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「ああ……お腹が痛くなってきたかもしれない……」
「ここまで用意しといてまだ言うてるんですか?」
「だってー!」
セレスティア主催のお茶会の日。着替えもメイクも済ませておいてイザンバは行きたくないと駄々を捏ねる。
さて、本日の衣装は広めの襟ぐりでデコルテをすっきりと見せた清楚で愛らしいミントグリーンのドレス。
襟元はフリル付きのホワイトカラーで愛らしく、スカートはふんわりと広がるが、腰元で引き締まったデザインなのでそのシルエットをより引き立てる。
逃げようとするイザンバを捕まえてなんとか準備を終えたというのに、本人のやる気は下限を突き破る勢いだ。
それもそのはず。彼女は先日の『火の天使騒動』によりすっかり外に出る気力を無くしてしまったのだ。たがそんな理由でお茶会の欠席は認められない。
メイク用品を片付けながらシャスティが尋ねた。
「今日は婚約者様はご一緒しないんですか?」
「まだ出張からお戻りになっていない」
「帰ってきたらしばらくお休みいただけるみたいやし、お嬢様も頑張りましょう。楽しみにしてはることあるでしょう?」
ヴィーシャの言う楽しみはきっとコスプレを指していて。その事に少しだけ気分が浮上したイザンバだが、シャスティの思う楽しみは少しばかり違ったようだ。
「そうですよ! 感動の再会はこんな感じですか⁉︎ 『遅くなってごめん。会いたかった……』」
「『私も……会いたかったです。お帰りなさい、大好き!』」
「『俺も好きだよ』……——みたいな〜?」
突如披露されたコージャイサン役のシャスティとイザンバ役のケイトによる寸劇。
「いやいや、そんな挨拶で好き好き言わな……ん?」
その内容に呆れていたイザンバだが、ふと言葉を止めて思考を飛ばす。
——最初に好きって言って……言って……?
ドッペルゲンガーによって死ぬと思い込んで手紙に記した想い。コージャイサンが応えてくれた事を喜ぶよりも先にいっぱいいっぱいになったあの時からの記憶を辿る。
その間も披露された寸劇第二弾。
「じゃあこれですかー? 『無事を祈るだけの日々は辛くて……どうかずっとお側に……離れないでくださいっ!』」
「『当たり前だろう。世界一好きなんだ。永遠に離さない!』」
「『嬉しい……! 私も大好きです! 一生離れませんから!』」
ケイトもシャスティもノリノリで実に楽しそうである。しかし、それを見てまたも考え込むような仕草を見せるイザンバにジオーネが訝しんだ。
「お嬢様、どうかしましたか?」
「え、あー、いや、ちょっと待って」
——好きだよって言われて、私…………あれ?
記憶を辿る。ぐるぐる、ぐるぐると。首を傾げながら自問自答した結果、彼女が気付いてしまった事実。マズい、とでも言うように顔色をなくしてポロリと溢した。
「私……好きって言った事、ないかも……?」
これは中々とんでもない発言ではなかろうか。先程までキャッキャッと盛り上がっていた一同もその呟きに動きを止めてしまった。そして彼女たちの理解が追いついた瞬間、どうしようもないほどに大きな驚きがそれぞれの口から飛び出した。
「えぇぇぇぇぇえっ!!!???」
邸を揺るがすほどの大音量。それは部屋どころか、廊下にいたリアンにも、他の場所で仕事をしていた使用人たちにも聞こえるほどだ。
しかし、彼女たちはそれどころではない。
「あれだけイチャついていて⁉︎」
目を見開いたジオーネも。
「甘々な顔向けられてんのに⁉︎」
口元を手で隠すヴィーシャも。
「キスマークまで付けられたのに⁉︎」
頬を手で挟み込んだケイトも。
「好きって言ってないって、どういう事ですかぁぁぁ!!」
トドメはシャスティの大絶叫。次々とイザンバに詰め寄りその真意を問う声に、廊下にいるリアンにも話の内容が分かった事だろう。
「いや、なんか……その……色々と……えっと……タイミングが、ね……合わなくて……」
グイグイと迫る彼女たちに対してイザンバはと言えば、言葉を紡ぐほどに顔は赤くなり、声も尻すぼみになっていく。
「ああ〜〜〜」
そんなイザンバの様子に何かを察したメイドたちの顔はまたニヤニヤとしていて、ケイトがしみじみと言った。
「甘酸っぱいですねー」
「ご主人様の方が上手だからな」
「お嬢様、ええように転がされてるんでしょ」
ジオーネとヴィーシャの言い分にイザンバは小さく縮こまる。人の目がある所でそんな事はしてない、と言いたいが今口を開いても言いくるめられる気しかしない。
そしてシャスティからは鼻息荒い追撃だ。
「そんなお嬢様も可愛いけど言って! 一番大事な所じゃないですか! そこはちゃんと言ってください!」
ごもっともである。「コージャイサンだけだ」と言った事はあるがそれはそれ、これはこれ。イザンバとて理解しているからこそ気付いた時に顔色をなくしたのだから。
「お嬢様、お祝いのお品を買うより先にお気持ちを伝えましょう。その後に婚約者様に何か欲しいものがあるのかお尋ねした方がいいです」
「それでお嬢様が欲しいと言われたらどうするんだ?」
「そのままポイっとあげてください! 万事解決!」
「解決しない! 何言ってるんですか!」
ジオーネの疑問にシャスティはイザンバ献上で解決を促す。護衛たちのみならず長年仕えているメイドにも既成事実を推されてイザンバはさらに身の置き所がない。
恥ずかしさで俯く彼女にシャスティはコホン、と咳払いを一つして自身を落ち着かせると、努めて穏やかに声をかけた。
「お嬢様は感謝の気持ちはすぐにお伝えになられるでしょう? もちろんそれも愛情表現になっていますけど、やっぱり好きだって事もお伝えしないと」
「どれだけ心で思っても、態度に出していても、言葉で伝える事に勝るものはないですからねー」
「……はい」
ケイトのダメ押しの一手にイザンバは神妙に頷いた。互いが想い合っているのは一目瞭然であるが、やはり伝えないと言うのは悪手でしかない。
「今『はい』って言いましたね? 聞きましたよ! 次に婚約者様とお顔を合わせられたらすぐに言うんですよ! さもなくばぁ……」
焦らすようなシャスティの物言いにゴクリと唾を飲み込んだのは誰だろう。いつもにはない緊張感を孕んだピリリとした空気の中、ついに宣告された。
「忠臣の騎士シリーズとぬいちゃん様は没収です!」
「やめてー! それだけはやめてー! 後生だからー!」
必死に頼み込むイザンバだがシャスティの目はマジである。もっと真剣に縋らなければならないかと考えた矢先、リアンが扉をノックする音が無情にも告げる時間切れ。
「イザンバ様、お時間です」
「さ、お嬢様お立ちください。行きますよ」
供をするヴィーシャに背を押されイザンバの足は部屋を出て廊下、そしてあれやあれよと言う間に玄関へ。
「え、ねぇ、待って。シャスティ、没収しないよね? しないでね?」
「はいはい。お嬢様がきちんとお伝えされたと確認が取れたらしませんよ。婚約者様にお会いした時は頑張ってくださいね」
フェリシダが待つ馬車に追い立てるように乗せられたイザンバ。ヴィーシャとリアンも乗り込んだ所で、邸に残るメンバーは姿勢を正した。
イザンバがゆっくりと呼吸をすると、淑女の仮面がその本性を覆い隠す。
「それじゃあ、皆。行ってきます」
「奥様、お嬢様、行ってらっしゃいませ」
揃って頭を下げる執事とメイド達に見送られ、イザンバはオンヘイ公爵邸へ赴いた。
さて、こちらはオンヘイ公爵邸。馬車到着の知らせを受けて、ホストであるセレスティアが出迎えた。それも珍しく玄関扉の前で。
「フェリシダ、イザンバ、いらっしゃい。よく来てくれたわ」
「セレスティア様、本日はお招きありがとうございます。なんだか……とても盛り上がっていらっしゃるようですが」
フェリシダが戸惑うのも当然で。まだ中にも入っていないというのに、そわそわと浮き足だったどこか落ち着かない雰囲気が伝わってくるほどだ。
不思議そうにする母娘にセレスティアはとても麗しい笑顔を向けた。
「ふふ。二人にもぜひ見て欲しいの。さぁ、入ってちょうだい」
セレスティアの言葉を合図に開かれた扉。一歩踏み入った玄関ホールで二人が見たものは公爵夫妻が仲睦まじく寄り添っている肖像画サイズの写真だ。美男美女とはまさにこの事と言わしめるほどの存在感と麗しさ。
しかし、付き添いの護衛たちも含めて目を奪われたのはその隣であって。
「まぁ!」
そこにはコージャイサンとイザンバが微笑み合う写真が鎮座する。それを前にセレスティアは威風堂々たる態度で胸を張った。
「どう? いい写真でしょう?」
「ええ、本当に!」
驚きはしたもののとても嬉しそうな笑顔でフェリシダが示したのは完全同意である。
写真から伝わる二人の親密さに一層キラキラと瞳を輝かせた彼女にセレスティアも満足そうに頷いた。
対してイザンバはまるで世界の真理を目の前に突きつけられたような、己の理解を超えた何かを見せられたような感覚だ。淑女の仮面の裏で「何がなんだか分からない」と頭の中を大きな疑問符が占拠する。そして、数瞬間の空白を要してその存在に理解が追いついた。
——なんで公爵家の玄関ホールに私がいるの⁉︎ ドッペルゲンガー⁉︎ って違う! これは写真! 写真だけどこんなのいつの間に撮られてたの⁉︎ なんでこんな大きいの!
思考は千々に乱れて、現実逃避よろしく回れ右をして駆け出したかった。もしも、この場にいるのがコージャイサンと従者たちだけなら確実に逃げ出していた事だろう。しかし悲しいかな招待された身でそんな事が出来るはずもなく、駆け出しそうな足を逆に強く踏み締めた。
さて、一言も発さないイザンバの内心が分からないセレスティアではないが、彼女はそれも含めて楽しそうな笑みを義娘に向けた。
「ザナ、どうかしら?」
「申し訳ありません。驚きすぎて言葉が出ず……。私までもが玄関ホールの彩りに一翼を担わせていただき恐縮至極でございます。あの、コージー様はこの写真が飾られることはご存知なのですか?」
「ええ。選んでいたのは知っているわ。その後すぐに仕事が立て込んだからこうやって飾っているものはまだ見ていないけれど」
「そうですか」
告げられた事実にイザンバはただ微笑む。それはコージャイサンが同意しているのならば否はないと言うように。
——知ってたなら教えて欲しかったー!
さりとて内心は大泣きである。ここが自室であったならば床に突っ伏して声を上げた事だろう。イザンバにセレスティアの行動を止められるはずもなく、しかもコージャイサンも忙しくしていたのだから今更言っても詮ない事だという事も分かっている。分かっているのだが、それでもチラッと一言欲しかったなと彼女は思う。
さて、母娘に驚きをもたらす事に成功したセレスティアだが、ここで艶かしいため息を一つ。
「でも他にもいい写真があって決めるのにすごく悩んだの。だって勿体ないじゃない? だからね……」
そこで言葉を止めた彼女にイザンバはなんだか嫌な予感がした。そして、それはあながち間違いではない。
セレスティアの視線を受けた執事が玄関横の扉を開ける。
「画廊にしたわ!」
「まぁ! 素敵ですわ!」
部屋の壁に並ぶ額装に入れられた大小様々な写真。フェリシダがまたも瞳を輝かせるものだからセレスティアも鼻高高である。
「でしょう? これから先も写真は増やしていく予定よ。結婚式も孫の写真も絶対に飾りたいわ!」
「分かります! 子どもたちの小さい頃にも写真があればと思いますけど、だからこそこの先はたくさん残したいですもの! セレスティア様、我が家でも同じようにしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、構わないわ。うちとクタオ伯爵家の仲だもの。アーリスの分もたくさん飾ってあげなさい」
それは周囲に知らしめるには十分で。
——二人の仲を両家が祝福していると
——写真という新技術をすでに共有していると
——伯爵家が同じ事をしても許される間柄であると
盛り上がる母たちの楽しそうな声がイザンバにはどこか遠くに聞こえた。
—— 画廊? え、なんで? どうしてそうなったの? ああ、お義母様だからね。うん。私同意したっけ? いらない? 知ってたー。それにしても流石公爵家。規模が違うわ。でも画廊かー。ナニソレ美味しいの?
もはや疑問と悟りが交互に脳内を駆け回る。その微笑みを崩さないまま。執事と護衛たちから同情的な視線が向けられたが、それでもイザンバは淑女の微笑みで受け流す。
「ザナはコージーの宣言を直接聞いてないんでしょう? その時の写真もあるからゆっくり見てから来なさい」
「はい、ありがとうございます」
セレスティアとフェリシダは連れ立ってお茶会の会場に向かった。
さて、執事が気を遣ってくれたのか画廊はイザンバたちだけの貸切状態だ。
イザンバは飾られている写真を見たいような見たくないような。写っているのがコージャイサンのみなら何も気にせず見ただろうが、セレスティアのあの口ぶりではイザンバも写っている事は確実である。
だが、いつまでもじっとしていてもしょうがない。意を決したイザンバだが、しかしここで人の気配がない事を確認したリアンが密かに声を上げた。
「イザンバ様。あの写真とかこの画廊の事とか知ってたんですか」
「知るわけないじゃないですかなんだアレってビックリです今でも信じられないですよ」
信じられないも何も目の前にあるのだが。食い気味に、一息で答えてしまったのはそれだけ動揺しているからだ。だが、彼女はそれをおくびにも出さずセレスティアと会話を続けていた。
「どうしたら…………どうしたらイザンバ様みたいに出来ますか?」
それは焦燥に駆り立てられたような、悔しさを搾り出すような問いかけ。イザンバはゆっくりとリアンの方へ振り向いた。
「具体的な方法という意味なら驚いたり、怒ったり、感情が動きそうな時に深くゆっくり呼吸をすることです。鼻から息を吸って、それを倍の時間かけて口から吐き出す。もちろん状況によってはそんな悠長な事してられないでしょうけど」
言葉や手が出る前にまずは深呼吸だと彼女は言う。だが反射のように飛び出てしまう苛立ちを、感情を抑える事は至難の業である。
「気持ちを切り替えるための固定の動作を作ることもいいですね。あとは慣れって言ってしまえば身も蓋もないんですけど……笑顔を貼り付けるのは難しいですか?」
「いえ。それは……毎日のペナルティで少し慣れました。でも、このままじゃ『リナ』には足りない気がして」
そう答える彼にイザンバはふんわりと微笑んだ。
彼は以前にイザンバが言った「今から『リアン』と言う個を隠して『リナ』になる」事の意味を理解したのだ。今のままではリアンが女装をしているだけで、例え『リナ』と呼ばれても個としてのリナは存在していない。「可愛い」と言われて怒るのはリアンであって、リナではないから。
「ちゃんと考えてえらいですね。それなら、周りをよく観察しましょう」
「観察?」
「男性として、女性として、人として。あなたの周りには素晴らしい手本となる人材が溢れています。まずは見聞きしたものを自分に馴染ませていきましょう。その次に得たものを活かしながら『リナ』の人物像を明確にイメージします。そしてそこに『リアン』の個を隠して寄せていくんです」
「はい」
戦闘でも実際にやってみることによって、経験値が身に付く。貪欲さを見せ始めたリアンは、より自分に馴染む手法を探るため試行錯誤する事でさらに上達していく事だろう。
リアンの成長にヴィーシャとにこやかに微笑み合うとイザンバは写真に目を向けた。
そこにはクロウと向き合い構える姿。
チックとの攻防。
三対一の構図。
変わりゆく展開を見守るようにゆっくりと画廊内を進む。
「あ……」
その足が止まったのはコージャイサンが氷柱に囲まれている写真の前だ。落ち着いた表情の割に揺るぎない意志を宿した翡翠の力強さが伝わってくる。
「この時に例の宣言をされたそうですよ」
「そうなんですか」
ヴィーシャの声に、それでもヘーゼルはただ真っ直ぐに写真を見つめて相槌を打つ。
目が離せないほど、昂然と胸を張る姿に抱く憧れ。
——私も、もっとちゃんと……。
私なんかという思いはそうする事で心を守ってきたとはいえ根深い。
『ザナ、胸を張れ。あれは間違いなくザナ自身の力だ』
それでもイザンバは強く思った。この先も彼の隣に立つ為には自分の意識を改めていかなければならない、と。
教えを乞うリアンが変化を見せ始めたように。
——ちゃんと胸を張る。
しかし、その決意もすぐに虚しく散る。以降はコージャイサンと共にある自分の姿を客観的に見る事となり、その瞬間を思い出しては身悶えるほどの羞恥心に襲われたのだから。
顔にも声にも出してはいないが、確かな熱が灯るヘーゼルは彼を想い艶やかに色を変えた。




