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リアンがイザンバ付きになった初日。イザンバはサロンで彼の訪れを待った。
なぜ部屋ではなくサロンなのかと言うと、いくら訓練を称してメイドになると言ってもその正体が男性である以上未婚女性の、しかも主の婚約者の部屋に入るわけにはいかない、とリアンがコージャイサンの心中を気遣い断固拒否したからである。
さて、メイド服に着替えてヴィーシャに連れられた固い表情の彼を、シャスティ、ケイト、ジオーネと共にサロンで迎えたイザンバはニコリと微笑んだ。
「まずは目的を再確認しておきましょう」
「はい」
リアンの返事を聞くやいなやイザンバは硬い雰囲気を纏い表情を改めると、至極真面目にこう言い切った。
「私はコージー様からリアンをこの国一番の男の娘にする使命をいただきました」
「違います!」
しかし即座にリアンが否定するものだからイザンバは目を丸くしている。それはそれは驚いた、とでも言うように。
「え⁉︎ 男の娘に目覚めたリアンを誰もが振り返る美少女に仕立てたら存分に愛でさせてくれるはずでは⁉︎」
「目覚めてないし愛でさせません! 正しくは感情を制御して潜入時に役になりきるための訓練です!」
「あれ?」
「イザンバ様……ワザと言ってるでしょ」
怒涛の勢いの拒絶にイザンバは小首を傾げてボケてみせるが、どうやらリアンにはワザとらしく見えたようで。
その彼も固かった表情にすっかり怒りで色がついて、少しばかり緊張は解けたようだ。
イザンバが穏やかに微笑めば、リアンは小さくため息をついた。
「冗談はさておき、リアンは淑女の仮面ってどう言うものだと思いますか?」
「見た目、行動、教養、性格、その全てに高等な品格があり、誰からも認められる完璧な令嬢に成りきるものです」
「わー、ハードル高ーい!」
リアンが真面目に答えれば問うた彼女は楽しそうに笑う。馬鹿にしているわけではなく、令嬢たちが目指す高みであると知るからこそ。
「でもそれは淑女の仮面って言うより淑女の鑑ですね」
——美しいだけではない
——家柄だけではない
可憐さと強かさを併せ持つ貴婦人の姿。
それはまさに貴族女性たちの憧憬と羨望を受けるイザンバの師でもあるセレスティアや王妃、彼女の同世代でいえばイスゴ公爵令嬢が登り詰めた遥か高みである。
だと言うのにイザンバは実に気楽な様子でリアンに投げかけた。
「じゃあさっき言ったの、やってみてください」
「えっと、それは……いきなりは無理です」
「ですよねー。だからそれはいつか辿り着けるたらいいなーくらいの目標にして、今は隠したいリアンと言う個の特徴をまずは一つ意識しましょう」
「一つ……ですか」
例えば従僕の格好をしたとして、それをリアンと別の人であると印象付けるためには彼自身の個性や癖をみせてはならない。
見た目は変装技術でなんとかなるにしても特に癖。
イザンバで言うなら収集癖や妄想癖になるが、口癖、手癖、泣き癖、笑い癖というものは個の特徴として結びつきやすい。
『——まずは微笑みを身につけなさい。けれども感情を殺してはダメよ。それはあなたがあなたである事の証。そして、ご両親があなたに与えた慈しみの証。忘れたり、消したりしてはいけないものよ。ただ社交相手に見せないように、その上に微笑みを被せて隠すの』
師事し始めた頃にセレスティアからかけられた言葉だ。
『——四六時中被っている必要はないわ。社交では淑女の仮面を被ったイザンバ・クタオ伯爵令嬢として、そして笑いたい時はあなたが気を許せる人の前でイザンバとして笑いなさい』
そうして彼女なりに積み重ねてを作り上げたのが、イザンバという個を覆い隠す淑女の仮面、今のイザンバ・クタオ伯爵令嬢である。
「そう。私の場合はとにかくオタバレを防ぎたくて。まずは好きなものを見て興奮してしまうところを隠すことでした。リアンは何を隠しますか?」
「……か……………………か、わ、……いい……って言われても怒らない、ようにします」
「じゃあその怒りの感情に微笑みの仮面を被せて隠しましょうね。とりあえずそこを意識してシャスティとケイトについてメイドの仕事をしてください」
「あの、それだけですか?」
コージャイサンの前で我慢が出来るようにリアンとて多少は耐える事は出来る。
戸惑いを露わにする彼にイザンバはただ微笑む。
リアンは『それだけ』と言ったが美少女新人メイドに周りがどんな反応をするか、想像に易いと彼女は思うわけで。
しかし、微笑むだけの彼女にリアンは成し遂げねばならないと強い思いを持って物申す。
「主は『一月でものにしろ』と仰いました」
「それ、コージー様基準ですよね。別に一月で出来ないからって見捨てる人じゃないですよ」
「そうかもしれませんが、でも……」
「リアン」
それは静かに言い聞かせるような声で。
「私はコージー様が仰った一月はどこまでやれるかの目安だと考えます。もちろん一月でモノにできらのならそれに越したことはないでしょう。ただあなたは期限がきたとそこで諦めて何もしないつもりですか? もしかして……もうコージー様の元を離れるつもりでしたか?」
「いいえ! そんな事は有り得ません!」
素早い全力の否定にイザンバは満足そうに頷いた。薄緑色の瞳はまるでそこに挑む敵が居るように力強さを宿していて、決して譲る気はないと明確に伝えてくる。
「苦手な事を克服しようとしているリアンの意気込みは十分に伝わってます。その貪欲さ、いいですよ! でもね、忘れてるかもしれないけどメイド服にもまだ慣れてないでしょう?」
期限があるからこそ生じる焦りに、それでもイザンバは今日課す内容を変える気はないと微笑んだ。
「とにかく仕事中はその仮面を外さないこと。そうそう、口調は元気なままで良いですよ。時間は今から二時間後のティータイムまで。ちなみに一回でも外れたらぁ……」
まるで今から悪戯をしかけるような、にんまりとした笑みを浮かべて間を作るイザンバにリアンが少し警戒したように聞き返した。
「……外れたら?」
「ペナルティです! 可愛くおめかししましょうねー!」
イザンバはそれはそれは楽しそうに言った。メイク担当のシャスティとヴィーシャもいい笑顔である。
そしてイザンバの目配せを受けてジオーネが動いた先、サロンの隅には大きな布で覆い隠した何か。
「そして本日の衣装がこちら!」
ジオーネによりバサリと払われた布の下から現れたのは柔らかく淡いパステルピンクの薔薇柄のワンピース。たっぷりとあしらったレースが豪華さを演出しており実に華やかだ。
「もう用意してるとか……着せる気満々じゃないですか!」
「やだなー。達成したら着る必要の無いものですよ」
それはそうなのだが、からからと笑うイザンバにリアンの顔が引き攣った。
今までイザンバがこのようなデザインのワンピースを着ている所を見た事がない。つまり、リアンのために用意された服なのだと否が応でも気づくと言うもの。
しかし、絶句するリアンをイザンバはまるっと綺麗にスルーして説明を続けた。
「判定には私や両親だけでなく、うちの使用人全員に協力をお願いしています。ティータイムまで頑張ってくださいね。あ、もしかして長いですか? 初日だしもっと短くします?」
「いえ! 大丈夫です!」
「そうですか。慣れてきたら時間を延ばしたり、課題を増やしたりしますから」
二時間とは言え常に人の目がある事が途轍もなく神経を使うものだとイザンバは知っている。それも「怒り」という感情を隠して、さぁ彼はどこまでやれるのだろうか。
イザンバはゆっくりと一つ呼吸すると話し易い雰囲気を抑え、メイドたちの主人としての顔を向ける。
「それでは『リナ』。早速仕事に取り掛かってください。シャスティとケイトは新人さんに仕事を教えてあげるように」
「はい!」
「かしこまりました」
息巻いたリアンと静かに頭を下げた二人のメイドを見送ったあと。ふにゃりと力を抜いたイザンバにヴィーシャが尋ねた。
「コツとか教えてあげやんのですか?」
「それは追々ですね。私もリアンも現時点での反応を把握しておかないと後の成長が分からないし」
「それもそうですね」
彼女や主人であるコージャイサンの前では我慢していることくらいは誰にでも分かること。
実際の沸点の低さを知らないからこそイザンバは現状把握をしたいらしい。リアンの焦りも分かった上で。
弱点となる部分を把握して改善していくのは何も戦闘訓練ばかりではないと言うことだ。
「もっとこう座学とか心構えを説かれたりするのかと思っていました」
「そういうのはみんなの地元でしてるでしょ?」
違った? と首を傾げるイザンバに二人はその通りだと頷いた。
すでに潜入任務もこなしている彼らだ。もちろんその類の教育も受けているのだから、リアンに関しても基礎や座学など必要ないとイザンバは考えている。
「まぁ、感情の制御をする事って言われたけど、私がするべきなのはリアンに自己研鑽をさせる事だと思うんですよね。それにコージー様からも『見せてやってくれ』って言われたし。だからね、ほら、習うより慣れろっていうじゃないですか!」
リアンには巧みに鋼線を操る器用さがあるのだからメイドの仕事にはすぐに慣れるだろう。
けれども、慣れて積むべき経験はそこではない。
別人に成りきるのならば飲み込まなければならない自身の感情の数は多くなる。その上で別人としての感情を作り上げなければならない。
——淑女の仮面よりも難題なんだけど……。
だからと言って最初からあれこれと詰め込んでは、辿り着くのは高みではなく挫折である。
そう考えてイザンバは短くため息をついた。
「それにしてもリアンの淑女の仮面の認識がすごかったですね。いきなりは無理って言ってたけど、あんなの出来る人の方が少ないですよ。私も無理です」
「いえ、お嬢様はそれに近いことをされてますよ」
「いやいや、そんな事は……」
ジオーネの言葉にイザンバがついいつも通りに返したところ、パンっとヴィーシャが手を叩いた。
「はい、そこまで。お嬢様、褒められてんねやから素直に受けられた方が可愛らしいですよ」
「あ……」
ヴィーシャに指摘されてイザンバは口を手で押さえた。
——自信を持て
——自分を褒めろ
つい否定的な言葉を返したくなる彼女の中で想いをくれた人々の声が蘇る。
続いたジオーネの声も穏やかなもので。
「新参者のあたしたちでもそう思うんです。ご主人様や使用人たちの方がお嬢様の淑女の仮面の凄さをよく分かっています。何度も言われた事があるのでは?」
「……はい」
少し気落ちしたイザンバの声。誰かに「平凡ではない」と言われるたびにそれは身内の欲目だと躱してきた過去の自分の姿は確かにあって。
今は、欲目だとしてもその言葉を向けてくれた人に申し訳ない事をしたとイザンバは思う。
「ここだけの話やけど、あの捻くれ者のイルシーが一番最初にお嬢様の元で学ばせることを提案したんですよ」
「えっ⁉︎」
ヴィーシャの言葉にイザンバは驚きを隠せない。イルシーは元よりコージャイサンもそんな事は一言も言っていなかったのだから。
呆然とする彼女にヴィーシャは悪戯が成功した子どものように微笑む。
「それに公爵夫人から直々に手ほどきを受けといてそないな言い方は夫人にも失礼やと思いませんか?」
「それは…………はい、その通りですね」
真っ当な指摘にイザンバはしょんぼりと眉を下げて頷いた。
セレスティアを師としてその素晴らしさを誇るのはいい。しかし、師が認めたイザンバの淑女としての振る舞いを彼女自身が下げていてはどうだろう。これはとんだ無礼である。
「ほんならお嬢様、もう一回やり直しますよ」
ヴィーシャの言葉にイザンバが姿勢を正した後、ジオーネが揺るがない事実を彼女に浴びせる。
「お嬢様の淑女としての振る舞いは素晴らしいです」
「……はい。ありがとうございます」
どこか照れ臭さが隠しきれない笑みで賛辞を受け入れるイザンバに護衛たちはふわりと微笑んだ。
「ふふ、リアンと一緒にお嬢様も訓練しましょね」
「ビシバシいきますよ」
「うう……頑張るます」
火照る顔を手のひらで隠しながらイザンバも進む言葉を声に出す。
人が変わるためには意識して自己を改めていく事である。
イザンバもまたリアンと同じくして自身を認め、賞賛を素直に受け止めていく努力を積む。傷付き深く沈んでいた自己肯定感を修繕しながら。
「ねぇ。二人にお願いがあるんですけどいいですか? あのね、リアンが戻ったら——……」
顔を上げた彼女の申し出に護衛たちは静かに頷きを返したのであった。




