぁ間違いなく似合うんでしょうけど。でも……私は魔導研究部のツナギ姿が一番コージー様らしくていいなーって思います」
ニコニコと言い切るイザンバに不意を突かれたようにキョトンとしたコージャイサンはそのあと嬉しそうに笑い、そして自然な動作でイザンバに近づいた。
——唇同士の軽い触れ合い
——一瞬にしてとろりと甘く蕩ける翡翠
ほのかに熱だけを残されてイザンバは勢いよく後退った。馬車の狭さが仇となって壁に頭をぶつけたが本人はそれどころではない。
「いっ……急になにっ!」
「ザナのそういうところが好きだなって思ってしたくなったから」
「へあっ⁉︎」
狼狽える彼女は臆面もなく告げられた言葉に頬の熱さが増していく。
「そういう可愛い顔、他の男の前でするなよ。ほら、頭見せて」
そう言って後頭部に回った手は治癒魔法のほんのりとした温もりを添えて頭を撫でる。
大人しく頭を預けていたイザンバだが不満を漏らした。それはそれは消えいりそうなほどの小さな声で。
「…………なんでそんなあっさり言えるの……」
「ん? どうした?」
「なんでもないです!」
強めの語気は焦りと不貞腐れた内心を表していて。
——私も言わなきゃ! このまま言わずに帰ったらぬいちゃんたちの没収コース……。
だが、果たしてそれは没収されるのが嫌だから言うものだろうか。
今コージャイサンがさらりと言ったのも、そう思ったから素直に言葉にしただけの事。
言わなければならない、なんて義務感ではなかったはずだ。
イザンバが一人悶々としているうちにも馬車は進み、クタオ邸へと辿り着けば防音魔法も解かれてしまう。
「着いたな」
扉の向こうに人の気配がする。イルシーが扉を開けて、ヴィーシャとリアンも控える中、エスコートする為に先に降りようとするコージャイサンの軍服の裾を引き留めるように指で摘んだ。
「ザナ?」
ところが呼びかけても彼女は無言で俯くばかり。
どうしたのかと不思議に思ったコージャイサンは従者たちに目配せをすると扉を軽く閉めて、もう一度その隣に腰を落ち着けた。
イザンバにはまだ彼のように大勢の前で言い切る度胸はない。けれども、街で会った幼女ですら勇気を振り絞って感謝を伝えたのだ。
イザンバも、誰よりも伝えたい人が目の前にいるのなら——。
——気遣いをしてくれた時
——優しく名を呼ばれた時
——弱音を吐いてくれた時
——翡翠が甘く蕩けた時
疼く恋心に心臓がキュッと握り締められるような、同時に抑えようのないほど心を満たして溢れかえる愛おしさ。
彼女は掴んでいた裾から指を離すと、そっと察して欲しいと言うように潤ませたヘーゼルを向けた。
さらに肩に手を置けば、察しのいいコージャイサンは聞く姿勢を取ってくれる。
そんな彼の耳元へ内緒話をするように寄せた唇からまろびでた囁き声。
「好き」
精一杯の想いを込めて、それでも音にするのは二文字が限界で。
コージャイサンが目を見開き固まっている隙にイザンバは急いで馬車から降りる——その頬も耳も真っ赤に染め上げたまま。
「それじゃ、送ってくださってありがとうございました! それとお仕事も本当にお疲れ様でした! どうか邸でゆっくり休んでくださいね!」
言い終わるや否や返事も聞かずに淑女らしからぬ猛ダッシュで邸の中に駆け込んだ。
しばし呆然としたコージャイサンだが、言葉と共に吐息の熱が掠めていった耳に指先で触れた。
そして、じんわりと迫り上がる熱を隠すように顔を手で覆う。
「っは…………——やられた」
いつもとは違いまるで余裕がないような、悔しそうな言葉を吐き出しながらも彼は頬を紅潮させている。
珍しくも照れた顔をしたコージャイサンだが、ふとイルシーに向かって鋭い声を投げた。
「撮るな」
開きっぱなしの扉からイルシーが術式を使って撮影していたからだ。
だが、主人に睨まれていると言うのにイルシーは悪びれもせず撮り続けた。
「いや、これは撮るだろぉ。イザンバ様は見てねーんだし売ってやらねーと」
「売るな」
「あー、そういや俺借りが一個あるわ。しゃーねーなぁ、タダかぁ」
残念そうに言うんじゃない。イルシーの調子につられるように返せば返すほどその頬の赤みは落ち着いていって。
そんな主にヴィーシャは嫋やかに微笑んだ。
「良かったですね、ご主人様。初めて好きって言うてもろて」
「はぁあ⁉︎ ……ああ、だからかぁ。コージャイサン様でも反応できない事ってあんだなぁ」
「うるさい」
ニヤニヤとした笑いを口元に浮かべたイルシーだが、すでにクールさを取り戻したコージャイサンのなんと冷たい事だろう。
にも関わらず、従者たちはニンマリと口元に弧を描いた。喜んでいるであろう主の胸中に共感するように。
さて、こちらはクタオ邸内。イザンバの猛ダッシュの勢いは衰えず、彼女は部屋を目標にして一直線に駆けていった。
「お嬢様、どうされたんですか⁉︎」
「なんでもない! なんでもないから!」
イザンバはシャスティの呼びかけにも立ち止まる事なく、外れてしまうのではないかと言うほどの強さで閉められた扉で居場所を区切る。
「それなんでもなくないですよね!」
「リナちゃーん。説明求むー」
「えーっと……」
シャスティの驚きの声、困ったようなケイトの声にリアンは少し口籠る。
だが、ゆっくりと深呼吸をすると目元、口元と一つずつ意識して微笑みを形作り言った——『リナ』を意識しながら。
「お二人はラブラブです」
「そこのとこ詳しく!」
ズイッと間合いを詰めた二人にリアンはパチクリと瞬きをすると、オンヘイ公爵邸についてからの出来事を話し始めた。
そんな階下の賑やかさとは反対に、静かな部屋の中でイザンバは顔を手で覆い、扉に凭れかかったままズルズルとしゃがみ込んだ。
「心臓……吐きそう……」
火照る顔も、うるさいほどに強く打つ鼓動も、ただ邸内を駆け抜けたからだけではない事は明白だ。
さてはて、彼女は次に彼と顔を合わせる時、ちゃんと目を合わせられるのだろうか。
——変わりたい、と願う自身の変化を
——変わって欲しい、と願う誰かの思いを
彼女たちは受け入れた。
身動きを封じた言葉の呪縛から解き放たれるように、高く聳え立つ拒絶の壁を打ち破るように、ひとつ、ふたつと、越えていく。
新月の夜以降、人々の口に上がらない日はない火の天使は、ずっと二の足を踏み続けた彼女たちの背中すらもそっと優しく後押したのかもしれない。
これにて「心は柵を越えて」は了と相成ります!
読んでいただきありがとうございました!




